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ここではないどこかへ

 月のない夜だった。

『変わりたい』

 言葉にするのは、こんなに簡単なのに、実行するのはあまりにも難しい。

 だから、こんな決断をしたのだと思う。


『生きていく意味の喪失』と言えば、簡単なのかもしれない。そもそも、生きていく意味が自分の中にあったかは別問題だろう。

 ここ最近、考えてはいけないことを考えた夜もあった。しかし、それを実行に移すだけの度胸は持ち合わせていなかった。


 今夜も今夜とて、流れる時間は最悪なものだった。

 風呂上がりの洗面所に残った湿気も、鏡に映る自分の顔も、リビングから聞こえるテレビの笑い声も全て、嫌気が差してくる。

 逃げるように自分の部屋に戻って、スマホを手に取る。

 検索サイトで、『異世界に行く方法』と打ち込む。

 我ながら終わっていると思う。

 大学四年にもなって、就活サイトもろくに開かずに、オカルト頼みの現実逃避を繰り返していた。スマホの検索欄には、『異世界転移、異世界転生、方法、体験談』そんな単語が踊っていた。ここまでくると、自分で自分が心配になっていく。


 日付が変わる少し前。部屋の電気は煌々と付いたまま、机の上には開きっぱなしのノートパソコンがある。企業研究だの、自己分析だの、インターンだの、見るだけで気分が悪くなるような言葉が、大学のメールでも目に入るようになった。

 他の同学年の学生は、ちゃんと動いているらしい。この時期になっても、何も動いていないのは極々少人数なのかもしれない。説明会に行くとか、先輩に話を聞くとかそんなところだろう。俺には、無縁の話だ。

 

 何になりたいかなんて、分からない。どこで働きたいのかも分からない。自分に何が向いているのかさえ分からなかった。

 夢なら確かにあった。だが、それはプロ野球選手になりたいとか、宇宙飛行士になりたいとか、小さい頃、誰しもが憧れる漠然とした大きすぎる夢だった。思春期を迎えるとともに、そんな夢は捨てていた。


 時は流れ、今まだまだ先だと思っていたはずの大人の扉は、すぐ目の前まで来ていた。

 気づいたら、もう「そろそろ考えないとね」と言われる側に回っていた。そして、「そろそろ」の時期はあっという間に過ぎ去り、とっくに考えていることが、前提とされるべき時期へと突入した。

 何もやらなくていい生活を送りたい。働きたくない。社会の歯車として、死んでいきたくない。好きなことを好きなだけして遊んで生きていたい。楽して生きていたい。

 そんな夢物語を空想しても、無駄だということは考えるまでもなかった。


 どうにもならない現状から目を背けるように、ベッドに寝転がって、スマホを顔の上に掲げる。


『異世界に行く方法』


 候補がいくつも出てくる、異世界に行った人。異世界に行く前兆。異世界へ行く儀式。

 まとめサイトを開く。掲示板のまとめ。体験談っぽい書き込み。

 夜中の神社に行ったらどうとか、鏡を前にして呪文を唱えるだとか、寝ていたら知らない駅にたどりついただとか。どれもこれも胡散臭くて、ほとんどが嘘なのは分かっている、でも、ひょっとしたら本当の話も混ざっているのかもしれない。そんな気楽な考え方もしていた。

 自分は、都合のいい楽観主義者だと、つくづく思う。

 やり直したいと思わない。今の延長線上を上手くやり過ごしたいとも思わない。ただ、今ここにいる自分ごと、別の場所に放り出されたい。未来のことを考えると、あまりにも憂鬱になる。

 もし、異世界に行けたら、冒険譚や英雄譚のような生き方をしてみたいと妄想したりする。


 画面を下へ送る。

 その中のやけに簡素なページが、目に留まる。

 タイトルらしいものはなかった。

 黒い背景に、白い文字が並んでいるだけの味気ないページだった。

 広告もなければ、画像もない。個人サイトなのか、掲示板のログを抜き出しただけなのかも分からない。

 いかにも、古びた画面だった。

 しかし、妙に目が離せなかった。


 そこに書かれていた文章は、思っていたよりも簡潔だった。


 夜更け。

 風の向きが変わる時、人は今いる場所ではない匂いを、先に嗅ぐことがある。

 土の匂い。水の匂い。草の匂い。

 それが、この世界のものではないと分かったなら、君は異世界へと行けるだろう。


 スクロールする指が止まった。


 怪談としても、オカルトとしても、ずいぶん地味に感じた。もっと大袈裟に、神社や呪文や鏡、そういう分かりやすいものが出てくる方が最もらしい。だが、その地味さに、妙な説得力を感じた。


 さらにページの下へスクロールする。


 二時十三分。

 部屋の明かりを消す。

 窓を少し開ける。

 目は閉じず。

 違う匂いを感じたら、異世界へ行きたいと願え。強く強く。


 それだけだった。

 あまりにも雑だった。説明も補足もない。

 ただただ、やることだけが淡々と書かれている。

 注意書きも、成功談も、失敗談もない。


 壁に掛けられた時計で、時刻を確認する。

 零時を少し過ぎたところだと、長針と短針が告げていた。

 まだ二時間以上ある。


 スマホを持ったまま、天井を見上げる。白いはずの天井は、部屋の明かりの下で、妙にのっぺりとしていた。


 どうせ、何も起きない。

 理性が、そう語り掛けて来た。

 試したところで、何も変わらず、いつもの朝を迎える。そんなことは分かっている。しかし、試してみたいと思った。

 もし、何も起きなくても、失うものない。

 いや、とっくに何かを失っているのかもしれない。失ったものが多すぎて、何を持っていたのか忘れてしまった。


 ふと、机の上のパソコンに目を向ける。

 開けっ放しのメールの画面が、映っていた。

 企業セミナーの案内。就職支援課からのお知らせ。その他諸々。

 画面の右下には、未読の数が小さく並んでいた。

 返事をする気も、メールを開く気すらない。見ていないふりをして、今日まで来た。きっと明日も、明後日もそうすると思う。もうすでに、手遅れになっていることに気づくのが、あまりにも恐ろしくて。


 

 スマホを胸の上に置いて、目を閉じかける。

 さっきのページの一文が、フラッシュバックのように飛び込んできた。

 閉じかけた目を再び開く。

 すぐに、ベッドから起き上がる。

 何をしているんだろう、と自分でも思う。しかし、試さないという選択肢は、俺の中から消えていた。


 部屋の電気を消す。

 視界が、一気に暗闇に染まる。カーテンの隙間から、向かいの家の街灯が細く差し込んでいた。床の上に伸びた白い光の線が、冷たく見える。


 窓のところまで歩いて、鍵に手をかける。手前に引くと、がらり、と乾いた音がした。

 一瞬だけ、その音の大きさに息を止めた。

 窓を少し開ける。

 外気が流れ込んできた。春の終わりとも夏の始まりでもない、中途半端な夜風だった。

 アスファルトの匂い。遠くの植え込みの青臭さ、湿り切っていないコンクリートの匂い。どこにでもある住宅街の夜の匂いだった。

 何か変な匂いが、するわけもない。


 ベッドに戻る。

 スマホの画面を点ける。時刻は、零時二十分を少し回ったところだった。まだ随分とある。

 二時十三分まで起きているつもりなのか、と自分に聞きたくなる。

 

 寝てしまってもいいだろう。

 こんな思いつきにすぎないものが、強力な睡眠欲に勝てるはずがない。

 そう思いながらも、さっきの簡素なページに戻ってしまう。

 下のほうに、短い文があった。さっきまでは、見落としていたらしい。


 向こう側へ行きたい者は多い。

 だが、皆本気でそれを望んではいない。


 見透かされている気がした。結局、お前は変える勇気が、度胸がないのだと。

 夢もない。覚悟もない。頑張る理由も見つからない。

 それなのに、何か大きなものに救われたいと思っている。

 だって仕方がないじゃないか。自分のような持たざる者には、この世界は残酷なのだから。


 スマホを握ったまま、ベッドに深く沈み込む。

 向こう側なんて、あるはずがない。あるわけがないのに、もしかしたらを想像してしまう。

 今の延長線上ではない場所。この部屋も、この先の不安も、何もかも繋がっていない場所。そんなものがあるとするならば、一度くらい見てみたかった。


 

 スマホの光で、少しずつ目が痛くなってくる。

 何度も同じページを見返して、同じ文章を追っているうちに、頭の中の輪郭が鈍っていく。眠気なのか、疲れなのか、自分でもよく分からない。

 時刻は、いつの間にか一時を回っていた。

 起きているのも面倒だった。何度その思考に至っただろうか。

 そんなことを思い続けているのに、窓を閉める気にはなれなかった。開いている隙間から、夜風が細く流れ込んでいる。その度に、外の匂いが、薄く部屋の中へ混ざった。


 再び、スマホを胸の上に置く。ページは、まだ開いたままだった。

 向こう側へ行きたい者は多い。

 その一文が、頭に残っていた。

 行きたいというより、逃げたいだけなのかもしれない。それでも構わない。

 逃げた先に何があるのかは知らない。知らないままでもいい。ただ、このまま明日になって、顔の知らない不安に押しつぶされるのが、たまらなく嫌だった。


 瞼が重い。画面の文字も、少しずつ滲んで見える。

 もう一度だけ、窓の方へ顔を向ける。街灯のぼんやりとした明るさだけが、夜を半端に照らしていた。


 スマホを持つ指の力が抜けていく。画面の光が、うっすらと瞼の裏に残る。

 外から入り込む夜風は、さっきより少しだけ冷たくなっていた。

 次第に、意識が沈んでいく。

 考えていたことも、不安も、部屋の輪郭も、ゆっくりと水に溶けるように曖昧になっていく。

 そして、最後の最後まで強く強く願っていた。

 

 ここではない。どこかへ。


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