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星々に君と照らされて

 止まっていた時間が、何事もなかったようにまた滑り出す。扇が開き、裾が揺れ、白い手袋が離れていく。楽団も、次の曲へ移るためのわずかな間を、息を潜めるように抱えていた。

 エレオノールの手が、指先からそっと離れる。


 離れたはずなのに、その軽さだけが白い手袋の上に残った。


「ありがとうございます」


 彼女はそう言って、胸元で扇を閉じた。薄青のドレスは、曲が終わったあとも名残のように揺れている。さっきまで音楽の中にいたせいか、その立ち姿まで灯りに溶けて見えた。

 礼を返そうとした時、近くへ別の一組が流れ込んできた。若い男が笑顔のままこちらへ会釈し、その隣の貴婦人は扇の陰から目だけを向ける。舞踏会は、一曲終わったくらいでは二人を休ませてくれないらしい。


 エレオノールの父も、少し離れた場所からこちらを見ていた。表情は変わらない。

 その時、エレオノールがほんの少しだけ身を寄せた。

「少しだけ、外へ出ませんか」

 広間の熱に押されての誘いを断る理由が見つからない。

 頷くと、彼女は小さく安堵したように目を細める。

 それから、広間の端にある白い柱の向こうへ向かった。花で飾られた壁際を抜け、背の高い窓の並ぶ一角へ出る。そこまで来ると、楽の音はまだ近いのに、人のざわめきだけが一枚薄く隔てられたみたいに遠くなった。


 白いカーテンの脇に、細い扉があった。

 夜の風が、布の端をわずかに揺らしていた。

 彼女がそちらへ向かうのを見て、あとを追う。


 外へ出る。

 そこは、広間に寄り添うように張り出した石造りの露台だった。宮殿の壁から伸びる、細長いバルコニー。

 手すりは白い石で、そこへ等間隔に花鉢が置かれている。淡い色の花が夜露を受けて、広間の灯よりも静かに濡れていた。蝋燭の灯もいくつかあるが、どれも控えめで、夜の世界をぼんやりと浮かび上がらせていた。


 そのお陰で、空がよく見えた。

 無数に瞬く星々があった。


 広間の天井から降る燭火とは違う。もっと遠く、もっと静かで、もっと冷たい光だった。

見上げるほど奥へ続く夜の底に、細かな星々が散っている。あの大広間が夜空を真似ているのだとしたら、本物はあまりにも深く、到底手が届く代物ではなかった。


 しばらく、どちらも何も言わなかった。

 涼しい風が吹く。

 甘くまとわりついていた香りがほどけて、代わりに石の冷たさと夜の湿り気が頬を撫でた。広間の中では息を吸うことさえ窮屈に感じていたのに、ここではようやく胸一杯に空気を吸い込める。


 エレオノールが手すりへ片手を添える。白い手袋の上に、星明かりがかすかに乗った。

「ここへ出ると、別の夜みたいですね」

 視線は空へ向いたままだった。

「同じ夜のはずなのに、あちらでは星が見えませんもの」

 光が多すぎると、見えなくなるものがある。

「……よく、ここへ?」

 そう尋ねると、エレオノールは少しだけ笑った。

「この前お招き頂いた時に、あなた様に教えて頂いたのをお忘れですか?」

 彼女は、少し悪戯っぽく笑う。

 広間にいた時より、肩の線がやわらいで見えた。扇ももう胸元ではなく、指先に力なく下がっている。


「今夜は特に、皆様、浮き立っています」

 浮き立っているからこそ、誰もが誰かを見ている。笑みの数だけ視線があり、音楽の数だけ思惑がある。

「……疲れる?」

 気づけば、そんな言葉が口から落ちていた。

 エレオノールがこちらを見る。そんなことを聞かれると思っていなかったのだろう。口が、小さく開いたままだ。

 それから目を伏せる。

「はい」

 声は小さい。

「でも、それは仕方のないこと。私は貴族の生まれですから」

 夜風が、薄青の裾を揺らす。彼女はそれを押さえながら、星空へまた視線を戻した。

「美しいことも、羨ましがられることも、ありがたいことですものね」

 貴族としての誇りと責任が、彼女から伝わってくる。


 広間の中から見れば、たしかに彼女はそうなのだろう。灯りの中心にいて、花と宝石に囲まれ、誰の目にも美しく映る人。けれど、今ここで隣にいる彼女は、普通の可愛らしい女の子だった。

「……疲れないわけがないよ」

 エレオノールが、ゆっくり顔を上げる。

「ずっと見られている」

 それだけ言ってから、自分も同じことを感じていたのだと分かった。広間へ入ってからずっと、灯りと視線と音楽の中で、どこにも息を抜く隙間がなかった。

 彼女の表情が、やわらぐ。

「そうですね」

 誰かと同じ考えを共有出来ることが、こんなにも嬉しいことだったのか。

「……その言葉を聞けるとは思いませんでした」

 そう言って、彼女は、ほんの少しだけ距離を詰める。

「皆様、綺麗ですね、とか、今夜はお美しいです、とか、そういうことしか言いませんもの」

 たしかに、それも嘘ではないのだろう。

 実際、彼女は綺麗だった。だが、それを伝えたら、どんなに取り繕ってもその言葉は、とても軽く安いものになってしまう。

 だから、代わりに空を見上げる。

 星は、広間の燭火では、照らせない高さで瞬いていた。

「本当に、お会いできないのではと思いました」

 同じことを、再び聞いた。

「今夜は、兄君方も皆いらして、御父上も御母上もご覧になっていて……そんな夜に遅れるなんて、あまりないことでしょう?」

 あまりないのかもしれない。きっと、そうなのだろう。

 己が今宿っているこの身体の持ち主のことは、一切知らないから答えられない。

「少し、怖かったのです」

 彼女は、手すりの上へそっと指を重ねる。白い石の上で、その指先だけがかすかに震えて見えた。

「何かが、変わってしまうのではないかと」

 もう変わってしまっている。

 それを口にすることは、絶対にできない。


 ただ、彼女の横顔を見る。頬にかかる灯りはやわらかく、睫毛の影だけが少し長い。

「……変わらない」

 口に出してから、それが約束になってしまうと気づく。

 けれど、エレオノールは、その危うさを問い詰めようとはしなかった。

「はい」



 夜風がまた吹く。

 広間から、遠くなった楽の音が流れてくる。弦がひとつ高く鳴り、そのあとにいくつもの音が重なる。中ではまだ、舞踏が続いているのだろう。

「星がお好きなのですか」

 そう尋ねると、エレオノールは空を見上げたまま頷いた。

「好きです。綺麗に輝くこの星々には何があるのか、毎夜のように空想しています」

 彼女は、少し間を置く。

「……羨ましいとも思います」

「届かないから、綺麗なのかもしれない」

 そう返すと、彼女は小さく笑った。

「意地悪ですね」

「そうかもしれないですね」

「でも、少しだけ好きですよ。そういう言い方」

 そう言って、エレオノールはほんの少しだけ目を細めた。

 返す言葉が見つからず、また空を見上げる。

 星は、さっきと変わらず静かに瞬いていた。あれほど遠いのに、まるで手を伸ばせば触れられそうな気さえしてくる。広間の燭火より、ずっと冷たく、ずっと優しい光だった。

 彼女も、隣で同じ空を見ている。

 肩が触れるほど近くはない。けれど、離れすぎてもいない。その微妙な距離が、この世界らしかった。近づきすぎれば礼を失し、離れすぎれば言葉のぬくもりまで逃げてしまう。だから二人とも、その間を静かに守っていた。

「……明日も晴れるでしょうか」

 彼女が、空を見たまま呟く。

「晴れてくれないと困ります。せっかくの三日三夜ですもの」

 この舞踏会が、三日も続くのか。それが、憂鬱なのかは、まだ分からなかった。でも、彼女が横にいてくれるのなら、よりよいものになるかもしれない。

「晴れると願っておくよ」

 そう返すと、エレオノールはゆっくりとこちらを見た。

「あなた様は、星を見て何を考えるのですか」

 すぐには答えられなかった。

 何を考えるのか。そんな綺麗な問いに似合う答えを、自分は持っていない気がした。

 それでも、しばらく黙った末に言う。

「……遠いな、と思う」

 エレオノールの睫毛が、かすかに震えた。

「届かないくらい遠いのに、見えているのが不思議で」

 言い終えてから、自分でも妙な答えだと思う。けれど、彼女は笑わなかった。

「そういうところは、お変わりなくて少し安心します」

 お変わりなく。

 その言葉に、胸の奥が小さく痛んだ。

 変わってしまっている。もう同じではない。けれど、それを言えば、この静かな夜まで壊してしまいそうで、ただ視線を逸らすしかなかった。


 白い石の手すりへ目を落とす。

 夜露が、薄く光っていた。エレオノールの指先がそこへ置かれている。細くて、白くて、ひどく繊細に見える指だった。触れたいと思うのに、触れてしまえば何かを越えてしまう気がした。

 その代わりに、すぐ隣の花鉢へ手を伸ばす。風に揺れていた白い花びらが一枚、石へ落ちかけていた。指先でそっと戻す。

「優しいのですね」

「そんなことはない」

「あります」

 彼女は言い切るわけでもなく、やわらかくそう言った。

 その一言が、広間のどんな音楽よりも静かに残る。

 しばらく、二人で黙っていた。

 遠くで弦が鳴る。扉の向こうで、まだ舞踏会は続いている。笑い声も、衣擦れも、きっと絶えないのだろう。けれど、この露台だけは、そこから半歩だけ外れた場所にあった。華やかな夜に寄り添いながら、同時にその外側でもあるような、曖昧で美しい場所だった。

 エレオノールが、そっと息をつく。

「今夜は、よく眠れそうです」

 その声音には、少しだけ安堵が混じっていた。

「会えたから?」

 そう尋ねると、彼女はわずかに頬を染めた。広間の灯ではなく、星明かりの下だから分かったのかもしれない。

「……そういうことに、しておきます」

 その曖昧さが、ひどく可愛らしいと思う。そう思ったこと自体が、自分の胸を少し驚かせた。

 不意に、広間へ通じる扉の向こうで人の気配がした。

 老従者だった。

 エレオノールもそれを感じたのだろう。扇を握り直し、最後にもう一度だけ空を見上げる。

「綺麗ですね」

 それが星のことなのか、この夜のことなのかは分からなかった。

「……ああ」

 それだけ返す。

 彼女は、ようやく広間の方へ身体を向けた。けれど、すぐには歩き出さない。言い残したことがあるように、少しだけ迷う。

「明日も」

 そこで、言葉が止まる。

 最後まで言わせるのが礼なのか、自分から繋ぐべきなのか、一瞬だけ迷った。けれど、その迷いより先に口が動く。

「明日も、一緒にここで星空を見よう」

 エレオノールの表情が、ふっとほどける。

「はい」

 彼女が、先に歩き出す。

 薄青のドレスが夜気をひとすじ掠め、花の香りをわずかに揺らす。扉の手前で一度だけ振り向き、それから静かに微笑んだ。その一瞬だけ、広間の灯りも、家々の思惑も、全部遠くなる。

 微笑みだけが残る。


 遅れてあとを追う。

 広間へ戻る直前、もう一度だけ夜空を見上げた。

 無数の星が、変わらず瞬いていた。

 誰の視線も浴びず、誰に飾られることもなく、ただ遠くで光っている。その静けさが、今夜の終わりにふさわしいように思えた。

 広間へ戻れば、また灯りと音楽と視線の中へ入るのだろう。アルベールの重い横顔も、ルシアンの気遣うような声も、シリルとフェリクスの遠い距離も、父と母の視線も、すべてそこにある。


 扉をくぐる。

 熱が戻る。灯りが満ちる。音楽が耳へ流れ込む。

 

 この世界での初夜は、こうして更けていった。

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