優雅な朝
目が覚めた時、昨夜の星空が、まだ瞼の裏に残っている気がした。
柔らかな寝台の感触。重たい掛布のぬくもり。窓の向こうから差し込む、白く冷たい朝の光。夜の宮殿はあれほど甘やかだったのに、朝の光は現実を突きつける。磨かれた床も、濃紺のカーテンも、四柱風の寝台も、その光の下では静かに輪郭を持ち直している。
部屋は昨日寝る前と同じ部屋のはずなのに、夜とはまるで違って見えた。
蝋の匂いは薄れ、代わりに朝の冷えた空気と、濡れた石の匂いがわずかに混じっていた。バルコニーへ通じる窓の外では、どこか遠くで鳥が鳴いている。あの農村で聞いた乾いた鳴き声とは違う。もっと細く、整えられた庭の木々に似合う音だった。
身体を起こす。
昨夜の礼装は、もう綺麗に片づけられていた。代わりに、今日着るらしい衣服が整えられている。濃紺ほど重くはないが、白と灰を基調にした上着だった。肩には控えめな刺繍。夜のためではなく、昼の宮殿にふさわしい静けさを持った服だった。
枕元に残る花の香りが、ふとバルコニーの夜風を思い出させる。
思い出した途端、それが夢ではなかったのだと分かる。あの露台も、星も、薄青のドレスも、全部紛れもない昨夜のことだった。
そのことに、少しだけ救われる。
だが同時に、この世界がまだ終わっていないことも思い知る。二日目が、もう始まっている。
扉が控えめに叩かれた。
「お目覚めでいらっしゃいますか」
老従者の声だった。
「……ああ」
返すと、扉が静かに開く。
昨日と同じ男が一礼して入ってくる。灰色の髪は今日も乱れなく整えられていて、黒衣の皺ひとつない。
「ご朝食の席が整っております。お父上様もお母上様も、アルベール様も、ルシアン様もお待ちです」
待たせている、という響きに軽い息苦しさを覚える。
村では、起きればもう仕事が始まっていた。遅れても叱られたかもしれないが、あそこには形式はなかった。ここでは、朝の席に着くことひとつにも順番と意味があるらしい。
「シリル様とフェリクス様も、今朝は宮殿へ」
従者が続ける。
「昨夜はお二方とも遅くまでお引き止めにあっておられましたが、先ほどご到着と伺っております」
頷いて、衣服へ手を伸ばす。
着替えは、夜よりはましだった。袖を通し、留め具を留め、襟元を整える。その間じゅう、従者は必要以上に口を挟まない。ただ、手袋の位置を少し直し、上着の裾が捻れているのを一度だけ正した。
鏡の前に立つ。
夜のきらびやかさを脱いだ姿は、昨日より少し年相応に見えた。あの重すぎる礼装を着ていた時より、ずっと人間に近い。あの貧しい村にいた時に比べれば、随分と立派だが。
部屋を出る。
廊下には、朝の光が高窓から斜めに落ちていた。壁の肖像画も、金の額縁も、その光の下では冷えた威厳を取り戻している。
使用人らしき人たちが、静かに行き交っていた。
銀盆を運ぶ者。花を替える者。扉脇の燭台を拭く者。誰もが忙しなく動いているのに、音だけは最小限に抑えられている。
長い廊下の途中で、窓の外が見えた。
庭園だった。
白い石の小径。冬ではないのにどこか涼しげな噴水。手入れの行き届いた生垣。朝の光を受けた花々。昨夜の星空に照らされていた世界が、今は昼の輪郭の中に立っている。
綺麗だった。
幻想ではなく、管理され、整えられた美しさ。
扉の向こうには、すでに人が揃っていた気配を感じた。
長い卓の上には白い布がかかり、銀器が整然と並んでいる。窓から入る朝の光を受けて、皿の縁やナイフが冷たく光っていた。花瓶の花も、夜の舞踏会で見たそれよりずっと控えめだ。
アルベールが、卓の上座寄りに座っていた。姿勢に無駄がない。隣にはルシアンがいる。
向かいには、シリルとフェリクスがいた。
昨夜の光の中では華やかさが先に立っていた二人も、朝の明るさの下では違って見える。シリルは静かだった。フェリクスはそれより軽やかで、椅子に座る姿までどこか人目を惹く。
父親と母親も、すでに席についていた。
ルシアンが、椅子を少し引いて示す。
「お前も早く座って食べよう」
その一言に、さりげない気遣いが混じる。
席につく。食堂の光は、舞踏会の灯よりずっと残酷だった。誰の目も、夜みたいに柔らかくはない。昨夜の自分がどんな顔をしていたのか、今さら気になった。
フェリクスが、先に口を開いた。
「昨夜は、なかなか見事だった」
笑っている。だが、からかっているつもりはないのだろう。
「最初の一曲で足を踏まないなら上出来だ」
その言い方に、シリルが杯を置きながら静かに言う。
「お前は最初の夜、二度踏んだ」
「それは違うぞ。三度だ」
その会話に、ふっと空気が緩む。
アルベールは呆れたように眉を寄せたが、止めはしなかった。ルシアンが目だけでこちらを見て、ほんの少し笑いを含ませる。そのささやかなやり取りだけで、兄たちが悪人ではないことが伝わった。
父はそれを遮らず、ただ短く言う。
「二日目は一日目より見られる」
それだけで、場の空気がまた締まる。
「建国の祝宴は三日で一つだ。誇りある我が家の気品を損なわないことを心がけ、大いに楽しめ」
父はナイフを置き、こちらを見る。
建国記念を祝う王家の祝祭のようなものなのだろう。
表向きは華やかな宴。その裏にある大人たちの思惑なんて何も知らないガキに分かるはずもなく。
母が続ける。
「今夜は庭園も開かれます。昼にどなたと歩き、夜にどなたと踊るか。よくよく考える事です」
フェリクスが、小さく息を吐く。
「建国を祝う宴のはずなのに、誰も星より人の足元ばかり見ている」
その言葉に、シリルがわずかに口元を動かした。笑ったのかもしれない。
「だからこそ、祝宴の形を保てるんだ」
その返しは淡々としていた。諦観に近いのかもしれない。
ルシアンが、こちらへ皿を少し寄せる。
「食べておけ。今日も忙しくなるぞ」
見れば、朝食は夜の舞踏会に比べて控えめでも、村の鍋底とは比べものにならない。薄く焼かれたパン、果実、やわらかな卵料理、香りのよい茶。
食卓での会話は長く続かなかった。
必要なことだけが交わされる。誰がどの客へ顔を出すか。誰がいつ王の前へ出るか。どの時間に庭園が開くか。家族の朝食というより、静かな確認の場に近かった。
それでも、冷たいばかりではない。
フェリクスが果実を切りながら「エレオノール嬢は昨夜、ずいぶん機嫌がよさそうだった」と言うと、ルシアンがそれを咎めるように視線を向ける。シリルは何も言わないが、杯の縁でかすかに笑いを隠した。アルベールだけは顔を上げなかったが、それでも完全に無関心なわけではないのだと分かる。
父と母が席を立つと、空気が少し変わった。
フェリクスが、椅子にもたれた。
「昼の庭園は、夜よりも注意しろ」
そう言って、こちらを見る。
「星が消えるぶん、顔色も誤魔化せない」
ルシアンがすぐに言う。
「あまり脅すな」
「脅してるわけじゃない。優しさだ」
「お前のそれは、だいたい余計だ」
そのやり取りに、シリルがようやく言葉を挟む。
「だが、間違ってもいない」
視線だけがこちらへ向けられる。
「昼は夜より、よく見える」
短い一言だった。
朝の光はまだ窓の外に満ちている。庭園の白い石も、噴水の水も、宮殿の壁も、その光の下で輪郭を取り戻していた。昨夜の魔法は終わっていない。ただ、昼の現実がその上に重なり始めている。
そしてその現実の中で、今日もまたエレオノールに会うのだろうと思った。




