陽だまりの中で二人で歩く
朝餐の間を出ると、朝の光が廊下の奥までまっすぐ伸びていた。
高窓から差し込む白い光は、昨夜の蝋燭の灯とはまるで違う。やわらかく見えて、その実、何もかもをはっきりと照らし出す。
夜の宮殿は、夢の続きを見せる場所だった。
だが、昼の宮殿は違う。
隠しようのない秩序と、家の重さと、ここに生きる人々の立場まで、全部が白日の下にさらされていた。
後ろで食堂の扉が静かに閉まる。
その音で、さっきまでの兄たちの声や、銀器の触れ合う小さな音も、ひとまず遠くなった。
少しだけ、一人になれた気がした。
とはいえ、完全に一人ではない。廊下には、使用人たちが静かに行き交っている。花を替える者。銀の燭台を磨く者。長い布を腕に抱えたまま、階段を上がっていく者。
しばらく、あてもなく歩く。
ルシアンに言われた通り、東の回廊へ向かっていた。人が少ない、と彼は言った。たしかに、その通りだった。広間へ近い方角に比べて、このあたりは空気まで少し薄い。遠くで聞こえてくるのは、どこかの部屋で椅子が動く音と、誰かが低い声でやり取りする気配くらいだった。
昨夜の星空が、まだ胸のどこかに残っている。
あの露台の冷たい夜気も、エレオノールの薄青のドレスも、「はい」と返した時のやわらかな声音も、全部ちゃんと昨夜のことだった。
夢ではなかった。
廊下の途中で足が止まる。
高窓の向こうに、庭園が見えた。
白い石畳。刈り込まれた生垣。噴水の水。朝より少し高くなった陽が、花々の上へやわらかく落ちている。夜の星明かりに照らされていた同じ場所のはずなのに、昼の光の中ではまるで別の景色だった。
綺麗だった。
幻想というより、管理され、整えられた美しさだった。咲きたいように咲いている花ではなく、咲くべき場所に咲かされている花々。噴水の水音まで、この宮殿の一部として置かれているように聞こえる。
それでも、目を引かれた。
回廊をさらに進む。
壁に掛けられた大きな絵の前を通り過ぎ、柱の影を抜ける。窓から入り込む風は、朝より少しだけ温度を持っていた。花の匂いも混じっている。夜の香油や蝋の甘さではなく、土と葉と水を薄く溶かした、昼の庭の匂いだった。
白い扉が、半分だけ開いていた。
その向こうから、噴水の音がはっきり聞こえる。
ほんの少しだけ迷う。
庭へ出たところで、何があるわけでもない。
それでも、足は止まらない。
外へ出る。
陽の光が真正面から差してきて、思わず目を細めた。
夜の露台では、灯りの外側に星があった。昼の庭園では、光そのものが世界を満たしていた。白い石畳は明るく、水面は揺れ、花々は夜よりもずっと鮮やかな色を持っている。淡い薔薇、白、薄黄、柔らかな青。どれも手をかけられ、咲くように咲かされている花だった。
少し歩く。
回廊の影を抜けた先に、噴水があった。水が二段に落ち、小さな白い飛沫を散らしている。その周りに花が植えられ、石の縁には陽が溜まっていた。
その噴水のそばに、ひとり、薄青の色が見えた。
夜明け前の空を溶かしたみたいな色。
昨夜、星空の下で見たものと同じ色なのに、昼の光の中ではまた違って見えた。やわらかく、静かで、それでいてどこにも紛れない。
エレオノールだった。
噴水の水音を聞いているのか、まだこちらには気づいていない。横顔は陽に照らされ、昨夜よりも少しだけ近い現実の中にあった。星の下では触れれば壊れそうに見えたのに、昼の光の中では、ちゃんとこの世界の空気を吸って立っている一人の人間に見える。
それでも、目を離せなかった。
噴水の水が、陽を受けて細かく光っている。
その飛沫の向こうに立つエレオノールは、昨夜の星空の下よりも輪郭がはっきりしているはずなのに、なぜか少し朧げに見えた。昼の光が強すぎて、かえって現実味が薄れているのかもしれない。
一歩、足を踏み出す。
石畳の上で靴音が小さく鳴る。その音で気づいたらしい。エレオノールがゆっくり振り向いた。
薄青の裾が、わずかに揺れる。
一瞬だけ目を見開いて、それからすぐにやわらかな表情になった。
「やはり、いらしてくださったのですね」
「来ないほうが、かえって不自然だと思った」
そう返すと、エレオノールは小さく笑う。
「それは、たしかにそうかもしれません」
扇は持っていたが、広間にいた時のように胸元へ構えてはいない。片手で軽く下げたまま、こちらへ半歩だけ寄る。
「お庭はお好きですか」
「美しいと思います」
答えになっていない素直な言葉に、彼女はまた笑った。
「はい。わたくしもそう思います」
昼の光の中で見るその笑顔は、昨夜より少しだけ年相応だった。星明かりの下では大人だったのに、今は少女の顔をしている。
噴水のそばに立ち尽くしたままでは、目立つ気がした。そう思った時には、彼女が小径の先へ視線をやっていた。
「少し、歩きませんか」
頷く。
二人で並んで歩き出す。肩が触れるほど近くはない。けれど、遠すぎもしない。昨夜の露台と同じように、その中途半端な距離だけは丁寧に守られていた。
噴水を離れると、水音が少しずつ遠くなる。代わりに風が、木々の葉を揺らすかすかな音が聞こえてくる。石畳の両脇には花が植えられ、白や淡い薔薇色の花弁が陽を受けてやわらかく透けていた。どれも整えられているのに、息苦しいほどではない。宮殿の中より、少しだけ自然の側へ寄っている気がした。
「昨夜は、よくお休みになれましたか」
エレオノールが前を向いたまま尋ねる。
「たぶん」
「たぶん、ですか」
「よく眠れたと思う。でも、目が覚めた時、昨日の夜のこと思い出していたよ」
言ってから、少し気恥ずかしくなる。
「……わたくしもです」
その一言が嬉しいのは、たぶん隠しようがなかった。
小径はゆるやかに折れ、低い生垣の向こうに白い小卓と椅子が見えた。昼の茶でも出すための場所だろう。今は誰もいない。遠くで使用人らしき人影が一瞬見えたが、こちらに気づくとすぐに別の道へ逸れていった。
「今日は、昨夜より気が重いですか」
エレオノールの問いは静かだった。
「重い、というより……よく見えるんだと思う」
「何がですか」
「全部」
足元の石を、見ながら言う。
「ルシアン様に似たことを仰るのですね」
「そうなのか」
「ええ」
その言い方に、思わず口元が緩む。
エレオノールもそれに気づいたらしい。やわらかく笑って続ける。
「昨夜の露台では、あなた様は夜の方がお好きなのかと思っていました」
そう言って、エレオノールは足元の花へ目を落とした。薄青の裾の先で、白い花びらがひとひらだけ揺れる。
「昨日までは、たぶんそうだった」
答えながら、小径の先を見る。陽の光は明るいのに、庭の奥にはまだ朝の名残みたいな薄い影が残っていた。白い石も、花の色も、噴水の水も、何もかもが昨夜よりはっきり見えている。なのに、こうして彼女と並んで歩いていると、昼の庭まで少し夢の続きみたいに思えた。
「では、今は違うのですか」
「少しだけ」
エレオノールが、こちらを見る。
「どうしてですか」
彼女の問いには、すぐには答えられなかった。
花の匂いが、風に乗って少し濃くなる。遠くで水が落ちる音がする。そのあいだに、言葉を探した。
「夜は綺麗すぎるんだと思う」
一文字ずつ言葉を紡ぐ。
「綺麗すぎて、何もかも夢みたいに見える。でも昼は……ちゃんと存在しているって分かるから」
言ってから、少し迷う。
「君も」
エレオノールはすぐには何も言わなかった。けれど、頬にほんのりと色が差す。昨夜の星明かりの下では分からなかった変化だった。
「それは……嬉しいです」
そう返した声は、小さかった。
小径の脇に、白い薔薇が咲いていた。咲きたてなのか、花弁の端がまだやわらかい。エレオノールが立ち止まり、そっとその花へ顔を寄せる。香りを確かめるような仕草だった。
「夜より昼の方が、花の色綺麗に見れますね」
「星とは逆だね」
「そうですね」
彼女は微笑む。
「星は遠いから綺麗で、花は近いから綺麗なのかもしれません」
君とまた歩き出す。
小径は、緩やかに庭の奥へ続いていた。低い生垣の向こうに、白い小卓が見える。
誰もいない。
「建国の祝宴、三日三夜も続くのですね」
ふいにエレオノールが言った。
「幼い頃は、ただ嬉しいばかりでした。新しいドレスを着て、大きな広間へ入って、夜更かしをしても叱られなくて」
少し笑う。
「でも、大人になるにつれて、だんだん違うものが見えてきます」
その言葉に、昨夜の彼女の「疲れる」という声を思い出す。
「何が見える」
そう尋ねると、エレオノールはすぐには答えなかった。
風で揺れた花を、指先でそっと戻す。昨夜、露台で自分がしたのとよく似た仕草だった。
「皆が、ただ楽しんでいるわけではないことです」
声はあくまでやわらかい。
「誰と踊るか、誰と話すか。そんなことで空気が変わってしまうのだと、少しずつ分かるようになりました」
小さく息をつく。
「それでも、やはり綺麗だと思ってしまうのです。光も、音も、花も、星も」
そこで、こちらを見る。
「だから余計に、少しだけ苦しいのかもしれません」
その言葉が胸に残る。
綺麗だからこそ苦しい。嫌いなら、もっと簡単だったのかもしれない。
「……分かる気がする」
そう言うと、エレオノールは目を細めた。
「はい」
しばらく、二人で黙って歩いた。
沈黙は重くなかった。噴水の音と風の音が、そのあいだを埋めてくれる。言葉がなくても、一緒に歩いているだけで、どこか満たされた。
ふいに、エレオノールが足をゆるめる。
「昨夜のことを、思い出していらしたのですね」
さっきの言葉の続きを拾うように、そう言った。
「うん」
「……どのあたりを?」
問い方が、少しだけ慎重だった。
少し考える。
星空。夜気。薄青のドレス。どれも思い出していた。
「星も」
まず、そう言う。
「それから、あの夜の風も」
そこまで言って、足りない気がした。
「……あなたの声も」
小さく付け足す。
隣の彼女が、息を呑む気配がした。
視線は前へ向けたままなのに、その沈黙だけで十分だった。
少しして、彼女がごく小さく言った。
「わたくしも、です。昨日のこと、今朝起きてすぐに思い出しました」
頬を染めたまま、こちらを見ずに続ける。
「……不思議ですね。一夜しか過ごしていないのに、ずっと前のことのようでもあって、つい先ほどのことのようでもあって」
「たしかに」
そう返すと、彼女はようやくこちらを見上げた。
昼の光の中のその目は、昨夜よりもやわらかくて、少しだけ心許ない。それがたまらなく綺麗だった。
「今夜も、露台へ出られますか」
彼女からの誘いが、たまらなく嬉しい。
「出られるようにする」
そう言うと、エレオノールは少し笑った。
「“行く”ではなくて?」
慌てて言い直す。
「行く」
少し遅れて、次の言葉を口にする。
「今夜も、一緒に」
その一言で、彼女の表情がふわりとほどけた。
「はい」
小径の先で、風がまた花を揺らす。
白い薔薇の香りが、一瞬だけ強くなる。空は高く、青く、どこまでも明るい。昨夜の朧な星空とは何もかも違うはずなのに、不思議とその続きの中を歩いている気がした。
穏やかな昼は、そうしてゆっくりと二人のあいだに馴染みはじめていた。




