昼餐の刻
昼の鐘が、遠くでやわらかく鳴った。
その音で、二人とも足を止める。
庭園の小径はまだ先へ続いていたが、いつまでも歩いていられるわけではないらしい。宮殿のどこかで、使用人たちが次の支度を始めているのだろうと思う。花の匂いのあいだにも、時間だけはきちんと流れていた。
「昼餐のお時間ですね」
エレオノールが言う。
「そうみたいだ」
そう返すと、彼女は小さく頷く。
噴水の水が、変わらず白い光を散らしている。つい今しがたまで近くにあった彼女の横顔が、その水音ひとつで少し遠くなる気がした。
「今夜も」
エレオノールはそこまで言って、薄く笑う。
最後まで言い切らなくても、もう十分だった。
「うん」
それだけ返す。
彼女はそれを聞いて、安心したように目を細める。それから裾を揺らし、小径の途中でゆっくり振り返った。
「では、また後ほど」
「また後で」
別々の方向へ歩き出す。
昼の庭園は明るかった。明るすぎるほど明るいのに、その別れ際だけはなぜか少し朧げで、夢の端をそっと畳むみたいだった。
回廊へ戻る。
白い石の壁に、陽の光が静かに広がっていた。庭のやわらかい匂いはまだ服に残っている気がした。昨夜の星明かりの下で別れた時とは違う。今日は、また夜に会えると分かっている。その小さな確かさが胸の内にあるだけで、足どりが少しだけ軽くなる。
もっとも、宮殿はそれを長くは許してくれなかった。
昼餐の間へ近づくにつれ、人の気配が増える。低い声。器の触れる音。扉の脇に立つ使用人たち。昼の光の中でも、この場所の秩序は少しも揺らがないらしい。
案内されるまま扉をくぐる。
朝餐の間より少し広い部屋だった。高い窓から差し込む光が、長い卓の白い布の上をまっすぐ流れている。銀器の縁はひんやりと光り、淡い花を挿した花瓶が控えめに並んでいた。夜の舞踏会の花々が咲きこぼれるような美しさなら、昼餐の花は静かな慎ましさと高嶺の可憐さだった。
席には、父と母。アルベール。ルシアン。少し遅れて入ったシリルとフェリクスも、それぞれの席にいる。
アルベールは相変わらず、背筋ひとつ崩さない。そこに座っているだけで、この家の長い影がそのまま形になったみたいに見える。ルシアンはもう席についていたが、こちらに気づくと目だけで椅子を示した。気づかれないくらい小さな仕草だった。けれど、そのささやかさがありがたい。
シリルは静かに杯を指先で回している。養家の者としてここにいるはずなのに、不思議と場に馴染みすぎていた。フェリクスは昼の光の下でもやはり華やかだった。人目を引く魅力がある。
「今回は遅れていないな」
「ごめん」
そう返すと、フェリクスがすぐに笑う。
「珍しいな。お前が素直なのは昼のうちだけか?」
「やめろ」
ルシアンが短く言う。
フェリクスもそれ以上は続けず、ただ肩をすくめる。
席につく。
昼餐は朝より少し華やかだった。薄く焼かれた白いパン、香草の香りを移した肉、やわらかな野菜の煮込み、透き通った葡萄酒。村で見た薄い汁が、ほんの一瞬だけ頭をよぎる。あの世界とこの卓は、あまりにかけ離れすぎている。
父が杯を置く。
「今夜は、昨日より人が増える」
その一言で、卓の上のやわらかい光が少しだけ緊張を帯びる。
「建国の祝宴も二夜目だ。昨夜は顔を見せるだけで済んだ者も、今夜はそうはいかん」
母が続ける。
「庭園も、夕刻には灯が入ります。歩く相手も、言葉も、よく選ぶことです」
フェリクスが、肉を切り分けながら小さく息をつく。
「昼も夜も、誰かが誰かを見ている」
「祝いの場だからな」
シリルがそう返す。
「見られもするし、見もする」
フェリクスは笑う。
「兄上は、昼だと余計に冷たい」
「お前たちが気楽すぎるだけだ」
そう言ったシリルの横顔は、たしかに表情が読み取りづらい。
ルシアンが、こちらへ皿を少し寄せる。
「食べておけ。夜は長いぞ」
昨夜と似た言葉だったが、昼に聞くとまた違う。
「……うん」
答える。
パンを口に運ぶ。やわらかい。香りもよい。けれど、美味しさをそのまま味わうには、この卓は少しだけ目が多い気がした。
それでも、冷たさばかりではない気がした。
フェリクスが、不意にこちらを見る。
「昼の庭園はどうだった」
問い方があまりに軽くて、一瞬だけ手が止まる。
ルシアンが、すぐに視線を向ける。
「フェリクス」
「何だよ。聞いただけだろう」
フェリクスは、まるで悪びれない。
その隣で、シリルが杯の縁に口元を隠しながら、わずかに目を細めた。笑ったのかもしれない。
答えないでいると、フェリクスの代わりにルシアンが口を開く。
「綺麗だっただろ」
「うん.......」
何に対しての綺麗かは分からないが、兄の助け舟にひとまず感謝した。
それからの昼餐は長く続かなかった。
必要な話だけが交わされる。誰がどの客へ顔を出すか。王家の席へは誰が伺うか。夕刻にはどの順で広間へ入るか。家族の昼食というには、寂しすぎる感は否めなかった。
アルベールはほとんど無駄口を叩かない。けれどこちらが視線を感じて顔を上げると、一度だけ「昨夜よりはましな顔だ」と言った。
ルシアンは、必要な時しか口を開かない。そのくせ、皿の位置や杯の減り方までちゃんと見ている。
シリルは、一歩引いたところから卓を見ている。家の内側にいたままではないからこその静けさがある。
フェリクスだけは、そんな昼の卓にも少しだけ色を足していた。軽い冗談を挟み、母に目でたしなめられ、それでも懲りない。
父と母が、先に席を立つ。
昼の光が少しだけ傾きはじめていた。卓の白布の上を流れる影が、さっきよりわずかに長い。
兄たちもそれぞれに動き出す。
アルベールはすぐに呼ばれ、ためらいなく部屋を出る。シリルも席を離れ、フェリクスは最後に杯を揺らしてから立ち上がった。
「今夜は昨夜より忙しくなる」
そう言って、こちらへ笑う。
「昼のうちに少しは休んでおけ」
「お前が言うと、妙に信用できないな」
ルシアンが返す。
フェリクスは肩を揺らして笑い、そのままシリルのあとを追った。
残ったのは、またルシアンだけだった。
彼はしばらく黙っていたが、やがて椅子を引き、こちらを見た。
「少し休んだほうがいい」
「そんなに疲れている顔してる?」
「少しな」
淡々とした返事だった。
「今夜は、昨夜より長く感じるかもしれない」
それだけ言って、ルシアンも去っていく。
一人になった昼餐の間は、さっきまでより広く見えた。
席を立つ。
今夜もまた、広間へ向かうのだろう。灯りの中へ、視線の中へ、音楽の中へ。
噴水のきらめき。花の匂い。昼の中のエレオノールの横顔。そして「今夜も」と言った時の、あの小さな頷き。
胸の奥に残っているのは、昨夜の星だけではないらしかった。




