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貴族として、男としての矜持

 昼餐の間を出たあと、記憶を頼りにまっすぐ自室たどり着くことができた。

 高窓から差し込む光は、昼の終わりに近づいているせいか、さっきまでより少しだけ色を変えていた。白かったものが、ゆっくりと金に寄っていく。廊下に掛けられた額も、磨かれた床も、その光を受けて昼とは別の顔を見せはじめていた。

 部屋へ入る。

 濃紺と銀灰の寝台。深い色のカーテン。重たい木の家具。

馴染みのない自室を見回しながら、窓辺へ寄る。

 庭園はまだ明るい。噴水の白い飛沫も見える。だが、花の色はさっきよりやわらぎ、石畳には長い影が落ちていた。昼のあいだ隣を歩いていた薄青の裾は、もうどこにも見えない。少し残念だと思う気持ちになっているのは、今夜も会うと口にしてしまったからかもしれない。約束と呼ぶには小さすぎるが、それでも二人の間だけで決めたことだ。

 それから、兄たちに言われた通り、ベッドの上で異なる世界に移動してきた疲れをとった。

  微睡みの中、扉が叩かれる音を聞いた。

「失礼いたします」

 老従者の声だった。

 返事をすると、彼は一礼して入ってくる。腕には今夜の礼装を抱えていた。昨夜よりさらに深い色だった。濃紺の布地に、金糸が細く流れている。

「まもなくお支度のお時間でございます」

「もうそんな時間か」

「皆さま、早めにお部屋へ戻られております」

 皆さま。兄たちも、またそれぞれの部屋で夜の姿へ整え直されているのだろうと想像する。アルベールは最初から乱れなく。ルシアンは変わらぬ顔で。シリルとフェリクスは養家から持ってきた色をそれぞれにまとって。

 着替えを手伝われるあいだ、従者は余計なことを話さなかった。留め具を留め、襟元を正し、白い手袋を卓へ揃える。すべてが静かで、無駄がない。この身体の持ち主は、優秀な従者を持って幸せだったのだろうと思う。

 鏡の前に立つ。

 昼の自分より、少し遠い。けれど、昨夜ほど知らない顔でもない。華やかな場に置かれるために整えられているのに、その下にはまだ昼の庭園が残っている気がした。

 扉がまた鳴る。

 今度は返事より先に、聞き慣れた低い声がした。

「入るぞ」

 ルシアンだった。

 従者が扉を開けると、彼は半歩だけ室内へ入り、こちらを見た。今夜の礼装は黒に近い濃色で、襟元にだけ控えめな銀が入っている。昼よりもやわらかさが隠れて見えるのに、不思議と怖さはなかった。

「悪くはないな」

 最初にそう言ったきり、ルシアンはすぐには続けなかった。

 扉のそばに立ったまま、ゆっくりこちらを見ている。


 老従者が、一歩下がる。

「お下がりいたしましょうか」

 ルシアンが短く頷くと、従者は静かに一礼して部屋を出た。扉が閉まる音は小さかった。そのわずかな音を皮切りに、室内が急に静かになる。

 ルシアンはようやく中へ入ってきた。

「今夜は、昨夜より人が多い」

 落ち着いた声だった。

「それは昼餐でも聞いたよ兄上」

「聞いただけで済むなら楽なんだがな」

 少しだけ口元がゆるむ。

 ルシアンは、窓の方へ一度目をやった。庭園はもう昼そのものではなく、夕方の色へゆっくり傾いている。白かった石が、灯の入る前のやわらかな金を受け始めていた。

「父上の知己も、母上の親しい家も、お前に声をかけるだろう。兄弟が揃う夜だからな。顔を見たいと思う者もいる」

 そこまで言って、こちらへ視線を戻す。

「だから、ひとつ覚えておけ」

 声の温度が、少しだけ低くなる。

「全部に応えようとしなくていい」

 一瞬、意味が分からなかった。

 ルシアンは続ける。

「この家にいると、何もかもをきちんと受け止めなければならないように思えてくる。誰の言葉にも、誰の視線にも、誰の期待にもな」

 静かな言い方だった。その一言一言が、昼餐の間で見た兄たちよりずっと近く感じた。

「だが、そんなことをしたら、いつかは壊れてしまう」

 窓辺から離れ、こちらの前まで来る。

「俺はお前にそうなってほしくない」

「それと、無理に賢そうなことを言おうとするな。余計な一言は、たいてい後から面倒を連れてくる」

 思わず、小さく笑いそうになる。

「兄上の経験ですか」

「そうかもしれない」 

 否定しないのが、少しおかしかった。

 ルシアンも、ほんのわずかだけ笑ったように見えた。けれど、それはすぐに消える。

「それから」

 彼は、卓の上に置かれた白い手袋へ目を落とした。

「大切なモノは、命を賭してでも守り抜け」

 あまりにもまっすぐな言葉で、一瞬、返事が遅れた。

 ルシアンは、窓の向こうの夕方を見たまま、静かに続ける。

「綺麗な言葉じゃない。けれど、貴族として生きるなら、いずれ嫌でも思い知る」

 白かった庭園が、少しずつ金を帯びていく。さっきまで昼のものだった石畳が、もう夜の入口へ足をかけているように見えた。

「貴族という者は、家名だとか、土地だとか、そういうものを守れと言われて育つ。もちろん、それも間違いじゃない」

 ルシアンはそこで、ようやくこちらを見た。

「でもな、それだけじゃ大事なモノは守れない」

 その声は、やわらかいのに、揺るがない響きがあった。

「本当に踏ん張る時は、もっと近いもののためにしか踏ん張れない」

 近いもの。家でも、名でも、義務でもなく。

 そういうものが自分にあるのか、すぐには答えられなかった。

「……兄上には、あるのか」

 そう尋ねると、ルシアンは少しだけ目を細めた。

「ある」

 迷いのない返事だった。

「だから、今ここにいる」

 それ以上は言わなかった。誰のことかも、何のことかも。

 沈黙が落ちる。


 窓の外で、風が木々を揺らした。花の匂いが少しだけ薄くなる。夕方の気配は、昼よりやさしくて、夜よりまだ明るい。

 ルシアンが、卓の上の白い手袋を手に取り、こちらへ差し出した。

「すぐに答えがなくてもいい」

 手袋を受け取る。

 絹の内側は、まだ冷たかった。

「けど、覚えておけ。守ると決めたものが一つあるだけで、人は案外ぶれなくなる」

 守るもの。

 そこまで考えて、昼の庭園が脳裏をよぎった。白い石畳。噴水の飛沫。風に揺れる花。薄青の裾。こちらを見上げた、あのやわらかな目。

 ルシアンは、何も言わない。だが、こちらの沈黙の意味を少しは読んだのかもしれなかった。

「今夜も、たぶん多くの耳目がある」

 声の調子が、少しだけいつもの穏やかさへ戻る。

「誰と話したか。誰を見たか。誰のそばに立ったか。そういうものまで、勝手に意味を持たされる」

 そこで、ほんのわずかに笑う。

「面倒な世界だろう」

「兄上が言うと、尚更本当に聞こえる」

「本当だからな」

 ルシアンは一歩だけ近づくと、こちらの袖口を見て、わずかな乱れを指先で整えた。兄というより、昔からそうしてきた人の手つきだった。

「だから、守りたいものがあるなら、余計に軽々しく見せるな」

 ふいに、その言葉が少しだけ熱を帯びる。

 今度はルシアンも待った。

「……難しいな」

 ようやくそう言うと、彼は小さく頷いた。

「難しい」

 あっさり認める。

「だから皆、苦労する。人生をかけてな」

 それから、少しだけ声を落とす。

「しかも、お前はそこまで器用じゃないだろう」

「ひどいな」

「褒めてるつもりだ。計算尽くしよりも、対等で誠実だからな」

 その返しに、とうとう小さく笑ってしまう。

 ルシアンも、口元だけでわずかに笑った。

「不器用なら、不器用なままでいい。ただし、言葉を急ぐな。誰かを大事に思うなら、なおさらだ」

 その曖昧さの向こうに何があるかは、もう分かってしまっていた。


 窓の外で、最後の明るさが少しずつ薄れていく。庭園はもう昼のものではなかった。噴水の水も、花も、まもなく入る灯を待っているように見える。

 ルシアンが、ゆっくりと息をつく。

「今夜は昨夜より、よく見える」

 昼にシリルが言ったことに似ていた。けれど、ルシアンのそれは少しだけ違う響きだった。

「だからこそ、何を見つめるかを選べ」

 その一言に、胸の中の何かが静かに定まる。

 ルシアンはそれを言い終えると、もうそれ以上は足さなかった。

「……お前は、案外優しくて良い男だ」

 背を向けたまま、そんなことを言う。

「俺が保証する」

 振り返らないまま扉が開く。


 扉が閉まる。

 部屋はまた静かになった。

 けれど、さっきまでの静けさとは少し違っていた。濃紺のカーテンも、銀灰の寝台も、夕方に染まりはじめた庭園も、今はただ黙って夜を待っているように見える。

 白い手袋を見下ろす。

 守るもの。

 大事なもの。


 すぐそばで、薄青の裾が、またそっと揺れた気がした。

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