侵蝕
壊れた“それ”との初めての戦い。
優実の力、そして貞美の本質が少しずつ明らかになります。
ぜひ楽しんで読んでください!
歪んでいる。
目の前の“それ”は人の形をしているはずなのに、どこかが決定的におかしかった。輪郭が揺れ、立っているのに地に足がついていないようで、顔があるのにどこを見ているのか分からない。
胸の奥が、ざわつく。
「……これ、なに……」
優実の声はかすれていた。さっきまで“人”だったはずの何か。けれど、今はもう違う。
“それ”はゆっくりと首を傾けると、ぎこちない動きで優実の方を向く。その瞬間、背筋に冷たいものが走った。見られているんじゃない、引き寄せられている。
次の瞬間、地面を抉るような勢いで“それ”が飛び出した。
速い、理解が追いつく前に目の前まで迫る。
「――っ!」
逃げなきゃいけないのに足が動かない、体が強張って言うことを聞かない。
その横を黒い影がすり抜けた。
「……下がって」
低く静かな声、貞美だった。その一言と同時に空気がわずかに歪み、“それ”の動きが一瞬だけズレる。噛み合っていた距離が狂う。
貞美は前に出ると迷いなく“それ”を見据えた。
「……邪魔」
ぽつりと落ちた言葉と同時に、空間がひび割れるように揺れる。“それ”の体が歪み、胸のあたりが不自然に膨らんだ。
だが次の瞬間。
「――ァァッ!!」
叫びとも呻きともつかない音を上げて暴れ出す、抑えきれない何かが内側から溢れているようだった。
「なんで……!」
優実が思わず声を漏らすと、貞美は視線を逸らさずに呟く。
「……壊れてる」
その言葉と同時に、“それ”が再び優実へ向かう。迷いがない、まるで何かに引き寄せられるように。
――こっちを、狙ってる。
理由は分からない、ただ確信だけがあった。
「っ……!」
避けようとして、間に合わない。
その瞬間、無意識に手が伸び、触れた次の瞬間――
「……っ……!」
頭の奥に、何かが流れ込んでくる。
暗い景色、揺れる炎、その奥にいくつもの人影が見える。ひとり、ふたりじゃない、大勢の人間がそこに立っていて、誰もが穏やかな顔で、まるで何事もないかのように笑っている中で、焼かれている――逃げ場もなく縛り付けられたまま、ただ燃えていく。
「……なんで……」
低い声が、心の奥で響く。
「なんで、わからないんだ……」
優しくされるほど、苦しくなる。
笑われるほど、否定される。
その中で一人だけ、取り残されていく。
――怖い。
――苦しい。
――助けて。
それは優実の声じゃない。
目の前の“それ”の、奥底に残った声。
「……この、人……!」
優実の視界が揺れる。
見えた。
胸の奥に、ひび割れた“核”。
黒く濁り、溢れ出し、今にも砕け散りそうなそれが、確かにそこにあった。
「……そこ……!」
思わず叫ぶ、その瞬間“それ”の動きが止まる。
ほんの一瞬、完全な隙。
貞美の目が細くなる。
次の瞬間、彼女の髪がするりと落ちた。
隠れていた左目が露わになる。
空気が変わる。
冷たく、重く、底へ沈むように。
長い黒髪がゆっくりと伸びていき、足元へ、地面へと影のように広がっていく。
優実は息を呑んだ。
――違う。
さっきまでと、明らかに違う。
「……クル」
小さな声。
それだけで、空間が軋む。
“それ”の体がびくりと震えた。理解しているわけじゃない、それでもその音に抗えないように反応している。
貞美がゆっくりと、距離を詰める。
「……こっち、見て」
その声は逃げ道を奪う。
視線が引き寄せられ、逸らせない、閉じられない。
ただ、見せられる。
「……来てるよ」
囁きが落ちた瞬間、世界が崩れる。
足元が沈み、光が消え、音が遠ざかる。
底のない闇の中、ぽつりと井戸だけがそこにある。
“それ”の体がゆっくりと引きずられていく。
抗おうとする動きすら、もう意味を持たない。
半分、沈む。
あと少しで、完全に落ちる。
その直前で、止まった。
「……っ」
貞美の肩がわずかに揺れる。
胸の奥で、何かが軋む。
空間が不安定に揺れ、井戸の輪郭が崩れかける。
「……まだ、足りない」
低く掠れた声。
次の瞬間、世界が元に戻った。
“それ”は地面に叩きつけられ、そのまま動かなくなる。
だが。
優実には見えていた。
胸の奥で、ひび割れた“核”が、かすかに脈打っているのが。
まだ、終わっていない。
「……これ……」
優実の声が震える。
「……人、だったんじゃないの……」
貞美は答えない。
ただ静かに髪を戻し、何もなかったかのように目を伏せていた。
第3話「侵蝕」を読んでいただき、本当にありがとうございます。
ここまで読んでくださった方、一人一人に感謝しています。
少しでも「続きが気になる」と思っていただけたら嬉しいです。
これから物語はさらに深く、そして大きく動いていきますので、ぜひ見届けていただけると嬉しいです。
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