侵蝕
壊れた“それ”との初めての戦い。
優実の力、そして貞美の本質が少しずつ明らかになります。
ぜひ楽しんで読んでください!
歪んでいる。
目の前の“それ”は人の形をしているはずなのに、どこかが決定的におかしかった。
輪郭が揺れ、立っているのに地に足がついていないようで、顔があるのにどこを見ているのか分からない。
胸の奥が、ざわつく優実。
「何なのよあれ」
優実の声はかすれていた。
“それ”はゆっくりと首を傾けると、ぎこちない動きで優実の方を向く。
その瞬間、背筋に冷たいものが走った。
見られているんじゃない、引き寄せられている。
次の瞬間、地面を抉るような勢いで“それ”が飛び出した。
速い、理解が追いつく前に目の前まで迫る。
「やばっ」
逃げなきゃいけないのに足が動かず、体が強張って言うことを聞かない。
その横を黒い影がするりとすり抜けた。
「下がってて」
低く静かな声、貞美だった。
その一言と同時に空気がわずかに歪み、“それ”の動きが一瞬だけズレ、噛み合っていた距離が狂う。
貞美は前に出ると迷いなく“それ”を見据えた。
「邪魔」
ぽつりと落ちた言葉と同時に、睨みつけながら、左腕をを“それ“に向けて上げると、周りを囲む空間がひび割れるように揺れ、“それ”は悶え始める。
だが次の瞬間。
「アアァァッ!!」
叫びとも呻きともつかない音を上げて暴れ出す、抑えきれない何かが内側から溢れているようだった。
貞美は視線を逸らさずに呟く。
「もう壊れてる」
その言葉と同時に、“それ”が再び優実へ向かい全速力で走ってくる。
迷いがなく、まるで優実の何かに引き寄せられるように一心不乱に走ってくる。
“こっちを、狙ってる“
理由は分からない、ただ優実には確信があった。
考えている間に、“それ“がもう向かってきていた。
避けようとして、間に合わない。
その瞬間、目の前まで来ていた“それ“に無意識に手が伸び、指先が触れた。
触れた瞬間に、優実の頭の奥に、何かが一気に流れ込んでくる。
暗い景色、揺れる炎、その奥にいくつもの人影が見える。
ひとり、ふたりじゃない、大勢の人間がそこに立っていて、誰もが穏やかな顔で、まるで何事もないかのように笑っている中で、それは焼かれている。
逃げ場もなく縛り付けられたまま、ただ燃えていく。
「なんで」
低い声が、心の奥で響く。
「なんで、お前達はわからないんだ」
優しくされるほど、苦しくなり、笑われるほど、否定をされる。
その中で一人だけ、その男は取り残されている。
怖い。
苦しい。
助けて。
それは優実の声じゃない、目の前の“それ”の、奥底に残った声。
「この人!」
優実の視界が揺れる中で、見えてきたのは、その男の胸の奥に、ひび割れた“核”が見えた。
黒く濁り、溢れ出し、今にも砕け散りそうなそれが、確かにそこにあった。
「そこ!」
攻撃を仕掛ける貞美に対して思わず叫ぶ、優実の声に呼応して、“それ”の動きが止まる。
ほんの一瞬、完全な隙が生まれると、貞美の目が細くなる。
それに対して右手を挙げて構えを取る貞美。
透き通るような綺麗な髪がするりと落ちると、隠れていた左目が露わになる。
空気が、冷たく、重く、底へ沈むように変わる。
長い黒髪がゆっくりと伸びていき、足元へ、地面へと影のように広がっていく。
優実は息を呑んだ。
さっきまでと、明らかに違い、見覚えのある貞美の容姿に変わる。
「クル」
貞美の小さな声、それだけで空間が軋む。
“それ”の体がびくりと震えた。
理解しているわけじゃない、それでもその音に抗えないように反応している。
貞美がゆっくりと、距離を詰める。
「こっち、見て」
その声は逃げ道を奪い、視線が引き寄せられ、逸らせない、閉じられない。
ただ、見せられる。
「もう...来てるよ」
囁きが落ちた瞬間、世界が崩れ、足元が沈み、光が消え、音が遠ざかる。
底のない闇の中、ぽつりと“井戸“だけがそこにある。
現れた井戸に“それ”の体がゆっくりと引きずられていく。
抗おうとする動きすら、もう意味を持たず、気づいた時には半分沈む。
優実はただ横からその光景を見ることしかできなかった。
“あと少しで、完全に落ちる“
そう思った時、その直前で動きが止まった。
貞美の肩がわずかに揺れると、井戸の形が徐々に崩れる。
貞美の作り出した空間が不安定に揺れ、井戸がどんどん崩れ始める。
「まだ...まだ足りない」
低く掠れた声と共に、世界が元に戻った。
“それ”は地面に叩きつけられたまま、そのまま動かなくなる。
だが、優実にはしっかり見えていた。
“それ“の胸の奥で、ひび割れた“核”が、かすかに脈打っているのが。
“まだ、終わっていない“
「これってさ」
優実の声が震える。
「人、だったんじゃないの?」
貞美は何も返さず、ただ静かに髪を戻すと、元の綺麗な容姿に戻り、何もなかったかのように目を伏せていた。
第3話「侵蝕」を読んでいただき、本当にありがとうございます。
ここまで読んでくださった方、一人一人に感謝しています。
少しでも「続きが気になる」と思っていただけたら嬉しいです。
これから物語はさらに深く、そして大きく動いていきますので、ぜひ見届けていただけると嬉しいです。
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