第4話 扉の向こうの、ハンナさん
あの日、扉を叩いたのは、となり村から来た木こりのおじさんだった。
手にとげが刺さって、腫れてしまったらしい。
私は棚の陰から腕だけ伸ばして、傷薬と札を渡した。
おじさんは「ありがとうよ」と言って、銅貨を置いて帰っていった。
それから、二週間。
そんなふうに、ぽつり、ぽつりと、知らない人が扉を叩くようになった。
私はやっぱり、毎回棚の陰に隠れる。
でも、札を結んだ小瓶は、ちゃんと手から手へ渡っていく。
そして、三日に一度。
コン、コン。
扉が、いつもの、やさしい音で叩かれる。
「ミミちゃん……パンとお野菜、置いておくね」
いつものおばあさんの声。
私は扉の内側で、いつものように、息をひそめる。
少しの間。
それから、足音が遠ざかっていく。
私はそっと扉を開けて、戸口のかごを家の中に引き入れる。
かごの中には、まだ温かいパンと、泥のついたにんじんと、小さなりんごが一つ。
(……今日も、ありがとう、ございます)
言葉は、やっぱり心の中だけで終わってしまう。
*
その日も、三日に一度の日だった。
コン、コン。
「ミミちゃん……パンとお野菜、置いておくね」
いつもと同じ声。いつもと同じ言葉。
私は扉の内側で、息をひそめた。
——でも。
足音が、遠ざからなかった。
(……あれ?)
少しの間のあと。
コン、コン、と。
もう一度、扉が叩かれた。
「……ミミちゃん。今日はね、もう一つ、お願いがあって来たんだよ」
(お、お願い……?)
「街でね、噂を聞いたんだよ。郊外の小さな魔女さんの薬は、札のとおりに使えば、ちゃんと効くって」
扉の向こうで、おばあさんが、少し照れくさそうに笑う気配がした。
「それでね……あたしの腰に効く薬は、あるかい? 最近、どうにも痛くってねえ」
私は、扉の取っ手を見つめた。
この半年。
ずっと、扉の向こうにいた人。
一度も顔を見せずに、パンとお野菜を受け取り続けた人。
(……開け、なきゃ)
薬を頼まれたからじゃない。
ずっと、開けたかった。開けられなかっただけだ。
取っ手に手をかける。
指が、かたかたと震える。
深く息を吸って——
私は、扉を開けた。
*
扉の向こうに立っていたのは、腰の曲がった、小柄なおばあさんだった。
白い髪をきれいにまとめて、手には、いつものかご。
しわだらけの顔が、私を見て、ふわりとほころんだ。
「……まあ」
おばあさんの目が、少しうるんだ。
「やっと、顔を見せてくれたねえ」
私は、すぐにうつむいた。
やっぱり、顔は見られない。視線は、おばあさんの手のかごのあたり。
でも、扉は閉めなかった。
「あたしはハンナっていうんだよ。あんたのお母さんには、ずいぶん長いこと、お世話になったんだ」
(ハンナ、さん……)
「入っても、いいかい?」
私は、こくこくとうなずいた。
*
ハンナさんを椅子に座らせると、私はテーブルの向かい側……ではなく、棚の陰に立った。
(ご、ごめんなさい……ここが、いちばん落ち着くんです……)
ハンナさんは、くすくすと笑った。
「いいよ、いいよ。そこからで」
それから、ハンナさんは、腰のことを話してくれた。
「もう、何年も前からなんだよ。重いものを持つと、ずきっとくる。寒い朝は、特にひどくてねえ。起き上がるのに、ひと苦労さ」
(何年も前から……重いものを持つと痛む……冷えるとひどくなる)
「お母さんが元気だった頃は、ときどき治癒の魔法をかけてもらってたんだけどね」
(……そっか。お母さんがいなくなってから、ずっと我慢してたんだ)
私は、棚の陰から、そっと聞いた。
「……あ、あし……しびれ、たり……しま、せんか……?」
「足かい? いいや、それはないねえ」
「……ね、ねつ、とか……」
「熱もないよ。ただ、腰が痛いだけさ」
(足のしびれはない。熱もない。冷えると痛い。重いものを持つと痛い……)
私は、母のノートを開いた。
腰の痛みのページ。
母の字で、こう書いてあった。
『長く続く腰の痛み。冷えるとひどくなるもの。
ヒダマリ草の葉をすりつぶし、小麦粉と練って布にのばし、痛むところに貼る。じんわりと温まる。 ——ハンナさんに、よく効く』
(……ハンナさんの名前が、書いてある)
母は、ハンナさんのために、この薬を作っていたんだ。
胸の奥が、じんわりと熱くなった。
*
ヒダマリ草は、裏庭の日当たりのいい場所に植えてある。
私は勇気を振り絞っておばあさんに話した
「まってて……おばあさんに……こ、腰に効く、や、薬草……摘んできます」
私はおばあさんに言うと、おばあさんは「あいよ」と言ってにっこり微笑んだ。
扉を開けて裏庭に出て行くと花壇にヒダマリ草が数本植えてあった。
数枚葉をちぎると、ほんのりと甘い、日なたのような匂いがした。
家に入り、すり鉢でつぶして、小麦粉と少しの水で練る。
それを、きれいな布にうすくのばしていく。
ノートのとおりに。
でも、ひとつだけ、自分で考えて変えた。
おばあさんは薬を作る姿を見ていた。そして「懐かしいねぇ…いつもそうやって作ってくれていたんだよ…まるで帰ってきたみたいだねぇ…」と言ってハンカチで目をぬぐっていた。
おばあさんの話を聞くと目の前が涙で滲んできた。
(お年寄りの肌は、うすくて弱い。そのまま長く貼ると、かぶれちゃうかもしれない)
布を一枚多く重ねて、肌に直接あたらないようにした。
「で、できました……」
私は棚の陰から腕を伸ばして、テーブルの上に貼り薬を置いた。
それから、もう一枚、紙の札も。
『こしに はる くすり。よる ねるまえに はる。あさに はがす。
かゆくなったら すぐ はがす。おもいものは もたない。こしを ひやさない』
ハンナさんは、札を手に取って、ゆっくりと読んだ。
そして、ふふっと笑った。
「……お母さんとおんなじことが書いてある」
(え……?)
「あんたのお母さんもね、いつも言ってたんだよ。『ハンナさん、重いものは持たないで。腰を冷やさないで』ってね。あたしが聞かないもんだから、何度も何度も」
ハンナさんは、懐かしそうに目を細めた。
*
ハンナさんは、さっそく服の上から腰に貼り薬を当てて、しばらくじっとしていた。
「……ああ、あったかいねえ。じんわりくるよ」
それから、ぽつり、ぽつりと、母の話をしてくれた。
「あんたのお母さんがこの街に来たのは、もう十年くらい前になるかねえ。最初は、だれも近づかなかったんだよ。郊外に魔女が住みついた、ってね。みんな、怖がって」
(お母さんが……怖がられてた……?)
「あたしの腰が、どうにも動かなくなった冬があってね。街の薬屋の薬も、ちっとも効かない。それで、ええい、と思って、ここの扉を叩いたんだよ」
ハンナさんは、くすくすと笑った。
「そしたら、出てきたあんたのお母さん、なんて言ったと思う?」
私は、棚の陰で首をかしげた。
「『……あ、あの……ど、どうぞ……』って。真っ赤な顔して、下を向いたまま。あたしの顔なんて、ちっとも見やしない」
(…………え?)
「あの子もね、最初は、人と話すのが、とっても苦手だったんだよ」
私は、息をするのを忘れた。
いつも笑っていた母。
お客さんと楽しそうに話していた母。
街の人たちから「魔女さま」と慕われていた母。
(お母さんも……私と、同じだったの……?)
「でもね、薬のことになると、急にしゃきっとしてねえ。『重いものは持たないで』『冷やさないで』って、下を向いたまま、早口で、何度も何度も」
ハンナさんは、棚の陰の私を見て、やさしく笑った。
「さっきのあんたと、そっくりだったよ」
目の奥が、熱くなった。
知らなかった。
母も、最初は、扉の内側で震えていたなんて。
(お母さんは、どうやって……みんなと話せるようになったんだろう)
*
帰りじたくをしたハンナさんは、貼り薬と札を大事そうにかごにしまい、それから銅貨を何枚かテーブルに置いた。
「お代だよ。ちゃんと受け取っておくれ」
(い、いいです……! いつも、パンとお野菜、もらってるから……!)
首を横に振ろうとして——私は、止まった。
首を振るだけじゃ、伝わらない。ドルフさんのときに、思い知った。
言わなきゃ。
今、言わなきゃ。
私は、棚の陰から、一歩だけ出た。
顔は、やっぱり見られない。
視線は、ハンナさんのかごのあたり。
それでも。
「……あ、ありがとう……ございます……」
声は、ふるえて、かすれて、とても小さかった。
「……パンも……お、お野菜も……ず、ずっと……」
それ以上は、のどがつまって、言葉にならなかった。
少しの沈黙。
それから、しわだらけの手が、そっと私の頭に乗った。
「……どういたしまして」
ハンナさんの声も、少しだけ、ふるえていた。
「また、三日後に持ってくるからね。……今度は、扉を開けてくれると、うれしいねえ」
私は、うつむいたまま、こくりとうなずいた。
*
三日後。
コン、コン。
「ミミちゃん……パンとお野菜、持ってきたよ」
いつもの、やさしい音。いつもの、やさしい声。
私は扉の取っ手に手をかけて、深く息を吸った。
指は、まだ少し震えている。
それでも、私は、扉を開けた。
ほんの、少しだけ。
でも、ちゃんと、自分の手で。




