第1話 はじめての患者さん
(え、ええええええ……っ!?)
床に倒れこんだ青年は、ぴくりとも動かなかった。
(ちょ、ちょっと待って。人。知らない人。しかも血。いっぱい血。無理無理無理無理……!)
頭の中で、悲鳴が止まらない。
足がすくんで、一歩も動けない。
風が吹きこんで、壁に掛けた薬草の束がばさばさと揺れた。
開けっ放しの扉から、冷たい夜の空気が流れこんでくる。
青年の肩から、また血があふれた。
床の赤い色が、さっきよりも広がっている。
——その瞬間。
頭の中の悲鳴が、すっと静かになった。
(……出血、まだ続いてる。肩から上腕にかけての裂傷。深さはわからない。意識なし。呼吸は……ある)
医療学校で、何度も叩きこまれた順番。
怖い、と思うより先に、体が勝手に動いていた。
*
(まず、扉。閉めないと。この人を中に……)
私は青年の腕をつかんで、思いきり引っぱった。
「ん……っ、んんん……っ!」
動かない。
今度は両足を踏んばって、全体重をかけて引っぱる。
「んぎぎぎぎ……っ!」
ぴくりとも動かない。
革鎧を着た大人の体は、五歳の私にとって、大きな岩みたいだった。
(む、無理……! 私の力じゃ、一ミリも動かない……!)
扉を閉めるには、この人の体がじゃまだ。
かといって、外に押し出すなんて、もっとできない。
(……もういい! 扉は開けっ放し! 先に血を止める!)
*
私は台所に走って、大きな鍋に水がめの水をくみ、かまどに置いた。
火の魔法が使えたら、すぐに火を起こせるのに……と思いながら
戸棚から火打ち石を取り出し、かまどの前で打ちつける。
カチッ、カチッ。
小さな手では力が足りず、火花はすぐに消えてしまう。しだいに目が潤んでくる。
脇にあった適当な草を入れて何度目かで、やっとかまどに火がついた。
(お湯が沸くまでに、止血。それから布。きれいな布……!)
棚から、母が薬作りに使っていた布を、ありったけ引っぱり出した。
それを抱えて、青年のところへ走って戻る。
傷口に布を当てて、両手で上から押さえる。
(強く……もっと強く押さえないと……!)
ぎゅっ。
押さえた布が、みるみるうちに赤く染まっていく。
(だめ、全然力が足りない……!)
五歳の手は、小さすぎた。
腕の力も、弱すぎた。
どれだけ押しても、血が布のすきまからにじみ出てくる。
(どうしよう、どうしよう……このままじゃ……)
私は、ぎゅっと目を閉じて、深く息を吸った。
落ち着いて。考えて。
(直接圧迫止血。手で足りないなら……体重をかける!)
私は布を重ねて、その上に両ひざをのせた。
傷口の上で、正座をするような恰好だ。
小さな体の重さを、ぜんぶ傷口にかける。
「……っ、とまって……とまって……!」
ひざの下で、青年の体がかすかに動いた。
「うぅ……」と、うめき声がもれる。
「ご、ごめんなさい……痛いよね……でも、がまんして……」
聞こえていないとわかっていても、口から言葉がこぼれた。
どれくらい、そうしていただろう。
ひざが痛くなって、足がしびれて。
それでも動かずにいると、やがて、布ににじむ赤が、少しずつ広がらなくなっていった。
(……止まった? ううん、弱くなっただけ。でも、さっきよりずっといい)
鍋の方から、ぐつぐつと湯の煮える音が聞こえてきた。
*
そこからは、てんてこ舞いだった。
ひざで布を押さえたまま、手を伸ばせる場所に器を集める。
でも届かない。
仕方なく、そっとひざをどけて、台所に走る。
沸いたお湯を器に移して、窓辺に置いて冷ます。
(熱いままだと、やけどしちゃう。ぬるくなるまで……その間に……)
また走って戻って、布を押さえ直す。
(薬……! この半年で作ってた、あのポーション!)
棚の上の小瓶に手を伸ばす。
背が届かない。
椅子を引きずってきて、その上に乗って、やっと取る。
椅子から降りて、器を見に行って、また戻って。
(あ、あと包帯! 布を細く裂いて……)
五歳の体が、こんなに不便だなんて。
それでも、私は走り回った。
*
お湯が、ようやくぬるくなった。
布をそっとはがすと、血はほとんど止まっていた。
傷は、思っていたよりも深い。何か鋭いもので、ざっくりと裂かれたような傷だった。
(……魔物の爪? だとしたら、汚れがついてるかもしれない)
ぬるま湯で、傷のまわりの泥と血を、少しずつ洗い流していく。
何度も、何度も。お湯を替えて、また洗って。
(よく洗うのが、いちばん大事。ばい菌が入ったら、傷が膿んで、熱が出て……そうなったら、私には治せない)
小瓶のふたを開けると、どろりとした緑色の液体が、ゆっくりと揺れた。
母のノートの「ポーション」の項目を見ながら、この半年、何度も作っては失敗してきたものだ。
母が作れば、本物のポーションになるはずのもの。
私が作ると、効き目の弱い、なりそこないのポーションにしかならない。
(本当は、飲んだ方がずっと効くんだけど……)
意識のない人に、無理に液体を飲ませるのは危ない。
気管に入って、息が詰まってしまうかもしれない。
(だから今は、塗るだけ)
どろりとした液体を、傷口にそっと塗っていく。
(お願い……少しでいいから、効いて……)
塗り終えたところに、きれいな布を当てて、細く裂いた布でぐるぐると巻いていく。
腕を一周させるのに、私は青年の体のまわりを、ぐるりと回りこまなければならなかった。
出来栄えはあまりよくないが、五歳児の手では上出来だった。
最後に、ベッドから引っぱってきた毛布を、青年の体にかける。
開けっ放しの扉から入る夜風で、体が冷えないように。
(……できること、全部、やった)
青年の呼吸は、さっきより落ち着いていた。
私はその横に、へたりと座りこんだ。
手も、服も、ひざも、血だらけだった。
両手が、今さらのようにがくがくと震えだした。
(……こわかった……)
気づけば、私はそのまま、床の上で眠りこんでいた。
*
「……おい。おい、大丈夫か?」
肩をゆすられて、目を開けた。
窓の外が、明るい。朝だ。
目の前に、知らない男の人の顔があった。
「ひゃっ……!?」
私は飛び起きて、ずざざざっと部屋の隅まで後ずさった。
ついでに、棚の陰に隠れた。
(ひ、人! 知らない人! 顔、近い! 無理!)
……棚の陰から少しだけ顔を出して、そっとのぞく。
肩に、見覚えのある包帯。私が巻いた、ちょっと不格好な包帯だ。
昨日の夜の、血まみれの青年だった。
青年は、包帯の巻かれた自分の肩を見て、それから部屋の中を見回して、最後に棚の陰の私を見た。
「……もしかして、君が手当てしてくれたのか?」
私は棚の陰から、こくこくと首だけ動かした。
顔は、もちろん見られない。視線は、青年の膝のあたりに固定する。
「そうか……。ありがとう。本当に、助かった」
青年は、深く頭を下げた。
「俺はライル。騎士学校の生徒だ。遠征の途中で隊からはぐれて、魔物にやられて……気づいたら、ここにいた」
(騎士学校……騎士見習いさん、ってこと……?)
「君の名前は?」
「……ミ……ミ、ミ……」
「ミミミという名か。」
「……ち、がう……ミ……ミ……」
「すまない。……ミミ、か?」
こくこく。
「そうか。……こんなところに、一人で住んでるのか?」
こくこく。
ライルさんは、少し驚いたような、心配そうな顔をした。
たぶん。顔は見ていないので、声の感じからの想像だけど。
(……あ。そうだ。今なら、飲める。)
私は棚の陰から腕だけをにゅっと伸ばして、ポーションの小瓶を震える手でテーブルの上に置いた。
「……こ、これ……の、のんで……ください……」
「これは……なんだ?……ポーションか?」
こくこく。
ライルさんは小瓶を手に取り、蓋を開けた。
中身は緑色のどろりとした液体で、草っぽい臭いが鼻を突いた。
ライルさんは少し顔をしかめて、不思議そうに小瓶を眺めた。
それから、ぐいっと一気に飲み干した。
「——!!……うぇっ……」
ライルさんの顔が、くしゃっとゆがんだ。
「な、なんだこれ……草と……土の味が……」
(ご、ごめんなさい……! 味の改良は、まだ全然できてないんです……!)
棚の陰で、私は小さく縮こまった。
ライルさんは一瞬吐き出しそうになるのを耐えながら言った。
「うっ……で、でも、なんだか、体の奥があったかくなってきた気がする。ありがとう、ミミ」
ライルさんは、口のまわりをぬぐいながら、笑ったようだった。
それから、腰の小袋を探って、何枚かの銅貨を取り出した。
それを、テーブルの上にそっと置く。
「手持ちが少なくて、これくらいしかないけど……手当てとポーションの代金だ。受け取ってくれ」
(だ、代金……?)
私は、テーブルの上の銅貨を見つめた。
お金。
私の作った薬の、代金。
(……これって、私の……はじめての、お客さん……?)
胸の奥が、じんわりと熱くなった。
*
ライルさんは、包帯の巻かれた腕をそっと回して、顔をしかめた。
「まだ痛むけど、血は止まってる。これなら街まで歩けそうだ。……街は、どっちだ?」
私は棚の陰から少しだけ出て、窓の外を指さして言った。
「その……細い……み、道を行くと……ま、街につき……ます……」
「あっちか。ありがとう」
扉に向かうライルさんの背中に、私は、ありったけの勇気をしぼり出した。
「……あ、あの……っ」
ライルさんが振り返る。
「ま、街に、ついたら……ち、ちゆ、まほう……ちゃんと、うけて、ください……」
声は、自分でもびっくりするくらい小さかった。
「わ、わたしの、くすりじゃ……ふさぐ、だけ、だから……き、きずが、ふかい、ので……ば、ばいきん、とか……ねつ、でたら……」
(あああ、しゃべりすぎた……! 早口になってる……!)
顔が熱くなって、私はまた棚の陰に引っこんだ。
少しの沈黙のあと。
ライルさんが、ふっと笑う気配がした。
「わかった。ちゃんと治癒魔法を受けるよ。約束する」
そして、扉の前で、もう一度振り返った。
「ミミ。また来る。ちゃんとお礼もしたいしな」
ぱたん、と扉が閉まった。
しんとした部屋に、私と、テーブルの上の銅貨だけが残された。
(……また、来る……?)
知らない人が、また来る。
それは、人見知りの私にとって、とても怖いことのはずだった。
なのに。
テーブルの上の銅貨を両手で包みこむと、なぜだか少しだけ、うれしかった。
*
——リンデル、騎士学校の寮。
「だから、本当なんだって」
包帯を巻いた肩を指さしながら、ライルは仲間たちに言った。
「郊外の森の近くに、小さな家があってさ。そこに、五歳くらいの女の子が一人で住んでるんだ。で、その子が、俺の手当てをしてくれた」
「五歳の女の子が? 一人で?」
「夢でも見たんじゃないのか、ライル」
「魔物にやられて、頭でも打ったんだろ」
仲間たちは、げらげらと笑った。
「本当だって。目も合わせてくれないし、ほとんどしゃべらないし、棚の陰に隠れたまま出てこないんだけど……」
ライルは、見栄えは悪いが丁寧に巻かれた包帯にそっと触れた。
「手当ては、すごく丁寧だった。ポーションは、とんでもなく不味かったけどな」
仲間たちが、また笑う。
「……でも、あれは、小さな魔女だよ」
仲間たちは、まだ笑っていた。
けれど、その中の何人かは、ライルの包帯を、少しだけ不思議そうに見つめていた。




