プロローグ2 帰ってこなかった母
五歳の誕生日を迎えて、少し経った朝のことだった。
「ミミ、お母さん、森まで薬草を採りに行ってくるわね」
母はいつもの大きな帽子をかぶり、ローブの上から薬草用のかごを背負った。
「熱冷ましの草が、もうほとんど残っていないの。街で熱を出している子がいるから、急いで作ってあげないと」
私は母のローブのすそを、ぎゅっとつかんだ。
「……わたしも、いく」
「だめよ。森には魔物が出るんだから」
母はしゃがんで、私と目線を合わせた。
帽子のつばの下で、いつもの優しい笑顔で微笑んでいる。
「すぐ帰るからね。お昼までには戻るわ。いい子で待っていて」
そう言って、母は私の頭をなでた。
あたたかい手だった。
私はしぶしぶローブから手を離した。
「うん、早く帰ってきてね……!」
母はニコッと笑い、「行ってきます」と言って扉を閉めた。
森へ続く道を歩いていく母の背中を、私は窓から見送った。
大きな帽子が、木々の間に小さく消えていく。
それが、母を見た最後の姿だった。
*
お昼になっても、母は帰ってこなかった。
(……ちょっと遅いだけ。薬草がなかなか見つからないのかも)
夕方になっても、帰ってこなかった。
(大丈夫。大丈夫。お母さんは強いんだから)
夜になっても、扉は開かなかった。
私は窓際に椅子を引きずってきて、その上にひざを抱えて座り、森の方をずっと見ていた。
真っ暗な森からは、何の明かりも見えなかった。
そして、いつの間にか、椅子の上で眠ってしまっていた。
次の日の朝。
扉がコンコンコンとなった。
私は飛び起きて母が帰ってきたと思い、満面の笑顔で勢いよく扉を開けた。
「おかあさん、おかえりなさい!」
でも、そこにいたのは母ではなく、知らない男の人たちだった。
顔から笑顔が消え、パニックになった。
知らない大人が、何人も。
いつもなら、すぐに隠れてしまうところだった。
でも、そのときの私は、動けなかった。
男の人の一人が、手に何かを持っていた。
大きなつばのある、見覚えのある丸い帽子。
鋭い爪で引き裂かれたような跡があり、黒っぽいもので汚れている。間違いなく、母の帽子だった。
「……森の奥で、魔物に襲われていた。残念だが……ミミちゃん……おか——」
男の人が何か言っていた。
でも、その先の言葉は、耳に入ってこなかった。
前世で、人の死については何度も学んだ。
教科書の上でも、実習でも。
それなのに、目の前の帽子ひとつを、私はどうしても受け止めることができなかった。
*
母の知らせを聞いた後、数日間どう過ごしていたのか、よく覚えていない。
机の上には母の帽子が置いてある。でも、母の姿はどこにもなかった……。
ただ、家の中がとても静かだったことだけを覚えている。
薬草の匂いがする部屋。
母が使っていた鍋。
母が座っていた椅子。
どこを見ても、母がいない。
ある夜、眠れないまま家の中をうろうろしていた私は、棚の奥に、一冊の古いノートを見つけた。
母の字だった。
ページをめくると、薬草の絵と、その効き目が、びっしりと書きこまれていた。
熱を下げる草。傷によく効く草。お腹の痛みをやわらげる草。毒消しに使う草。
どこで採れるのか。いつ採ればいいのか。どうやって煎じればいいのか。
最後のページには、少し大きな字で、こう書かれていた。
『ミミが五歳になったら、教えてあげること』
私は、ノートを胸に抱きしめて泣いた。
母がいなくなってから、初めて声を出して泣いた。
泣いて、泣いて、泣き疲れても、それでも涙は止まらなかった。
窓の外が白んできた頃、私はようやく顔を上げた。
(……私には、魔法が使えない)
それは、どうしようもない事実だ。
母のように、手をかざして傷を治すことはできない。
(でも——)
膝の上のノートを見る。
母が残してくれた、この世界の薬草の知識。
そして、私の頭の中には、前世で寝る間も惜しんで詰めこんだ数年分の医学の知識がある。
病気や怪我には、必ず原因がある。
原因がわかれば、どうすればいいかを考えられる。
そして、その答えに合う薬草は、きっとこのノートの中にある。
(魔法がなくても、私には前世の医学がある)
母のように、人を助けることはできるかもしれない。
私は涙をぬぐって、ノートの最初のページを開いた。
*
それから、半年——。
私は、母の残した小さな家で、一人で暮らしていた。
といっても、本当に一人の力だけで生きていたわけではない。
五歳の体では、できることには限りがある。
狩りにも行けないし、森の奥へ薬草の採取にも行けない。
三日に一度くらい、家の戸口に、パンや野菜の入ったかごが置かれていた。
置いていくのは、母の代から薬を買いに来てくれていた、街のおばあさんだ。
おばあさんは、いつも扉を軽く叩いて、「ミミちゃん……パンとお野菜、置いておくね」と言って、少し待って、それから帰っていく。
私はそのたびに、何も言わずに扉の内側で息をひそめていた。
(……出なきゃ。お礼、言わなきゃ)
わかっている。わかっているのに、足が動かない。
扉の向こうの気配が遠ざかってから、私はやっと、そっとかごを家の中に引き入れる。
近所の人たちも、ときどき様子を見に来てくれた。
水がめに水を足してくれたり、薪を置いていってくれたり。
私は、そのたびに息をひそめ、家の奥に隠れた。
(ごめんなさい……ありがとう……ございます……でも怖くて出られないの……)
言葉は、いつも心の中だけで終わってしまう。
かわりに、私は毎日、薬を作った。
家の裏庭で育てていた薬草と、森の入り口近くで採れる草だけを使って。
森の奥には、絶対に行かない。魔物が出るから。
家に帰ると、母のノートを広げて薬のページにあるポーションの項目を読む。
「これは、なぜ効くのか」を考えながら、少しずつ試していく。
(この草は、すりつぶすと傷口がしみない。炎症を抑える成分があるのかも。こっちの草は、煮出すと少しだけ殺菌作用がありそう……)
でも、うまくいかないことの方が多かった。
母の薬は、魔法の力で効き目を強めていたらしい。
同じ草をレシピ通りに煎じても、私が作ると、どうしても効き目が弱くなる。
できあがるのは、どれも中途半端な薬ばかりだった。
(……やっぱり、魔法がないと、だめなのかな)
くじけそうになるたびに、何度も母のノートを開き、読み落としがないか隅から隅まで読んだ。
『ミミが五歳になったら、教えてあげること』
その一行を見るたびに、母のことを思い出し泣きそうになったが、もう少しだけ頑張ろうと思えた。
*
その夜は、ひどい風が吹いていた。
窓がかたかたと鳴り、森の木々がざわざわと揺れている。
私は母のノートを抱えたまま、ベッドの中で丸くなって震えていた。
風に乗って遠くから狼の遠吠えが微かに聞こえてくる。
——ドン。
扉が、鳴った。
(ひっ!……か、風……?)
——ドン、ドン、ドン!
違う。誰かが、扉を叩いている。
こんな夜中に。
(む、無理無理無理……誰? なんで? こんな時間に……怖いよ!おかあさん!)
頭の中で、警報が鳴り響く。
布団を頭までかぶって、聞こえないふりをしようとした。
そのとき、扉の向こうから、かすれた声がした。
「う、ぐっ!……だれ、か……いるか?……たす、けて……くれ……!」
私は、布団の中で固まった。
その声は、とても苦しそうで。
前世で大地震が起きたとき、救急搬送されてきた人たちから何度も聞いた、本当に助けが必要な人の声だった。
(……っ)
震える足で、ベッドから降りる。
一歩、また一歩と、扉に近づく。
取っ手に手をかけて、深く息を吸って——
私は、扉を開けた。
その瞬間、何かが、どさりと倒れこんできた。
月明かりに照らされたのは、血まみれの青年だった。
泥に汚れた革鎧。腰には剣を下げている。
騎士か、それとも兵士だろうか。
そして、肩から腕にかけて、深く裂けた傷。
床に、赤い色がじわりと広がっていく。
(……え)
人見知りの私の前に、知らない人が、血を流して倒れている。
(え、ええええええ……っ!?)
私の新しい人生で、初めての「患者さん」との出会いだった。




