プロローグ1 魔法が使えない魔女の娘
最後に覚えているのは、蛍光灯の白い光だった。
積み上げた参考書。とっくに冷めたコーヒー。
机の端には「医師国家試験まで、あと二百日」と書いた付箋。
ここ数日、まともに眠っていなかった。
ふいに、胸の奥がぎゅっと締めつけられた。
(……あれ?)
息が苦しい。
視界がゆっくりと暗くなっていく。
(あ、これ……ちょっと、まずいかも……)
助けを呼ぼうとしたけれど、声が出なかった。
机に突っ伏したまま、私の意識はぷつりと途切れた。
*
次に目を開けたとき、世界はぼやけていた。
明るい。あたたかい。
そして、誰かに抱かれている。
「……ミ……ミミ……」
やわらかい声がした。
「あなたの名前は、ミミよ」
大きなつばのある丸い帽子をかぶった、長い髪の女の人が、私をのぞき込んでいる。ぼやけた視界でも、その優しい笑顔だけはわかった。
「私はあなたのお母さんよ。よろしくね、ミミ」
そう言って、女の人は私を抱き直した。
その人の指が、私の頬をそっとなでた。
……ちょっと待って。
抱かれている? 私が?
手を動かそうとすると、ふにゃふにゃの小さな手が、ぴくりと動いた。
(え、待って待って待って。これ、赤ちゃん? 私、赤ちゃんになってる?)
頭の中は大騒ぎなのに、口から出たのは「ふぇ……」という情けない声だけだった。
(これ、まさか……ラノベやアニメでよくある転生ってやつ……?)
医学部で六年近く勉強してきた私の脳みそが、まったく役に立たない答えを出した。
*
ここが日本ではないとわかったのは、生まれて三か月ほど経った頃だ。
私が暮らす家は、街から少し離れた場所に建つ、小さな木の家だった。
天井からは乾かした草の束がいくつも吊るされていて、家じゅうに青くさい匂いがただよっている。
棚には、色とりどりの液体が入った小瓶がずらりと並んでいた。
そして、ときどき人がやってくる。
「魔女さま、どうか、お願いします……!」
その日やってきたのは、腕から血を流した農家のおじさんだった。鎌でざっくり切ってしまったらしい。
私は母の腕の中で、反射的にその傷を観察していた。
(深さはそこそこ。出血はまだ止まってない。洗浄して、縫合して……感染対策も必要。この家に消毒液なんて——)
そこまで考えたところで、母がおじさんの腕にそっと手をかざし、なにかを言い始めた。
《万物の理に従い、彼の者を癒せ。集え、大気をつなぐ魔力の粒子。損なわれし命の灯火を、本来あるべき姿へと巻き戻さん……。ヒーリング!》
唱え終わると手のひらから、淡い緑色の光があふれる。
光に包まれた傷口が、みるみるうちに閉じていく。
血が止まり、皮膚がつながり、ほんの数秒で、そこには薄い線が残るだけになった。
「ありがとうございます、魔女さま!」
おじさんは何度も頭を下げて帰っていった。
私は、母の腕の中で固まっていた。
(……縫合もなしに? 数秒で? 感染は? 瘢痕は? ちょっと待って、組織の再生ってそんな速度で起きるものじゃ……)
頭の中で、教科書のページが次々とめくれていく。
でも、目の前で起きたことを説明できるページは、一枚もなかった。
(医学より……すごい……)
何年も必死に積み上げてきたものが、ひとつの光であっさり追い越されてしまった。
理解が追い付かない気持ちのまま、私は母のローブをぎゅっとつかんだ。
*
母は、街の人たちから「魔女さま」と呼ばれていた。
治癒の魔法で傷を治し、魔法の薬を作って病気の人に届ける。
郊外の小さな家には、毎日のように誰かが訪ねてきた。
そして私は、そのたびに母の後ろに隠れた。
「あらあら、ミミったら。またかくれんぼ?」
違う。かくれんぼじゃない。
人が怖いのだ。
前世の私は、医学部でも筋金入りの人見知りだった。
患者役の人と話す実習では、毎回、頭が真っ白になって固まっていた。
生まれ変わっても、その性格はまったく治っていなかったらしい。
(無理……知らない人の顔、見られない……)
母のローブに顔をうずめる私を見て、お客さんたちは「恥ずかしがり屋さんねえ」と笑った。
そのかわり、母と二人きりのときの私は、たくさん質問をした。
「おかあさん、これ、なあに?」
「これはね、熱を下げてくれる草。こっちは、傷によく効く草よ」
母は、薬草のことを何でも教えてくれた。
どの草が、どんな病気に効くのか。どうやって乾かして、どうやって煎じるのか。
(この草、解熱作用があるの……? だとしたら、成分は何だろう。ロキ○ニンと似たような働きをしてるのかな)
母の話を聞きながら、私の頭の中では、前世の知識と、この世界の薬草が少しずつつながっていった。
それは、とても楽しい時間だった。
*
三歳になった頃、母が言った。
「魔法はね、三歳から四歳くらいになると、少しずつ使えるようになるものなの。ミミも、そろそろ使えるようになるかもしれないわね」
その言葉に、私の胸は高鳴った。
(私も、あの光が使えるかもしれない……!)
その日から、私の特訓が始まった。
母のまねをして、手のひらを前にかざす。
目を閉じて、体の中の「何か」を探す。
それっぽい呪文を唱えてみる。
前世で読んだ漫画の登場人物や、アニメの魔法少女がよくするポーズを、片っ端から試してみる。
——何も起きない。
……ちょっと恥ずかしくなった。
次の日も。その次の日も。一か月経っても、魔法は使えなかった。
近所の子どもたちは、指先に小さな火を灯したり、手のひらに水の玉を浮かべたりして遊んでいた。
私は家の窓から、それをこっそり眺めていた。
「焦らなくていいのよ、ミミ。魔法が目覚めるのは、人それぞれだから」
母はそう言って、私の頭をなでてくれた。
でも、その笑顔が少しだけ曇っていることに、私は気づいていた。
*
四歳の誕生日を過ぎた、ある夜のこと。
母は私の両手をそっと握り、目を閉じた。
母の手から、あたたかいものが流れ込んでくる。体の中を、何かがゆっくりと探っていくような感覚。
長い沈黙のあと、母は目を開けた。
「……ミミの中には、魔力が、ないみたい」
小さな、小さな声だった。
ああ、やっぱり。
心のどこかで、ずっとそんな気がしていた。
生まれ変わっても、私は私のままだった。
人の顔も見られない、ただの臆病な元医学生。あの光を、私は一生、手に入れることができない。
うつむいた私を、母がぎゅっと抱きしめた。
「それでも、あなたは私の自慢の娘よ。魔法が使えなくても、ミミはミミなんだから」
母の腕の中は、生まれた日と同じように、あたたかかった。
私は母のローブに顔をうずめたまま、声を出さずに泣いた。
窓の外では、近所の子どもたちの小さな魔法の光が、星みたいにちらちらと揺れていた。
——この世界で、私だけが魔法を使えない。




