第21話 人前に立つ日
偽物の薬屋がつぶれてから、三日が過ぎた。
店はいつもどおりだった。朝に薬草の世話をして、昼から小窓を開けて、夕方に閉める。きのうは咳の子が二人と、指を切った職人さんと、腰の痛いおばさんが来た。平和だ。
だから、私はすっかり油断していた。
「ミミさん、ごきげんよう!」
昼すぎ、扉の鈴を鳴らして入ってきたのは、ギルドの制服だった。エマさんは帳面を抱えて、にこにこしている。この人がにこにこしているときは、だいたい、こっちの都合など考えていない。
「ギルドから、正式に感謝状をお出しすることになりました」
「……はい?」
「偽物の毒草が街中に出回るところでしたから。ギルドの名前にも傷がつくところでした。……ですので、みんなの前で、お渡しします」
カーテンの内側で、私の心臓が、すごい音を立てた。
(みんなの前。みんなの前って言った。いま確かに言った)
「……あ、あの。郵便とか、では」
「式です」
「……お、置いていくだけ、とかでは」
「式です」
「…………」
「三日後の昼、ギルドの大広間で。逃げたら、家まで取りに行きます」
にこにこしたまま、エマさんは帰っていった。
*
その日の夜、台所に人が集まった。ハンナさん、レインさん、リナ先輩。三人とも、妙にはりきっていた。
「よし、練習しよう」
リナ先輩が、椅子を一つ、部屋の真ん中に置いた。
「ここに立って、わたしたち三人に向かって『ありがとうございます』。それだけ」
「……それだけ、ですか」
「それだけ」
簡単じゃないか、と思った。
思ったのだけれど、椅子の前に立って、三人が顔を上げたとたん、のどの奥がきゅっと閉まった。心臓が耳の中に移動した。足の指が、勝手に丸まった。
「……あ、ありが」
「うん」
「……ありが、と」
「もうちょい」
「……ありがとうございましゅ」
噛んだ。
レインさんが、床に転がって笑った。
「ましゅ!ミミちゃん、ましゅって言った!」
「……れ、レインさん、笑わないで、ください」
「むりー!」
ハンナさんが、お茶をすすりながら、のんびり言った。
「まあ、三日あるんだから。毎晩やればいいさ」
毎晩。
(毎晩、これをやるの……?)
*
二日目の夜は、帽子を取る練習になった。
「式のときは、さすがに取らないとね」
リナ先輩が、私の帽子のつばに手をかけた。
私は全力で両手で押さえた。
「む、むり、です。むりです。これだけは」
「どうして」
「……顔が、出ます」
「顔は出していいんだよ、ふつう」
「よくないです」
結局、帽子はかぶったままでいいことになった。かわりに、つばを「目が見えるくらいまで」上げる、という約束をさせられた。
三日目の夜は、レインさんが人形を二十体ならべて「お客さんだと思って」と言い出したので、ハンナさんに止められた。
*
そして、当日になった。
ギルドの大広間は、人でいっぱいだった。
扉のすきまからのぞいて、私は固まった。
(多い。多い多い多い。なんで。感謝状を渡すだけでしょう。なんで椅子が並んでるの。なんで前のほうに偉そうな人がいるの)
冒険者。ギルドの職員。街の人。顔を知っている人も、知らない人もいる。パン屋のおじさん、八百屋のおばさん、鍛冶屋のおじいさん。トマくんが、お母さんと前のほうに座っていた。
そして、いちばん端の壁ぎわに、ライルさんと騎士学校の生徒たちまでいる。
「ミミさん、どうぞ」
「……やっぱり、郵便で」
「どうぞ」
背中を押された。
大広間の真ん中を、歩かされた。
足もとしか見えない。というより、足もとしか見ていない。
(ブーツ。ブーツ。サンダル。すり減った革靴。小さい靴。……数えてる場合じゃない。前。前を見て。いや前は見なくていい。床でいい。床を見て歩けばいい)
前に出ると、エマさんが巻物を広げた。
「薬師ミミ殿。このたびの働きに対し、冒険者ギルドリンデル支部より、感謝の意を——」
読み上げる声が、頭の上を通りすぎていく。意味が、半分も入ってこない。
(手。手をどこに置けばいいんだろう。前なのか、後ろなのか。ふつうの人って、手をどうしてるの。みんな、どうやって立ってるの)
「——以上です。ミミさん、どうぞ」
巻物が、目の前に差し出された。
両手で受け取る。思っていたより重かった。
そして、広間が、しん、とした。
みんなが、私を見ていた。
(……あ)
(……ここ、何か言うところだ)
練習した。三晩も練習した。言葉は決まっている。「ありがとうございます」。七文字。たった七文字。
私は、息を吸った。
「……あ、ありがとうご、ございま」
声が裏返った。
「——ましゅ」
広間が、笑いに包まれた。
悪い笑い方ではなかった。「かわいいねえ」とか「がんばれー」とか、そういう声がまざっていた。
でも、そんなことは、このときの私には一切関係がなかった。
(しんだ。いま、しんだ。わたしはここで死にました)
私はその場にしゃがみこんで、帽子のつばを両手で引き下ろし、頭を抱えた。感謝状を抱えたまま、ちいさく丸くなった。
「ミミちゃん、立って!立ってー!」
レインさんが引っぱったけれど、無理だった。足腰から力という力が消えていた。
*
——そのときだった。
どたん、と音がして、泣き声が上がった。
「わあああん!」
トマくんだった。椅子の上に立って手を振っていたらしく、そのまま前のめりに落ちたのだ。ひざを石の床で打って、血が出ている。
お母さんがあわてて抱き起こす。まわりの人がざわざわして、誰かが「医者を」と言った。
気がついたら、私は立っていた。
人をかき分けて、トマくんの前にしゃがみこんでいた。
「見せて」
声が、出た。
さっきまで七文字が言えなかったのに、ふつうの大きさの声が、ふつうに出た。
「膝を伸ばして。……うん、骨は平気。切っただけ」
私はかごから布と水の革袋を出して、傷の砂を流した。何度も、しつこく流した。トマくんが「いたい!」と叫んだので、「我慢して。ここをきれいにしないと、あとでもっと痛くなるから」と言った。
水気を布で押さえて、薬を塗って、布を当てて、包帯を巻く。きつく巻かない。腫れるから。
「はい、終わり。今日は走らないこと。明日、お店においで。替えるから」
「……うん」
トマくんは、もう泣きやんでいた。
顔を上げた。
——大広間の全員が、こっちを見ていた。
しん、としていた。さっきよりも、ずっと静かだった。
(…………あ)
忘れていた。ここ、人がいっぱいいる場所だった。
ひゅっ、と喉が鳴った。手が震えだした。耳が熱い。
「……ひっ」
私は、感謝状とかごを抱えて、来た道を全速力で戻り、大広間の柱の陰にすべりこんだ。
誰かが、ぷっと吹き出した。
そして、拍手が起きた。
柱の陰で、私は丸くなったまま、拍手を聞いていた。
顔が熱い。消えてしまいたい。
でも、ほんの少しだけ——ほんの少しだけ、うれしかった。
「ミミちゃん」
リナ先輩が、柱の陰にしゃがみこんで、こっちをのぞいた。
「今の、見てた?」
「あんた、膝を見たとたんに声が出たよ」
「……でま、した」
「うん。出てた」
リナ先輩は、おかしそうに笑った。
「人前はだめで、患者の前だと平気。……それ、才能だよ」
「……さ、才能、ですか」
「薬屋としてはね。生活は大変そうだけど」
*
帰り道、ハンナさんが感謝状を持ってくれた。
レインさんは、ずっと「ましゅ」と言って笑っていた。三回目で私が無言で袖を引っぱったら、ようやくやめた。
店に帰って、壁を見た。侯爵さまの書状の横に、少しだけすきまがある。
感謝状を、そこに並べて飾った。
二枚。
母の家にあったものは、全部焼けてしまった。いま壁にあるのは、この街で、この半年のうちにもらったものだけだ。
(……ふえた)
その夜、ノートに書いた。
『かんしゃじょう、もらった。
ありがとうございます、が 言えなかった。「ありがとうございましゅ」に なった。
トマくんの ひざは、あさって もう一回 みる。
——レインさんが 十六回 まねした』




