第19話 霧の谷
出発の朝は、よく晴れていた。
ハンナさんが、店の前で、大きな包みを三つ押しつけてきた。パンと、チーズと、干した果物。
「谷に着く前に、ちゃんと食べるんだよ。腹が減ってると、足もとがふらつくんだからね」
「……は、はい」
「それと、ミミちゃん」
ハンナさんは、私の帽子を、きゅっと深くかぶせ直した。
「こわくなったら、帰っておいで。草なんかより、あんたのほうが大事なんだから」
*
街の北門に、ガロンさんが立っていた。斧をかついで、にやにやしている。
「よう。俺も谷の入口まで送ってやるぜ」
「いらなーい」
レインさんが、ばっさり切った。
「おじさん、足が重いもん。森の中だと、あたしたちの倍の時間かかるよ」
「……おい、エルフの嬢ちゃん。言い方ってもんがあるだろうが」
「ほんとのことじゃん」
「ほんとだから腹が立つんだよ」
ガロンさんは、ぶつぶつ言いながら、私の帽子の上に大きな手をのせた。
「——嬢ちゃん。谷の底に降りるな、とは言わねえ。ただ、霧が濃くなったら、すぐ上がれ。あそこの霧は、生き物みてえに動く」
「……は、はい」
「それと、これ」
ガロンさんが、私のかごに、小さな瓶を放りこんだ。はちみつだった。
「帰ったら甘いポーション作るんだろ。足りなかったら困るからな」
レインさんが、両手を上げて跳ねた。
「おじさん、好き!」
「調子のいいやつだな」
*
森に入ると、空気が変わった。
日の光が、葉の間からまだらに落ちてくる。足もとは苔で、歩くたびに、ふかりと沈む。
レインさんが先を歩いて、ときどき立ち止まっては、耳をぴくぴくさせた。
「右のほう、水の音。……それと、ちょっと向こうに魔物。寝てるね。起こさないように、こっち」
「……よ、よくわかり、ますね」
「エルフだもん」
リナ先輩が、後ろから私の荷物を半分持ってくれた。
「ミミちゃん、しんどくなったら言って。意地を張られるのが、いちばん困る」
「……は、はい」
「よろしい」
昼をすぎたころ、木がまばらになって、地面が下りはじめた。
そして、目の前が、白くなった。
谷だった。
向こう側の崖が、見えない。深さも、幅も、わからない。白い霧が、ゆっくりと渦を巻いて、下から上へ、上から下へと動いている。
風はないのに、霧だけが動いていた。
「……うわ」
リナ先輩が、小さくつぶやいた。
「……これ、方角わかんなくなるやつだ」
「あたし、わかるよ」
レインさんが、腰のひもを一本取り出して、私の手首とつないだ。それから、もう一本をリナ先輩の手首に。
「はい、つながった。これで、はぐれない」
*
崖を、斜めに降りていく。足もとは岩で、ところどころ、ぬるりと滑った。
降りるにつれて、霧の色が変わった。白から、うっすらと青へ。
岩の表面が、ぼんやりと光っていた。
月光苔だった。七話で、レインさんが採ってきてくれたもの。それが、この谷では、岩じゅうに生えていた。
「……い、いっぱい、ある……」
「でしょ。ここ、すごいんだよ」
レインさんが得意げに胸を張った。
「でも、ここまで来る人がいないの。だから、誰も知らない」
谷の底に近い、岩棚のところだった。
リナ先輩が、足を止めた。
「……ミミちゃん。これ、見て」
岩棚の苔が、ごっそりとはがれていた。人の足で、何度も踏まれた跡だった。
その先に、土がえぐれた場所がある。何かを、根ごと引き抜いた跡。穴が、いくつも、いくつも並んでいた。
「……ほ、ほかの、ひとが……」
「来てるね。しかも、何人も」
リナ先輩は、穴のふちを指でさわった。
「土が、まだ湿ってる。……今日か、昨日」
胸の奥が、冷たくなった。
ギルドに依頼を出して、七日間、誰も受けなかった。戻らずの谷だから。危ないから。
それなのに、ここに人が来ている。
「……ミミちゃん、落ちこむのはあと」
リナ先輩が、私の背中を軽く叩いた。
「残ってるかどうか、先に見よう」
——そのときだった。
レインさんの耳が、ぴんと立った。
「止まって」
声が、低かった。
下の霧の中で、ごり、と音がした。石と石がこすれる音。それが、ゆっくりと、こちらへ近づいてくる。
霧の中に、影が浮かんだ。
馬車くらいの大きさの、背の低いトカゲだった。皮膚が、岩そのものに見える。ごつごつして、灰色で、苔まで生えていた。
イワハダオオトカゲ。
(……う、動けない)
足が、石になったみたいだった。
リナ先輩が、私の前に出て、剣を抜いた。でも、構えながら、小さく言った。
「——レインちゃん。あれ、斬れる?」
「むり。剣、折れるよ」
「だよね」
リナ先輩は、あっさり剣を鞘に戻した。
「じゃあ、逃げよう」
レインさんが、足もとの石を拾って、谷の奥へ思いきり投げた。
かこん、と乾いた音が、霧の向こうで跳ねた。
トカゲの頭が、ゆっくりとそちらを向く。そして、ごり、ごりと、音のしたほうへ歩いていった。
「……い、いまの……」
「目がよくないんだよ、あいつ。音でさがすの」
レインさんは、ひもをくいと引いた。
「今のうち。上の岩棚、行こう」
岩棚をひとつ上がったところで、私は、足を止めた。
風が、谷を吹き上がってきた。
——そのとき、音がした。
りん。
小さな、小さな音だった。すず虫の声より細い。
「……いま」
「え、なに?」
「……おと、しませんでした、か」
三人で、息をひそめた。
もう一度、風が吹き上がる。
りん、りん。
崖の中腹に、それは咲いていた。
紫色の、釣り鐘の形をした花。茎の先から、いくつも連なって垂れ下がっている。
風が吹くたび、花と花がふれ合って、かすかに鳴っていた。
母のノートの絵と、同じだった。
「……むらさき、つりがね……」
「鳴るんだ」
リナ先輩が、ぽかんと口を開けた。
「……だから、鈴か」
足場は、人ひとりがやっと立てるくらいの幅しかなかった。
レインさんが、ひょいと先に立って、手を差し出してくれた。
「ミミちゃん、こっち。足、ここ置いて。ゆっくりでいいよ」
私は、革の手袋をはめた。母のノートに、何度も書いてあった。さわった手で、目をこすってはいけない。
花を三房。葉を八枚。根は二株だけ、土ごと。
それ以上は、採らなかった。
「もっと採らなくていいの?」
「……か、かれちゃい、ます」
私は、残った株に、そっと土を寄せた。
「……らいねんも、ここに、あってほしい、ので」
布で包んで、かごの底に入れて、さらに布をかけた。
その上に、月光苔を少しと、ふつうの薬草を重ねる。毒草だけを剥き出しで持ち歩くのが、こわかった。
「よし、帰ろう。日が暮れる前に、森を出たい」
リナ先輩が、空を見上げた。
霧の向こうで、日が、もう傾きはじめていた。
*
谷を上がりきって、森へ入ったところだった。
向こうから、人が歩いてきた。
五人。革の鎧を着た、大きな男の人たちだった。腰に剣を下げている。冒険者に見えたけれど、ギルドの記章はつけていなかった。
先頭の男が、大きなかごを背負っていた。
そのかごから、紫色の花が、あふれるほどはみ出していた。
*
(……っ)
私は、思わず、帽子のつばを引き下ろした。
男たちは、私たちを見て、ちらりと笑った。
「おい見ろよ、子どもだ」
「こんなとこで、何してんだ。親はどうした」
レインさんが、私の前に立った。
「……ミミちゃん、行こう」
私は、うなずいた。
でも、すれちがうとき、どうしても、かごを見てしまった。
紫色の、釣り鐘の形をした花が、山のように積まれていた。根も、葉も、まとめて引き抜かれて、土がぼろぼろと落ちている。
そして、男たちは、素手だった。
男たちの足音が、遠ざかっていった。
しばらく歩いてから、レインさんが、くるりと振り返った。
「ねえ、ミミちゃん」
「……は、はい」
「あの花、揺れてたよね」
「……は、はい」
レインさんの耳が、ぴくりと動いた。
「——鳴ってなかった」
私は、足を止めた。
風は、さっきから、ずっと吹いていた。
あのかごは、歩くたびに揺れていた。花と花が、何度もふれ合っていた。
なのに。
りん、とも、鳴らなかった。
「……せ、せんぱい」
「うん」
「……あれ……ちがう、くさ、です」
森を抜けるころには、日が落ちかけていた。
街の門の灯りが、遠くに小さく見えている。
リナ先輩が、歩きながら、ぽつりと言った。
「……ミミちゃん。あの人たち、素手だったね」
「……は、はい」
「もし本物だったら、今ごろ、全員倒れてる」
リナ先輩は、前を見たまま続けた。
「倒れてないってことは、やっぱり、別の草。……で、あの量」
「……は、はい」
「売る気だ」
*
街に入ったのは、夜だった。
大通りの、ずっと先。店の明かりが、一軒だけ、ぽつんとついていた。
前は空き家だったはずの場所だった。
真新しい看板が、灯りに照らされている。
『死神の鈴 入荷 ——心ノ臓ニ効ク、幻ノ霊草』
きれいな、整った字だった。




