第18話 死神の鈴
リナ先輩と丘の上で話してから、ひと月が過ぎた。
リナ先輩は、本当に、リンデルに残ってくれた。
昼間は冒険者ギルドで仕事を受けて、夕方、店が閉まるころになると、ふらりと顔を出す。
「ミミちゃん、今日の患者さんで気になった人いた?」
店の奥のテーブルで、二人でお茶を飲みながら、その日のお客さんの話をする。
熱の出方。咳の音。傷の治り方。
私が「たぶん、こういうことだと思うんです」と言うと、リナ先輩は「うん、わたしもそう思う」とか、「病棟だと、そういうときはね……」と、前の世界の話をしてくれる。
誰にも言えなかった言葉で、話ができる。
それだけで、胸の奥が、ずっとあたたかかった。
*
でも、この一か月、ずっと気になっているお客さんたちがいた。
「お嬢ちゃん、また足がむくんじまってねえ……」
鍛冶屋のおじいさん。
「最近、ちょっと坂を上っただけで、息が切れてしまって……」
パン屋さんのおばあさん。
「夜、横になると、胸が苦しくて眠れないんだ。座ったまま寝てるよ」
仕立て屋のおじさん。
みんな、年を取ったお客さんだった。
足がむくむ。
少し動いただけで、息が切れる。
横になると苦しくて、座ったままでないと眠れない。
(……心臓が、弱ってる)
体じゅうに血を送り出す力が、少しずつ落ちている。
だから、水が足にたまって、むくむ。
横になると、胸のほうに水がたまって、苦しくなる。
カーテンの内側で、私は、ぎゅっと唇をかんだ。
今の私の薬では、むくみを少しやわらげることしかできない。
心臓そのものを、助ける薬は、作れない。
(……どうしたら、いいんだろう)
*
その夜。
ランプの油が、半分になる少し前。
私は、新しいノートの、空白のページをめくっていた。
思い出せなくて、空白のまま残しているページ。
その一枚を見つめていたとき、ふっと、頭の奥で、何かが光った。
(……むらさきいろの、つりがねみたいな、はな)
母のノートの、後ろのほうのページ。
他のページとは違って、ふちが赤いインクで囲まれていた。
母の字も、いつもより強く、太く書かれていた。
そこに描かれていたのは、紫色の、釣り鐘の形をした花が、いくつも連なって垂れ下がっている絵だった。
(……なんて、書いてあったっけ)
目を閉じる。
母の字を、思い出す。
一文字ずつ。
『ムラサキツリガネ。別名、死神の鈴。
葉にも、花にも、根にも、強い毒がある。
さわった手で目をこすってはいけない。子どもの手の届くところに置いてはいけない。
けれど、ほんの、ほんの少しだけなら—— 弱った心臓を、もう一度、力強く動かす薬になる。
足のむくみ。息切れ。横になると苦しい胸。
そういう人に、ほんのひとかけら。
量をまちがえれば、薬は、そのまま毒にもどる。
吐き気。脈がおそくなる。目に見えるものが、黄色くにじむ。
そうなったら、すぐにやめること。
——これは、わたしにも、まだうまく作れない。いつか、ミミと一緒に、ためしてみたい』
目を開けたとき、私の手は、震えていた。
(……おかあさん)
『いつか、ミミと一緒に、ためしてみたい』
あの一行を、思い出した。
*
次の日の夕方。
リナ先輩に、ムラサキツリガネのことを話した。
リナ先輩は、しばらく黙って、私の話を聞いていた。
それから、低い声で言った。
「……前の世界にも、似た薬があったね」
「……は、はい」
「心臓の薬。昔は、ある花から作ってた。今でも、すごく大事な薬。……でも、すごく、こわい薬」
リナ先輩は、私の目をまっすぐ見た。
帽子のつばの下から、リナ先輩の口もとが、きゅっと結ばれているのが見えた。
「効く量と、毒になる量が、すごく近いの。ほんの少し多いだけで、命に関わる。病棟でも、その薬を使ってる患者さんは、毎日、脈と、吐き気と、見え方を、何度も確かめてた」
「……はい」
「それでも、作りたい?」
私は、帽子のつばを、ぎゅっと握った。
鍛冶屋のおじいさん。
パン屋さんのおばあさん。
座ったまま眠っている、仕立て屋のおじさん。
「……つ、つくりたい、です」
声は、ふるえていた。
でも、ちゃんと言えた。
「……い、いきなり、だれかに、のませたり……しません。すこしずつ、たしかめて……リナせんぱいにも、セレナさんにも、みてもらって……」
「ぜったいに、ひとりで、むりは……しません」
リナ先輩は、しばらく私を見つめていた。
それから、ふっと笑った。
「……ちゃんと、わかってるね」
「わかった。わたしも手伝う。でも、まずは材料がなきゃ、話にならないね」
*
ムラサキツリガネは、街の近くには生えていない。
ノートに書いてあった場所は——森のずっと奥の、「霧の谷」。
次の日、私は、店の休みの日に、冒険者ギルドへ行った。
受付のエマさんに、依頼の紙を差し出す。
『いらい ムラサキツリガネ(しにがみの すず)の くさを とってきて ください。
ばしょ:きりの たに。
ねも、はも、はなも、ぜんぶ いります。
どくが あるので、てぶくろを して、さわった てで めを こすらないで ください。
ミミの くすりや ミミ』
エマさんは、依頼の紙を読んで、少しだけ顔をくもらせた。
「……霧の谷、ですか」
「……は、はい……」
「ミミさん。依頼は、もちろんお出しします。でも……」
エマさんは、困ったように眉を下げた。
「たぶん、受ける人は、なかなかいないと思います」
*
エマさんの言ったとおりだった。
一日たっても。
二日たっても。
三日たっても。
依頼の紙は、ギルドの掲示板に、ぽつんと貼られたままだった。
四日目に、様子を見に行ったとき、ちょうどガロンさんが、掲示板の前に立っていた。
「……お前の依頼か、これ」
こくり。
ガロンさんは、難しい顔で、腕を組んだ。
「霧の谷はな、冒険者の間じゃ、『戻らずの谷』って呼ばれてる」
(……もどらず、の、たに)
「一年じゅう、霧が晴れねえ。道に迷ったら、まず出てこられねえ。そのうえ、谷の底には、イワハダオオトカゲの巣がある。石みてえに硬い皮の、でけえトカゲだ。剣が通らねえ」
ガロンさんは、苦い顔で、依頼の紙を見上げた。
「そこで、毒草を摘んでこいってんだ。間違えて毒草に素手でさわっちまったら、それだけでおしまいだ。……正直、俺でも行きたくねえ」
(……そう、だよね)
私は、うつむいた。
当たり前だ。
誰だって、そんな危ないところには、行きたくない。
(……ごめんなさい、むりな、いらいを、だして)
「……悪いな」
ガロンさんの大きな手が、ぽん、と私の帽子の上に乗った。
「お前が、何のためにこれが欲しいのかは、わかってる。……鍛冶屋のじいさん、俺の親父の昔なじみなんだ」
(……え)
「だから、余計に、軽々しく『行ってやる』とは言えねえ。行って、戻ってこられなきゃ、意味がねえからな」
*
それから、さらに三日が過ぎた。
依頼の紙は、まだ、掲示板に貼られたままだった。
その間にも、鍛冶屋のおじいさんは、杖をついて店に来た。
前より、足のむくみがひどくなっていた。
小窓から薬を渡しながら、私は、何も言えなかった。
(……どうしよう)
夜、ベッドの中で、天井を見つめる。
(このままじゃ……)
ふと、一人の顔が浮かんだ。
いつも、ぴょんぴょん跳ねるように走ってくる、小さな背中。
森の奥の薬草を、何度も何度も、採ってきてくれた人。
(……レイン、さん)
でも。
レインさんは、私の友だちだ。
友だちを、そんな危ないところに行かせるなんて。
(……だめ、だよね)
でも、もう、他に、頼める人がいなかった。
(……だめで、もともと。きいて、みるだけ……)
*
次の日の夕方。
店を閉めたあと、店の奥のテーブルで、私は、レインさんと向かい合っていた。
帽子のつばを、いつもより深く下げる。
「どうしたの、ミミちゃん? なんか、元気ないよ?」
レインさんが、首をかしげた。
「……あ、あの……れいん、さん……」
声が、ふるえた。
「……お、おねがいが……あって……」
私は、ムラサキツリガネのこと、霧の谷のこと、ギルドで誰も依頼を受けてくれなかったことを、全部話した。
鍛冶屋のおじいさんのことも。
母のノートの、『いつか、ミミと一緒に、ためしてみたい』の一行のことも。
「……で、でも……すごく、あぶない、ところ、で……。が、がろんさんも……いきたくないって……」
「……だ、だから……む、むりなら……ことわって、ください……。ほんとに、むりなら……」
最後のほうは、声が、ほとんど消えかけていた。
テーブルの向こうで、レインさんは、しばらく黙っていた。
(……やっぱり、だめ、だよね)
そう思った、そのとき。
「いいよ」
あっさりとした声だった。
(……え?)
「行くよ、霧の谷。あたし、森なら得意だもん。エルフだからね!」
帽子のつばの下から、レインさんの口もとが見えた。
いつもと同じ、にかっとした笑顔だった。
「……ほ、ほんとに……?」
「ほんとほんと! ミミちゃんの頼みだもん、断るわけないじゃん!」
レインさんは、胸をどんと叩いた。
それから、指を二本、ぴっと立てた。
「——ただし! 条件が、二つあります!」
(……じょうけん?)
*
「一つ目」
レインさんは、一本目の指を、私の帽子のつばの前に突き出した。
「ミミちゃんも、一緒に来ること」
(…………え?)
頭が、真っ白になった。
「だってさ、毒草なんでしょ? あたし、草のことはミミちゃんほど詳しくないもん。もし似てる別の草を間違えて採ってきちゃったら、困るでしょ?」
「葉っぱも、花も、根っこも、どれがいいのか、どう採ったら安全なのか、ちゃんとわかるの、ミミちゃんだけだよ」
(……で、でも……もりの、おく……)
森の奥。
母が、帰ってこなかった場所。
あの日から、一度も、足を踏み入れたことのない場所。
帽子を握る手が、かたかたと震えだした。
「大丈夫」
レインさんの声が、少しだけ、やわらかくなった。
「ミミちゃんのことは、あたしが絶対に守る。霧の中でも、あたし、迷わないから。エルフの耳と鼻、なめないでよね」
「それに、一人で行かせるわけじゃないよ。ミミちゃんの手は、ずっと、あたしが握ってる」
レインさんの小さな手が、テーブルの上で、私の手を、ぎゅっと包んだ。
あたたかかった。
(……おかあさん)
母は、一人で、森の奥へ行った。
そして、帰ってこなかった。
でも、私は。
一人じゃ、ない。
「……ふ、ふたつめ、は……?」
声が、かすれた。
レインさんは、二本目の指を立てて、にやっと笑った。
「二つ目。帰ってきたら、ガロンのおじさんがくれたはちみつで、甘いポーションを作ること!」
(……え)
「霧の谷から帰ってきたら、絶対、くたくたでしょ? そのときに、あのにっがーいポーション飲まされたら、あたし泣いちゃうもん!」
レインさんは、わざとらしく、べーっと舌を出した。
「だから、甘いの! ぜったい、甘いの! 約束!」
——ぷっ。
思わず、笑ってしまった。
笑ったら、肩から、ふっと力が抜けた。
手の震えが、少しだけ、おさまっていた。
「……は、はい……」
私は、レインさんの手を、ぎゅっと握り返した。
「……や、やくそく、します……。あまい、ぽーしょん……」
「やったー!」
レインさんが、椅子の上で飛び跳ねた。
それから、急に、まじめな顔になった。
「あ、それとね、ミミちゃん」
「……?」
「あたしたちだけじゃ、やっぱりちょっと心配だから、リナ先輩にも声かけていい? あの人、旅慣れてるし、ケガの手当てもできるでしょ?」
(……リナせんぱい)
こくり、とうなずいた。
「よーし! じゃあ、霧の谷探検隊、結成だね!」
レインさんが、元気よく拳を突き上げた。
*
その夜。
ランプの油が半分になる前に、私は、新しいノートを開いた。
ムラサキツリガネのページ。
思い出した母の字を、一文字ずつ、ていねいに書き写した。
そして、最後に、一行だけ、自分の字で付け足した。
『おかあさん。わたし、もりの おくに いってきます。
ひとりじゃ ないから、だいじょうぶ』
ペンを置いて、ランプを消す。
暗い部屋の中で、窓の外の、二つの月を見上げた。
胸の奥は、まだ、少しだけこわかった。
でも、握ってくれたレインさんの手のあたたかさが、まだ、手のひらに残っていた。




