第17話 ふたつの月の下で
誕生日から、三日後。
お昼ごはんの時間。
「ミミの くすりや」は、お昼を食べ終わってから開ける。
それが、みんなで決めた「やくそく」だ。
扉には、ハンナさんが書いてくれた札がかかっている。
『じゅんびちゅう』
私は、店の奥のテーブルで、ハンナさんが作ってくれたお昼ごはんを食べていた。
焼きたてのパンに、チーズと、ハムと、トマトをはさんだもの。
両手で持っても、私の顔くらいある。
頭には、ハンナさんにもらった、小さな帽子。
誕生日から、ずっとかぶっている。
(……おいしい)
もぐもぐ、もぐもぐ。
ほっぺたが、パンでぱんぱんになっていた。
ハンナさんは、ちょうど、市場まで買い物に出かけていた。
レインさんは、ギルドの薬草採取の依頼で、朝から森へ行っている。
店の中には、私一人だった。
——コン、コン。
扉が、叩かれた。
(……ん?)
まだ、準備中の札がかかっているはず。
コン、コン。
「ごめんくださーい。準備中なのはわかってるんだけど、ちょっとだけ、いいかな?」
はきはきした、少しかすれた、女の人の声。
(……この、こえ……)
どきん、と胸が鳴った。
三日前。
「内服薬」と言った、あの声。
(り、りな、さん……!)
*
パンを口いっぱいにほおばったまま、私は固まった。
(ど、どうしよう……カーテンの、なかに……)
でも、カーテンの小窓は、店のカウンターにある。
今いるのは、店の奥のテーブル。
扉のすぐ向こうに、リナさんがいる。
「……も、もが……」
返事をしようとしたら、口の中のパンのせいで、変な声しか出なかった。
「あ、いるのね? ごめんね、食事中だった?」
扉が、少しだけ開いた。
すきまから、日焼けした手と、土ぼこりのついたマントの裾が見えた。
「入っても、いいかな。すぐ済むから」
私は、帽子のつばを、ぎゅっと下に引っぱった。
つばのおかげで、顔の上半分が隠れる。
リナさんの顔も、見えない。
(……ぼうし、が、あれば……)
「……ど、どうぞ……」
口の中のパンを、なんとか飲みこんで、私は言った。
*
リナさんは、店の中に入ってくると、カウンターではなく、私のいるテーブルの向かいの椅子に、ひょいと腰かけた。
(ち、ちかい……!)
つばの下から見えるのは、リナさんの手と、テーブルの上だけ。
「その帽子、かわいいね。この前は、カーテンの向こうだったから、どんな子かわからなかったけど」
リナさんは、くすっと笑った。
「パン、食べてていいよ。わたし、ちょっと薬のことを聞きたいだけだから」
(……くすりの、こと……?)
リナさんは、腰の小袋から、小瓶を一本取り出して、テーブルの上に置いた。
三日前に買っていった、毒消し。
「これ、すごく効くって、ギルドの人たちに聞いたの。でね、ちょっと気になったんだけど——」
リナさんの声が、ほんの少しだけ、ゆっくりになった。
「この毒消しって、経口投与してから、どのくらいで効き始めるの? 即効性はある?」
(……けいこう、とうよ)
口から飲ませること。
この世界の人は、絶対に、そんな言い方はしない。
手の中のパンが、ぴたりと止まった。
(……わざと、だ)
三日前は、たまたまかもしれないと思った。
でも、今のは、ちがう。
わざと、言ってる。
私が、何と答えるか、試してる。
(……どう、しよう)
知らないふりをすることも、できた。
「わからないです」と言って、黙っていることも。
でも。
つばの下から、リナさんの手が見えた。
日焼けした手。剣だこのできた手。
その手が、テーブルの上で、ほんの少しだけ、ふるえていた。
(……このひとも、こわいんだ)
もし、ちがったら。
もし、変な人だと思われたら。
それでも、確かめに来たんだ。
私は、パンをお皿に置いた。
それから、小さな声で、答えた。
「……の、のんでから……すぐ、ではないです。い、いちじかん、くらいで……ききはじめ、ます」
「うん」
「ど、どくの、まわりかたを……おそく、する……くすり、なので……そ、そっこうせい、は……あんまり、ないです。だ、だから……かまれたら、すぐ、のんで……うごかないで……あとは、ちゆしさんに……」
しゃべっているうちに、口が、勝手に動いていた。
「は、はんげんき、は……たぶん、ろく、じかん、くらい……だから、いちにち、にかい……。こ、こどもは、たいじゅう、で……はんぶん、に……」
はっとして、私は口を押さえた。
(……はんげんき)
薬が、体の中で半分になるまでの時間。
言ってしまった。
この世界には、ない言葉を。
テーブルの向こうで、リナさんが、ゆっくりと息を吐く気配がした。
「……そっか」
リナさんの手が、テーブルの上の小瓶を、そっと包みこんだ。
「やっぱり、そうなんだ」
その声は、少しだけ、ふるえていた。
でも、なんだか、泣きそうなくらい、うれしそうだった。
*
「ミミちゃん」
リナさんは、小瓶をしまうと、静かに言った。
「今夜、少しだけ、散歩しない? ちょっと、お話ししたいことがあるの」
(……おはなし)
「あ、もちろん、ハンナさんっていう人に、ちゃんとお許しをもらってからね。ミミちゃんには、夜の決まりがあるんでしょ? 街のみんなが、そう言ってた」
(……ばれてる)
「ランプの油が半分になる前に、ちゃんと帰すから。約束」
私は、帽子のつばの下で、しばらく黙っていた。
知らない人と、夜に、二人きり。
いつもの私なら、絶対に、うなずかない。
でも。
(……ききたい)
このひとが、誰なのか。
どうして、あの言葉を知っているのか。
私と、同じ——なのか。
「……は、はい……」
*
夕方、店を閉めたあと。
ハンナさんは、リナさんの顔をじっと見て、それから、私の顔を見た。
「……ミミちゃんが、自分から行きたいって言うのは、はじめてだねえ」
ハンナさんは、少しだけ驚いたように笑った。
「いいよ。でも、帽子はかぶっていくんだよ。夜風は冷えるからね」
「はい! ちゃんと、無事にお返しします!」
リナさんが、びしっと背筋を伸ばして答えた。
その姿勢が、なんだか、とても慣れているように見えた。
*
夜の街は、昼間とはちがう匂いがした。
パン屋さんの窯の、残り火の匂い。
どこかの家の、夕ごはんのスープの匂い。
リナさんは、私の歩く速さに合わせて、ゆっくりと歩いてくれた。
私たちは、街のはずれの、小さな丘に登った。
丘の上からは、リンデルの街の灯りが、全部見下ろせた。
空には、月が、二つ。
大きくて白い月と、小さくて青い月。
リナさんは、丘の上の、平たい石に腰かけた。
「ここ、旅の途中で見つけたの。この街で、いちばん空がよく見える場所」
私も、リナさんの隣に、少しだけ離れて座った。
しばらく、二人とも、何も言わなかった。
虫の声だけが、静かに聞こえていた。
「……ねえ、ミミちゃん」
リナさんが、空を見上げたまま、言った。
「月が二つあるのって、まだ、慣れない?」
(……っ)
この世界の人は、月が二つあるのを、不思議に思ったりしない。
生まれたときから、ずっと、そうだから。
「……は、はい……」
声が、かすれた。
「わたしもね、二十年たっても、まだ慣れないんだ」
リナさんは、くすっと笑った。
それから、ゆっくりと、こちらを向いた。
「わたしね、前は——日本っていう国で、看護師をしてたの」
*
——にほん。
その言葉を、この世界で、誰かの口から聞くことになるなんて。
思ってもいなかった。
胸の奥が、ぎゅうっと、熱くなった。
「総合病院の、外科病棟。新人のころから、ずっとそこにいた」
リナさんは、自分の手のひらを見つめた。
「人手が足りなくてね。夜勤が続いて、休みの日も呼び出されて。それでも、患者さんのナースコールが鳴ったら、走っちゃうんだよね」
リナさんの声は、明るかった。でも、少しだけ、遠かった。
「最後の夜勤の、明け方。記録を書き終わって、ナースステーションの椅子に座って、ちょっとだけ目を閉じたの」
リナさんは、肩をすくめた。
「で、気づいたら、東の国の、どこかの村で、赤ちゃんになってた」
(……おなじ)
声が、出なかった。
(わたしと、おなじ……)
「それから二十年。冒険者になって、いろんな国を旅して、あちこちで、ケガ人の手当てをしてきた。でも、わたしと同じ人には、一度も会ったことがなかった」
リナさんは、私の方を見た。
「……三日前、ミミちゃんの札を見たとき、びっくりしたんだ。『のむ くすり』『ぬる くすり』って、ちゃんと分けて書いてある。量も、子どもは半分って、きちんと書いてある。こんな札を書く薬師、この世界で初めて見た」
「だから、つい、口から出ちゃったの。『内服』って」
「そしたら、カーテンの向こうで、瓶が割れる音がした」
リナさんは、少しだけ笑った。
「今日の『半減期』で、確信したよ」
*
私は、帽子のつばを、ぎゅっと握りしめた。
言わなきゃ。
このひとには、言わなきゃ。
「……わ、わたし……」
声が、ふるえる。
「……い、いがくぶの……がくせい、でした……」
リナさんが、目を見開いた。
「……こっかしけんの、べんきょう、してて……」
積み上げた参考書。
とっくに冷めたコーヒー。
「医師国家試験まで、あと二百日」の付箋。
「……ずっと、ねてなくて……むねが、くるしくなって……」
そこで、言葉がつまった。
喉の奥が、熱くて、苦しくて。
でも、もう、止まらなかった。
「……そのまま……めが、さめなくて……」
「……きがついたら……あかちゃんに、なってて……」
ぽろり、と涙がこぼれた。
ずっと、誰にも言えなかったこと。
母にも。
ハンナさんにも。
ライルさんにも。レインさんにも。
言っても、きっと、わかってもらえないと思っていたこと。
「……だれにも、いえなかった……っ」
帽子のつばの下で、涙が、ぽたぽたと落ちた。
「……ずっと、ひとりだと、おもってた……っ」
次の瞬間。
ふわりと、あたたかいものに包まれた。
リナさんが、私を、ぎゅっと抱きしめていた。
「……うん。うん」
リナさんの声も、ふるえていた。
「わたしも。わたしも、ずっと、ひとりだと思ってた」
リナさんの胸からは、土ぼこりと、旅の匂いがした。
でも、その奥に、ほんの少しだけ。
消毒液みたいな、なつかしい匂いがした気がした。
*
どれくらい、そうしていただろう。
二つの月が、少しずつ、空を動いていた。
「……ねえ、ミミちゃん」
リナさんが、私の頭を、帽子ごとなでた。
「街の人たちから、聞いたよ。少し前に、働きすぎで倒れたんだってね」
(……う)
「……わたしたち、そろって、同じことで死んでるんだね」
リナさんは、ふっと笑った。
笑っていたけれど、その声は、少しだけ怒っているみたいだった。
「だからね、元先輩として、言わせて」
リナさんは、私の両肩に手を置いて、まっすぐにこちらを見た。
帽子のつばの下から、リナさんの口もとが見えた。
「患者さんを助けたいなら、まず、自分が倒れちゃだめ。わたしたちは、それを、命をかけて知ったんだから」
「……は、はい……」
「よろしい」
リナさんは、満足そうにうなずいた。
それから、空を見上げて、伸びをした。
「北の山、行くのやめた」
(……え?)
「しばらく、この街にいることにする。冒険者ギルドで仕事を受けながらね」
リナさんは、いたずらっぽく笑った。
「それで、たまに、ミミちゃんの薬屋に顔を出す。この世界の言葉じゃ話せないこと、いっぱい話そう」
(……このせかいの、ことばじゃ、はなせないこと)
経口投与。半減期。内服薬。外用。
私の頭の中にずっとあったのに、誰にも言えなかった言葉たち。
それを、話せる人がいる。
「……は、はい……っ」
私は、帽子のつばを、ほんの少しだけ、上げた。
リナさんの顔が、見えた。
日焼けした顔。
少し吊り上がった、勝ち気そうな目。
その目が、涙で、きらきらしていた。
ほんの、一瞬だけ。
でも、ちゃんと、目が合った。
「……よ、よろしく……おねがい、します……。りな、せんぱい……」
リナさんは、目を丸くして、それから、くしゃっと笑った。
「先輩、かあ。いいね、それ」
*
約束どおり、ランプの油が半分になる前に、リナさんは私をハンナさんの家の前まで送ってくれた。
「おやすみ、ミミちゃん」
「……お、おやすみ、なさい……」
扉を閉める前に、私は、もう一度だけ振り返った。
夜の通りを歩いていく、リナさんの背中。
この世界で、たった一人。
私と同じ空を、知っている人。
その夜、私は、新しいノートの最後のページに、小さく書いた。
『リナせんぱい。まえは、にほんで、かんごし。わたしと、おなじ。
——ひとりじゃ、なかった』




