第16話 六歳の誕生日と、遠い国の旅人
アルさんが来てから、半月ほどが過ぎた。
その日は、おやすみの日の前の日だった。
夕方近く。
そろそろ店を閉める時間というころ。
「次の方で、今日は最後でーす!」
レインさんの声のあと、小窓の向こうで、扉の鈴がちりんと鳴った。
入ってきた足音は、軽かった。
でも、ブーツの底がすり減っているのか、少しだけ、こすれるような音がした。
「よかったー、まだ開いてた」
女の人の声だった。
少しかすれた、でも、はきはきした声。
ハンナさんとも、エマさんとも、セレナさんとも違う。
小窓の下から見えたのは、日焼けした手と、使いこんだ革の手袋。
腰には、細い剣。
マントには、長い旅でついたような、土ぼこりがこびりついていた。
(……ぼうけんしゃ、さん……?)
「ここが、噂の『ミミの くすりや』? 旅の途中で、あちこちで名前を聞いたのよ。魔法を使わない、すごい薬師がいるって」
「……い、いらっしゃい、ませ……」
「わ、ほんとに子どもの声だ」
女の人は、くすっと笑った。
ばかにした感じじゃなかった。
なんだか、やさしい笑い方だった。
「えっとね、毒消しと傷薬が欲しいの。これから、北の山を越えるつもりでさ。あっちは毒持ちの魔物が多いって聞いたから」
「……ど、どくけしと……きずぐすり……」
私は、棚から小瓶を二本取った。
札を確かめる。
『どくけし。のむ くすり』
『きずぐすり。きずに ぬる。のんでも よい』
小窓から、そっと差し出す。
日焼けした手が、二本の小瓶を受け取った。
それから、札をのぞきこむ気配がした。
「えーっと……」
女の人は、小瓶を一本ずつ、光にかざして見比べているようだった。
そして、何気なく、こう言った。
「こっちの毒消しは、内服薬ね。で、こっちの傷薬は、外用もできるけど、内服のほうが効くってこと?」
——ぱりん。
私の手から、三本目の小瓶が、床に落ちていた。
*
(……え?)
床に、緑色の液体が広がっていく。
割れたガラスのかけらが、きらきらと光っていた。
でも、私は、それを見ていなかった。
(いま……なんて……)
ないふくやく。
がいよう。
この世界の人は、そんな言い方はしない。
お客さんたちはみんな、「飲み薬」「塗り薬」と言う。
ハンナさんも。セレナさんも。母も。
私だって、札には「のむ くすり」「ぬる くすり」と書いている。
「内服薬」も「外用」も。
それは——
前の人生で、私が、何百回も教科書で見た言葉だった。
「わっ、大丈夫!? 割れちゃった!?」
小窓の向こうで、女の人があわてた声を出した。
「ミミちゃん!? けがしてない!?」
レインさんが、カーテンの中に飛びこんできた。
私は、床にしゃがみこんだまま、動けなかった。
「……だ、だいじょう、ぶ……です……」
声が、ふるえた。
割れた小瓶のせいじゃない。
(……いまの、ことば……)
聞きまちがい?
でも、たしかに聞こえた。
はっきりと。
「ごめんね、わたし、何か変なこと言っちゃった?」
女の人の声が、申し訳なさそうに小窓から聞こえた。
(……き、きかなきゃ……)
どこで、その言葉を知ったのか。
あなたは、誰なのか。
でも。
のどが、からからに乾いて、声が出なかった。
顔も知らない、名前も知らない人に、そんなことを聞くなんて。
今の私には、とても、できなかった。
「……い、いえ……。わ、わたしが……てを、すべらせた、だけ……です……」
「そっか。ならいいんだけど」
カウンターの上に、銅貨が置かれた。
「割れちゃった分も、払っとくね。わたしが話しかけたせいかもしれないし」
「……そ、そんな……」
「いいの、いいの」
女の人は、明るく笑った。
「あ、そうだ。お札に名前書いてくれるんだっけ? わたし、リナ。遠い東の国から、ずーっと旅してきたの」
(……りな、さん)
「じゃあね、ちっちゃな薬師さん。いい薬、ありがと」
ちりん、と鈴が鳴った。
足音が、少しこすれるような音を残して、遠ざかっていく。
私は、割れた小瓶のかけらを見つめたまま、しばらく、動けなかった。
*
その夜。
ランプの油が半分になっても、私は、ベッドの中で眠れなかった。
(内服薬。外用)
頭の中で、何度も何度も、その言葉がくり返される。
(たまたま、似た言葉が、あるだけ……?)
遠い東の国。
この国とはちがう言葉を使う国も、あるかもしれない。
(でも……)
「内服のほうが効くってこと?」
あの言い方。
札を見て、すぐに、そう分けた。
まるで、薬の札を読むのに、慣れているみたいに。
(……あのひとは、だれ……?)
答えの出ないまま、私は、いつの間にか眠っていた。
*
次の日の朝。
おやすみの日。
「ミミちゃーん! 起きてるー!?」
扉の向こうから、レインさんの声がした。
(……?)
まだ、目がしょぼしょぼする。
昨日の夜、なかなか眠れなかったせいだ。
「は、はい……」
扉を開けると、そこに、レインさんと、ハンナさんが立っていた。
二人とも、なんだか、にこにこしていた。
「ミミちゃん、今日は何の日か、知ってるかい?」
ハンナさんが言った。
(……なんの、ひ……?)
おやすみの日。
それしか、思いつかない。
ハンナさんは、私の手をそっと握った。
「今日はね、ミミちゃんの、誕生日だよ」
(…………え?)
「あんたのお母さんがね、毎年この時期になると、『もうすぐミミの誕生日なの』って、うれしそうに話してたんだよ。だから、おばあちゃん、ちゃんと覚えてたのさ」
(……おかあさん、が……)
去年の誕生日は、母と二人きりだった。
母が焼いてくれた、小さなはちみつのケーキ。
その少しあとに、母は、帰ってこなかった。
今年は、誕生日のことなんて、すっかり忘れていた。
「六歳、おめでとう! ミミちゃん!」
レインさんが、ぴょんと私に抱きついた。
それから、手を引っぱって、店の中へ連れていく。
「ほら、こっちこっち!」
*
店の中に入って、私は、立ち止まった。
カウンターも、棚も、いつもと同じ。
でも、テーブルの上に、見たことのない大きなケーキが置いてあった。
そして——
「おめでとう、ミミ!」
「おめでとー、まじょさん!」
「おめでとう、ミミちゃん」
「……おう。おめでとさん」
「ミミさん、お誕生日おめでとうございます!」
ライルさん。トマくんと、トマくんのお母さん。セレナさん。ガロンさん。エマさん。
みんなが、店の中にいた。
(ひっ……!)
思わず、カウンターの陰に隠れそうになる。
でも。
今日は。
(……お、おたんじょうび、だから)
私は、ぎゅっと手を握って、その場に踏みとどまった。
顔は、見られない。 でも、逃げなかった。
「……あ、あり、がとう……ござい、ます……」
みんなが、ぱちぱちと手をたたいた。
*
ケーキは、ハンナさんとトマくんのお母さんが焼いてくれたものだった。
ふわふわの生地に、たっぷりのはちみつ。
一口食べたとき、私は、手を止めた。
(……おかあさんの、けーきと……おなじ、あじ……)
「あんたのお母さんに、昔、作り方を教わったんだよ」
ハンナさんが、目を細めた。
ぽろり、と涙がこぼれた。
でも、今日の涙は、しょっぱいだけじゃなかった。
*
それから、みんなが、一つずつ、贈り物をくれた。
レインさんからは、小さな木の額。
中には、白い花の押し花が入っていた。
「森の奥でね、トマくんがくれたのと同じお花、探したの! 前の押し花、燃えちゃったでしょ?」
(……っ)
トマくんからは、一枚の絵。
カーテンのかかった小窓と、その向こうで小さく手を振る女の子。
「まじょさんの絵! 顔はわかんないから、かいてない!」
ライルさんからは、新しい薬箱。
木の取っ手に、小さく「ミミ」と彫ってある。
「前の薬箱、燃えちまっただろ。騎士学校の木工の先生に、教わって作ったんだ」
セレナさんからは、白い石でできた、小さなすり鉢とすりこぎ。
「わたしが見習いのころに使っていたものよ。大事にしてね」
エマさんからは、ギルドの紋章が入った、小さな木札。
「ギルドの、正式な薬品納入者のしるしです。これがあれば、ギルドの薬草倉庫も使えますよ」
ガロンさんは、そっぽを向いたまま、大きな壺をどんとテーブルに置いた。
「……森の奥の、蜂の巣から採ったはちみつだ」
(はちみつ……?)
「お前のポーション、とんでもなく不味いだろうが。これでも混ぜて、ちっとはましにしろ」
みんなが、どっと笑った。
(……あ)
はちみつ。
そうだ。
味の改良。ずっとできていなかったこと。
(はちみつなら、薬の効き目をじゃましないかもしれない……)
頭の中で、すぐに薬の分量の計算が始まりそうになって、私はあわてて首を振った。
(……きょうは、おやすみの、ひ)
*
最後に、ハンナさんが、大きな箱を差し出した。
「これは、おばあちゃんからだよ」
箱を開けて、私は、息をのんだ。
中に入っていたのは、帽子だった。
大きなつばのある、丸い帽子。
母がかぶっていたのと、そっくりの形。
でも、母の帽子よりも、ずっと小さい。
六歳の私の頭に、ちょうどいい大きさ。
「街の帽子屋さんに頼んで、作ってもらったんだよ。あんたのお母さんの帽子を、思い出しながらね」
ハンナさんが、帽子を手に取って、私の頭に、そっとかぶせてくれた。
つばが、少しだけ、目の前にかかる。
(……あ)
つばのおかげで、みんなの顔が、半分くらい隠れた。
口もとまで。
笑っている口もとだけが、見える。
レインさんの口もと。
ライルさんの口もと。
ハンナさんの口もと。
みんな、笑っていた。
「……おかあさんの、ぼうし……」
「お母さんのは、燃えちまったけどね」
ハンナさんの声が、少しだけ、ふるえた。
「あんたが、魔女さまの娘だってことは、何があったって、燃えやしないよ」
私は、帽子のつばを、両手でぎゅっとつかんだ。
それから、ほんの少しだけ、つばを上げた。
ほんの少しだけ。
ハンナさんの、目もとが見えた。
しわしわで、やさしくて、涙でうるんでいる、目。
ほんの一瞬だけ、目が合った。
「……は、はんな、さん……」
声が、ふるえた。
「……あ、ありがとう……ございます……」
ハンナさんは、何も言わずに、私を、帽子ごと抱きしめてくれた。
*
——その夜。リンデルの街の、小さな宿屋。
二階の部屋の窓辺で、一人の女の人が、小さな瓶を指でころがしていた。
毒消しのポーション。
首には、がたがたの字の札。
『どくけし。のむ くすり』
「……内服、ね」
女の人——リナは、小さくつぶやいた。
昨日、薬屋で、この言葉を口にした瞬間。
カーテンの向こうで、小瓶が割れる音がした。
あの子は、何かに、ひどく驚いていた。
「……まさかね」
リナは、窓の外の夜空を見上げた。
見慣れない星座。
二つ並んだ、大きさのちがう月。
この世界に来てから、もう何年もたつのに、いまだに、この空には慣れない。
リナは、自分の手のひらを見つめた。
日焼けして、剣だこのできた、冒険者の手。
でも、その手は、ずっと昔、別の仕事をしていた。
点滴の針を刺し、包帯を巻き、夜通しナースコールに走り回っていた、手。
最後の夜勤の、明け方。
ナースステーションの椅子に座ったまま、目を閉じて——そのまま。
「……北の山は、少し延期しようかな」
リナは、小瓶を握りしめて、ぽつりと言った。
「あの子のこと、もう少し、知りたくなっちゃった」




