第15話 カーテンの向こうの、お客さま
私が倒れてから、二か月が過ぎた。
「ミミの くすりや」は、昼から夕方まで。
七日に一度は、おやすみの日。
朝は、ハンナさんが作ってくれたご飯を、みんなで食べる。
夜は、ランプの油が半分になったら、ペンを置いて、ベッドに入る。
一度だけ、油が半分を切ってもノートを書いていたら、本当にライルさんが扉を叩きにきた。
「ミミ! 明かりがついてるぞ! 寝ろ!」
……それからは、ちゃんと守っている。
お客さんたちも、約束を守ってくれた。
朝早く店の前に並ぶ人は、もういない。
おやすみの日に扉を叩く人も、いない。
体は、すっかり元気になった。
*
でも、ベッドで寝ていた何日かの間に、私は、ずっと考えていたことがあった。
倒れたとき、みんなが来てくれた。
ハンナさん。レインさん。ライルさん。トマくん。セレナさん。エマさん。
みんな、私のために、泣いたり、怒ったり、約束を作ってくれたりした。
なのに私は、そのとき、毛布を頭までかぶっていた。
みんなの顔を、見られなかった。
(……ありがとうって、ちゃんと、言いたかった)
カーテン越しじゃなくて。
毛布ごしじゃなくて。
顔を見て。
(……少しずつで、いいから)
ずっと、このままじゃ、いけない気がした。
*
「……は、はんな、さん」
ある朝、ご飯を食べ終わったあと、私はハンナさんを呼んだ。
「なんだい、ミミちゃん」
「……れ、れんしゅう……させて、ください……」
「練習?」
「……か、かお、を……みる、れんしゅう……」
ハンナさんが、目を丸くした。
それから、くしゃっと笑って、テーブルの向かいに座り直した。
「いいよ。おばあちゃんの顔でよければ、いくらでも見ておくれ」
私は、深く息を吸った。
いつもは、ハンナさんの手のあたりを見ている。
かごを持つ、しわしわの手。
そこから、少しずつ、視線を上げていく。
腕。肩。首。
あご。
(……っ)
そこで、止まってしまった。
心臓が、どきどきして、顔が熱くなる。
これ以上、上を見たら、目が合ってしまう。
「……む、むり……あご、まで……」
「あごまで見られたなら、上出来だよ」
ハンナさんは、ちっとも残念そうじゃなかった。
「昨日は、肩までだったんだろう? ちゃんと、一歩ずつ進んでるじゃないか」
(……いっぽ、ずつ)
「急がなくていい。前に、倒れちまっただろう?」
ハンナさんが、私の頭をなでた。
「人見知りも、薬作りも、おんなじだよ。無理しすぎたら、だめさ」
*
その日は、おやすみの日だった。
私は、かごを抱えて、扉の前に立っていた。
かごの中には、毒消しと傷薬が、合わせて十本。
一本ずつ、布でくるんで、札もしっかり巻きつけてある。
冒険者ギルドへの、納品の分だ。
倒れてから、ずっとお休みにしてもらっていた、ギルドの依頼。
先週、エマさんが「無理のない範囲で、また始めましょう」と言ってくれて、再開することになった。
いつもなら、エマさんかガロンさんが、店まで取りに来てくれる。
でも、今日は。
「ほんとに、ミミちゃんが自分で持っていくの?」
隣で、レインさんが、心配そうに私の顔をのぞきこんだ。
私は、こくりとうなずいた。
「……お、おやすみの、ひ、だから……おみせは、しまってる、し……。そ、それに……」
かごの持ち手を、ぎゅっと握る。
「……ぎるどの、ひとたちに……ちゃんと、あいさつ、したい……」
毒消しがあれば安心だと言ってくれた、冒険者さんたち。
私が倒れたとき、「毒にやられないように気をつければいいだけだ」と言ってくれた、ガロンさん。
納品を待ってくれた、エマさん。
一度くらい、自分の足で、お礼を言いに行きたかった。
レインさんは、しばらく私を見つめていた。
それから、にかっと笑った。
「わかった! じゃあ、あたしは、ついていくだけね! しゃべるのは、ミミちゃん!」
(……う)
*
冒険者ギルドは、街の大通りにある、大きな石造りの建物だった。
扉の前に立っただけで、中のざわざわした声が聞こえてくる。
笑い声。怒鳴り声。食器のぶつかる音。
(……ひ、ひと……おおい……)
足が、すくんだ。
でも、引き返さなかった。
レインさんが、扉を開けてくれた。
中に入ったとたん、むわっと、お酒と汗の匂いがした。
大きな体の冒険者さんたちが、テーブルを囲んで、がやがやと騒いでいる。
そのうちの何人かが、入ってきた私たちに気づいた。
「お? レインじゃねえか」
「なんだ、そのちっこいのは……」
一人が、私の抱えているかごに気づいて、目を見開いた。
「……おい。その札」
かごの中の小瓶。
がたがたの字の、札。
「おい、みんな! 魔女の嬢ちゃんだ!」
「なに!? あのミミの店の!?」
「本物か!?」
ギルドじゅうの冒険者さんたちが、一斉にこっちを向いた。
(ひっ……!)
かごを抱えたまま、レインさんの後ろに隠れそうになる。
——でも。
(……あいさつ、するって、きめた)
私は、レインさんの後ろから、一歩だけ、前に出た。
顔は、やっぱり見られない。
視線は、冒険者さんたちの、ブーツのあたり。
それでも、かごを、ぎゅっと前に差し出した。
「……ミ、ミミの……くすりや、です……。ど、どくけしと……きずぐすり……お、おとどけ……です……」
ギルドの中が、しんと静まりかえった。
それから。
「……おう。ありがとよ」
カウンターの奥から、ガロンさんの声がした。
ガロンさんが、のしのしと歩いてきて、私の前でしゃがみこんだ。
「体は、もういいのか」
こくり。
「そうか」
ガロンさんは、大きな手で、私のかごを受け取った。
「……無理すんなよ。お前が倒れたら、ここの連中、全員しょげちまうんだからな」
まわりの冒険者さんたちが、どっと笑った。
「ガロンさんが一番しょげてたくせにー」
「うるせえ!」
カウンターから、エマさんが小走りでやってきた。
「ミミさん! わざわざ届けてくださったんですか!?」
私は、うつむいたまま、もう一度だけ、声をしぼり出した。
「……ま、まってて……くれて……あ、ありがとう……ござい、ました……」
ギルドの中に、また、ちょっとした歓声が上がった。
顔は、見られなかった。
でも、言えた。
*
「そういえばよ」
帰りぎわ、ガロンさんが、思い出したように言った。
「あのドルフって薬屋、いただろ。お前の名前をかたって、偽物売ってたやつ」
(……ドルフさん)
「店を閉めたあと、国を出ていったらしいぜ。となりの国に流れていったって、行商の連中が言ってた」
「……と、となりの、くに……?」
「ああ。しかも、そこでも懲りずに、『奇跡の薬』だとか言って、怪しい薬を高値で売りさばいてるって噂だ」
ガロンさんは、ふんと鼻を鳴らした。
「まあ、こっちの国とは関係ねえ話だ。お前が気にすることじゃねえよ」
(……となりの、くにで……あやしい、くすり……)
なんとなく、胸の奥が、ざわっとした。
ちゃんとした薬じゃないものを、薬だと言って売る。
それで、もし、誰かが具合を悪くしたら。
私は、かごの持ち手を、ぎゅっと握った。
*
次の日。
いつものように店を開けて、カーテンの内側に座る。
「次の方、どうぞー!」
レインさんの声のあと、小窓の向こうで、聞いたことのない、男の人の声がした。
「こんにちは。……ここが、『ミミの くすりや』かな」
若い男の人の声だった。
やわらかくて、落ち着いていて、どこか、ていねいな話し方。
「……い、いらっしゃい、ませ……。ど、どこが……わるい、ですか……?」
「ええと……」
男の人は、少しだけ困ったように笑った。
「実は、たいしたことじゃないんだ。最近、目がひどく疲れて。それから、肩もこるし、夜もなかなか眠れなくてね」
(目の、疲れ……肩こり……眠れない……)
小窓の下から、男の人の手が見えた。
白くて、きれいな手。
でも、右手の中指の内側に、ペンだこがあった。
インクのしみも、少しついている。
それから、上等な生地の袖。地味な色に見えるけれど、縫い目がとても細かい。
(……字を、たくさん書く人だ)
「……あ、あの……ひるま、ずっと……か、かみ……みて、ますか……? じを、かいたり……よんだり……」
小窓の向こうで、男の人が、少しだけ息をのむ気配がした。
「……どうして、わかったんだい?」
「……ゆ、ゆびに……ぺんだこ、が……」
男の人が、ふっと笑った。
「なるほど。よく見ているね」
小窓の向こうで、男の人の後ろにいる誰かが、「殿——」と言いかけて、げほげほと咳払いをした。
(……?)
「ああ、気にしないで。連れの者が、少し喉の調子が悪いらしい」
男の人の声は、ちっとも気にしていないようだった。
私は、頭の中で、いつもの順番を確かめた。
(目の疲れ。肩こり。眠れない。……たぶん、同じ姿勢で、ずっと、字を見続けてる)
「……め、めに……あたたかい、ぬのを……あてて、ください……。ひだまりそうの、はりぐすりを……かたに……」
棚から、ヒダマリ草の貼り薬を取る。
それから、眠りやすくなるお茶の葉の包みも。
「……そ、それから……」
札を書きながら、私の口は、勝手に動いていた。
「……い、いちじかんに、いっかいは……かみから、めを、はなして……とおくを、みて、ください……。
よるは……あ、あかりの、あぶらが、はんぶんに、なったら……ねて、ください……」
「ははっ」
小窓の向こうで、男の人が、声を出して笑った。
「ランプの油が半分になったら、か。いい決まりだね」
(……あ)
それは、私の「やくそく」だった。
店の扉にも貼ってある。
ライルさんに、窓の明かりを見張られている。
顔が、かあっと熱くなった。
「……そ、それは……わ、わたしも……まもって、る、ので……」
「そうか」
男の人の声が、やわらかくなった。
「じゃあ、わたしも守ってみよう。君が守っているのなら、できない理由はないね」
小窓に、薬と札を差し出す。
白い手が、それを受け取った。
——そのとき、私は、思った。
(……みて、みよう)
ハンナさんとの練習。
あごまで、見られた。
カーテンの、ほんの小さなすきま。
私は、そっと、指でカーテンの端をつまんだ。
すきまの向こうに、男の人の、胸もとが見える。
そこから、少しずつ、視線を上げる。
首。
あご。
(……っ)
そこで、止まりかけた。
でも、もう、ほんの少しだけ。
淡い、金色の髪が、見えた。
首の後ろで、一つに結んである。
それから、口もと。
男の人は、笑っていた。
ほんの一瞬だけ、目が合いそうになって——
私は、カーテンを、ぱっと離した。
(み、みた……! くちもと、まで……みた……!)
心臓が、どきどきして、止まらなかった。
小窓の向こうで、男の人が、くすっと笑う気配がした。
「ありがとう。……また来るよ」
「……お、おなまえ……ふだに、かき、ます……か……?」
薬の札には、いつも、お客さんの名前を書くようにしていた。
男の人は、少しだけ考えてから、答えた。
「アル、と書いておいてくれるかな」
「……あ、ある……さん……」
「うん。アルだ」
カウンターの上に、銅貨が置かれた。
足音が、ゆっくりと、店の外へ遠ざかっていく。
*
——店の外。
通りの角を曲がったところで、茶色の外套の男が、ため息をついた。
「殿下……。お名前は、伏せておかれるのですか」
側近のクラウスだった。
前を歩く青年——この国の第二王子は、手の中の小さな包みを見つめながら、楽しそうに笑った。
「王子が来たなんて知ったら、あの子は、二度とカーテンから出てこないだろう?」
「それは……そうでしょうが」
「それに」
王子は、包みに巻かれた札を、指でなぞった。
『アル さん
めに あたたかい ぬのを あてる。
かたに はりぐすり。ねるまえに おちゃ。
一じかんに 一ど、とおくを みる。
あかりの あぶらが はんぶんに なったら ねる』
がたがたの、五歳の子どもの字。
「ペンだこを見て、わたしが一日中書類と向き合っていることを、言い当てた。……王城の侍医たちは、誰一人、そんなことは聞いてこなかったよ」
王子は、包みを、大事そうに懐にしまった。
「魔法を使わずに、人を救う薬師、か」
夕暮れの通りを歩きながら、王子は、小さくつぶやいた。
「……噂以上だったな」
*
その夜。
ランプの油が、半分になる少し前。
私は、新しいノートに、今日のことを書いた。
『アルさん。めの つかれ、かたこり、ねむれない。
ゆびに ペンだこ。じを たくさん かく ひと。
ひだまりそうの はりぐすりと、ねむりの おちゃ。
——くちもとまで、みられた。わらってた』
ペンを置いて、私は、ランプを消した。
暗い部屋の中で、ほっぺたが、まだ少しだけ熱かった。




