第11話 みんなの家
ハンナさんの家は、街のはずれの、小さな石造りの家だった。
台所と、寝室と、小さな居間。
窓辺には、ハンナさんが育てているハーブの鉢が、ずらりと並んでいる。
「ほら、ミミちゃん。あったかいうちにお食べ」
テーブルの上に、湯気の立つ野菜のスープと、焼きたてのパン。
あの夜から、私はずっと、ハンナさんの家でお世話になっていた。
「……い、いただき、ます……」
スープを、一口すする。
あたたかい。
お腹の奥まで、じんわりと広がっていく。
(……おいしい)
でも、二口目が、なかなか進まなかった。
*
夜。
ハンナさんが寝静まったあと、私は、居間の小さなランプの下で、紙に向かっていた。
ハンナさんがくれた、少し黄ばんだ紙の束。
そこに、ペンで、一行ずつ書いていく。
『アオツユ草。根を使う。毒消し。ニガヨモギと一緒に煎じる。ミドリキバトカゲの毒に。子どもは半分』
『ヒダマリ草。葉をすりつぶし、小麦粉と練って布にのばす。腰の痛みに。じんわり温まる。——ハンナさんに、よく効く』
母のノートに書いてあったこと。
何度も、何度も読み返したページ。
覚えているかぎり、書き直していく。
(熱を下げる草。傷によく効く草。お腹の薬……)
ペンが、すらすらと進む夜もあった。
でも。
(……この草、なんて名前だったっけ)
絵は、覚えている。
ぎざぎざの葉っぱ。小さな青い実。
でも、名前が出てこない。煎じ方も。何に効くのかも。
(……思い出せない)
ペンが、止まった。
(あのページ……お母さん、なんて書いてたっけ……)
どれだけ考えても、そこだけ、真っ白なままだった。
ぽた、と。
紙の上に、しずくが落ちた。
(……覚えてるって、思ってたのに)
全部じゃない。
燃えてしまったのは、母の字だけじゃなかった。
私は、ランプを消して、毛布にくるまった。
*
あの夜から、五日後。
「ミミちゃん。ちょっと、一緒に来てくれるかい」
朝ごはんのあと、ハンナさんが言った。
「……ど、どこに……?」
「あんたの家だよ」
胸の奥が、ぎゅっとなった。
あの日から、一度も、焼け跡には行っていなかった。
行くのが、怖かった。
でも、ハンナさんは、私の手をそっと握って、言った。
「大丈夫。みんな、待ってるからね」
(……みんな?)
*
郊外への道を歩いて、森の入り口が見えてきたとき。
私は、足を止めた。
焼け跡の前に、人が、たくさんいた。
十人。二十人。……もっと。
(ひっ……!)
とっさに、ハンナさんの後ろに隠れた。
「ミミちゃーん!」
真っ先に手を振ったのは、レインさんだった。
その隣に、ライルさん。
両手には、まだ包帯が巻かれている。
ライルさんの後ろには、騎士学校の生徒さんたち。
前に一緒に来た二人。それから、知らない顔も、何人か。
森の方から、大きな丸太をかついで出てきたのは、顔に傷のある大きな男の人と、その仲間の冒険者さんたち。
「おう、チビ魔女。……いや、ミミ、だったか」
(が、がろん、さん……?)
レインさんが話していた、あの人だ。
「ま、まじょさーん!」
トマくんが、ぴょんぴょん跳ねながら手を振っている。
その後ろで、トマくんのお母さんが、にっこりと頭を下げた。
それから、男の子の手を引いた、若い女の人。
顔は知らない。でも、その人は私を見て、手に持っていた小瓶を、そっと持ち上げてみせた。
小瓶の首に、がたがたの字の札が結ばれていた。
(……あ)
ドルフさんの店で、一本だけ札が残っていた瓶。
その札のとおりに薬を飲ませてくれた、という人の話を、あとからハンナさんに聞いていた。
近所の人たちも、いた。
水がめに水を足してくれていたおじさん。
薪を置いていってくれていたおばさん。
あの夜、火を消してくれた人たち。
そして——
「遅い」
いちばん後ろで、腕を組んでいる人がいた。
金色の髪を、きれいになでつけた人。
(……ぎ、ぎるべると、さん……?)
「ふん。別に、お前のために来たわけじゃない。ライルがうるさいからだ」
ギルベルトさんの後ろには、大工道具をかついだ、職人さんたちが五人も控えていた。
「伯爵家お抱えの大工だ。……こいつらの腕は、王都でも一番だぞ」
ギルベルトさんは、ぷいっと顔をそむけた。
耳まで、真っ赤だった。
*
「ミミ」
ライルさんが、私の前にしゃがみこんだ。
「みんなで、話し合ったんだ。お前の家を、建て直そうって」
(……たて、なおす……?)
「でも、ここじゃない」
ライルさんは、焼け跡を振り返った。
「ここは、街から遠すぎる。あの夜、もし誰も空に気づかなかったら……もし、お前が小川に行ってなかったら……」
ライルさんの声が、少しだけかすれた。
「だから、街の中に建てようと思うんだ」
「ハンナさんちのすぐ近くに、空いてる土地があってね」
ハンナさんが、私の頭をなでた。
「いつでも、見守れるように」
「何かあったら、すぐに守れるように」
ガロンさんが、丸太を地面にどすんと下ろして、言った。
「街の中なら、俺らもすぐ駆けつけられる。……毒消しも、すぐ買いに行けるしな」
冒険者さんたちが、どっと笑った。
*
私は、焼け跡を見た。
黒い柱。崩れた壁。灰。
この場所で、私は生まれた。母と暮らした。
母を、待った。
ここを、離れる。
(……いや、だ)
胸の奥で、小さな声がした。
お母さんの家。
お母さんと、最後まで一緒にいた場所。
ここを離れたら、お母さんが、もっと遠くへ行ってしまう気がした。
私は、ハンナさんの服のすそを、ぎゅっと握った。
——でも。
焼け跡を、もう一度見る。
ここには、もう、母のものは、何も残っていない。
帽子も。ノートも。鍋も。すり鉢も。
何もない。
でも。
あの夜、ライルさんの手を小川で冷やしたとき、私は、ちゃんと覚えていた。
毎晩、ハンナさんの家で書いている紙の束。
思い出せないページもある。でも、思い出せたページの方が、ずっと多い。
(お母さんに教わったことは……ここに、置いていくんじゃない)
私は、自分の胸に、そっと手を当てた。
(ここに、ある)
(どこへでも、持っていける)
私は、顔を上げた。
みんなの顔は、やっぱり見られない。
視線は、みんなの足もとあたり。
ブーツ。革靴。わらじ。小さな子どもの靴。
こんなにたくさんの足が、私のために、ここに来てくれた。
「……お、おねがい……します……」
声は、小さかった。
でも、ちゃんと、届いたみたいだった。
「よっしゃあ!」
「やるぞー!」
大きな歓声が、森の入り口に響いた。
*
それからの日々は、毎日がお祭りみたいだった。
ガロンさんたち冒険者が、森から木を切り出して運んでくる。
ギルベルトさんの大工さんたちが、手際よく柱を立て、壁を組んでいく。
ライルさんと騎士学校の生徒さんたちは、重い荷物運び。
レインさんは、身軽さを活かして、屋根の上をぴょんぴょん跳ね回っている。
近所の人たちは、炊き出しをしてくれた。
トマくんは、トマくんのお母さんと一緒に、くぎや道具を運ぶお手伝い。
ギルベルトさんは、毎日来ては、腕を組んで文句ばかり言っていた。
「おい、その柱、少し傾いてないか」
「窓が小さい。薬を作るなら、もっと光を入れろ」
「庭はもっと広く取れ。薬草を育てるんだろうが」
……文句というより、ほとんど注文だった。
*
そして、私にも、仕事があった。
「いってぇ! 指、打った!」
「木のとげが、ささっちまった……」
「腰が……腰がぁ……」
大勢で家を建てていると、けが人が、毎日のように出る。
(……!)
私は、ハンナさんの家から持ってきた、きれいな布と、水の入った桶を抱えて走った。
薬は、まだ少ししかない。
ハンナさんの窓辺のハーブと、レインさんが森から採ってきてくれた薬草で、少しずつ作り直している。
でも、手当てなら、できる。
「……み、みせて、ください」
「お、おう……」
「とげ、ぬきます。……うごかないで」
知らない人の手を、そっと取る。
顔は、見られない。
声も、小さい。
でも、手当てのときだけは、頭の中のざわざわが、すっと静かになる。
「洗って、ぬいて、きれいなぬので、おさえます。……はい。おわり、です」
「……おお。もう痛くねえ」
冒険者さんが、目を丸くして、自分の指を見た。
「ありがとよ、魔女のお嬢ちゃん」
私は、うつむいたまま、小さくうなずいた。
*
家が、半分くらいできあがった頃。
侯爵家の紋章をつけた馬車が、一台、やってきた。
降りてきたのは、侯爵さまではなく、侯爵家の執事さんだった。
「ヴァルデマー侯爵閣下より、お届けものです」
執事さんは、ずしりと重い革袋と、一通の書状を差し出した。
革袋の中身は、家を建てるための費用だった。
書状には、燃えてしまったものと同じ、侯爵家の後ろ盾のしるし。
そして、もう一枚。
小さな紙が、はさまっていた。
ライルさんが、読み上げてくれた。
『——このたびの件、まことに遺憾である。 娘の新しい家にも、この書状を飾っておけ。
追伸。 酒は、ちゃんと減らしておる』
まわりで聞いていたみんなが、どっと笑った。
私も、ほんの少しだけ、笑ってしまった。
*
あの夜から、一か月。
新しい家が、できあがった。
ハンナさんの家から、歩いてすぐのところ。
街の通りに面した、木の家。
前の家より、少しだけ大きい。
ギルベルトさんの注文どおり、大きな窓がいくつもあって、部屋の中はとても明るい。
壁には、薬草を吊るすための横木。
棚は、私の背でも届く高さに、ちゃんと作ってある。
そして、家の裏には、薬草を育てるための小さな庭。
壁のいちばん目立つところに、侯爵さまの書状を飾った。
*
「ミミ。最後に、これを」
ライルさんが、布に包んだ大きな板を持ってきた。
布をはずすと——
木の板に、文字が彫ってあった。
『ミミの くすりや』
(……っ)
「騎士学校の連中と、冒険者のおっさんたちと、みんなで彫ったんだ」
ライルさんが、照れくさそうに頭をかいた。
「字は、レインが考えた。ひらがななのは、ミミの札に合わせたんだってさ」
「だって、ミミちゃんの札、ぜんぶひらがなでしょ!」
レインさんが、胸を張った。
ガロンさんが看板をかついで、扉の上に、しっかりと打ちつけてくれた。
通りを歩く人たちが、足を止めて、看板を見上げていく。
「ミミの、くすりや……」
私は、小さく、声に出して読んだ。
郊外の、森の入り口の、小さな家。
そこで、私は、隠れるように暮らしていた。
でも、ここは、街の真ん中。
人がたくさん通る、通りに面した家。
私の名前の、看板がかかった家。
(……ここで、薬屋を、始めるんだ)
胸が、どきどきした。
怖い。
すごく、怖い。
でも、それだけじゃなかった。
*
その夜。
新しい家の、新しいテーブルで、私は、新しいノートを開いた。
ハンナさんが、街の文具屋さんで買ってくれた、まっさらなノート。
この一か月、ハンナさんの家で書きためてきた紙の束を、一枚ずつ、ていねいに書き写していく。
思い出せたこと。
母に教わったこと。
それから——
この一か月で、自分で見つけたこと。
『とげは、きれいに洗ってからぬく。ぬいたあとも、洗う』
『やけどは、すぐに、ながく、冷たい水で冷やす。水ぶくれはつぶさない』
思い出せないページは、まだ、空白のまま。
でも、いつか、自分で見つけて、埋めていけばいい。
私は、ノートの一ページ目に戻って、ペンを取った。
母のノートの、最後のページ。
『ミミが五歳になったら、教えてあげること』
あの一行は、もう、どこにもない。
でも、私は、覚えている。
だから。
私は、新しいノートの一ページ目に、がたがたの字で、こう書いた。
『ミミの ノート ——いつか、だれかに おしえて あげること』
窓の外では、街の灯りが、星みたいにちらちらと揺れていた。
前の家の窓から見えた、近所の子どもたちの魔法の光によく似ていた。
でも、今夜の光は、少しも、さびしくなかった。




