第10話 燃える夜
侯爵さまからいただいた書状を、壁のいちばん目立つところに飾ってから、五日が過ぎた。
その夜、私はテーブルで母のノートを開いていた。
レインさんが森の奥から薬草を届けてくれたおかげで、作れる薬はぐんと増えた。
でも、まだ一つだけ、どうしても手に入らない材料がある。
『夜鈴花
月の明るい夜、小川のほとりに咲く小さな白い花。真夜中を過ぎた頃に開き、朝になると、野に咲く花はしぼんで姿を消す。
花びらを煎じると、ひどい痛みをやわらげ、深い眠りをもたらす。
――家の近くの小川にも、少しだけ咲く』
(家の近くの、小川……)
森の奥じゃない。
家から歩いて、ほんの少しの場所。昼間なら、何度も水をくみに行ったことがある小川だ。
窓の外を見ると、まん丸の月が夜空に浮かんでいた。
(……今夜なら、咲いてるかも……)
ひどい痛みをやわらげる薬。
ギルベルトさんの足にも、侯爵さまの親指の痛みにも、きっと役に立つ。
私はノートのページを何度も読み返した。
花の形。咲く場所。摘み方。
忘れないように、頭の中で繰り返す。
(ノートは……置いていこう)
夜の小川は足元が見えにくい。転んで水に落としたら、母の文字がにじんでしまう。
それだけは、嫌だった。
私はノートをそっと閉じ、テーブルの真ん中に置いた。
壁には、母の大きな帽子とローブ。
棚には、母が使っていた鍋とすり鉢と、小さな薬箱。
「……い、行って……きます……」
誰もいない部屋に小さく告げる。
かごとランタンを手に、私は家を出た。
*
小川のほとりは、昼間とはまるで別の場所みたいだった。
月の光が水面にきらきらと映り、せせらぎだけが静かに響いている。
私はランタンをかかげ、小川に沿って少し上流へ歩いた。
川が曲がって、家の方角が木立に隠れるあたり。草むらを一つずつのぞいていく。
(……ない。ここにも……ない……)
まだ、咲く時間じゃないのかな。
私は川べりの平たい石に腰を下ろし、膝を抱えて待った。
夜風が頬をなでる。
(……ちょっと、寒い……)
どれくらい、そうしていただろう。
ちりん。
足元で、小さな鈴が鳴ったような気がした。
(……え?)
目を落とすと、草の間に白いものが見える。
一輪の、小さな花。
月明かりを浴びて、ゆっくりと花びらを開いていくところだった。
(……咲いた……!)
ちりん、ちりん。
一輪、また一輪。
草むらのあちこちで、白い花が次々と開いていく。
まるで、目に見えない小さな鈴が、一斉に鳴りだしたみたいだった。
(……きれい……)
私は、しばらく見とれていた。
それから、母のノートに書いてあったとおりに、根元から優しく摘み取り、かごへ入れていく。
一輪。二輪。十輪。
白い花が、少しずつかごを埋めていった。
(お母さん……見つけたよ)
夢中で花を摘んだ。
せせらぎの音に耳を澄まし、足元だけを見つめて。
川下で人々が行き交っていることも、木立の向こうの騒ぎも、ここまでは届かなかった。
森の木々の向こう、家のある方角の夜空が赤く染まり始めたことにも、気づかないまま。
*
――同じ頃。ミミの家の裏手。
月明かりの下で、黒い影が動いていた。
黒い服を着た、無口な男。
かつて、バルトロ子爵に仕えていた従者だった。
男は家の裏手に回り込み、周囲を見渡した。
窓の中は暗く、物音もしない。
(……眠っているか)
男が持ち込んだ油の壺を傾けると、木の壁の下に黒い染みが広がった。
やがて、小さな火がともる。
ぼっ。
炎は壁をなめるように広がり、みるみる大きくなっていった。
乾いた木の壁。天井から吊るされた薬草の束。
燃え移った火は、あっという間に屋根まで届いた。
ぱち、ぱちっ。
炎のはぜる音が、静かな夜に響く。
男は燃え上がる家をしばらく見つめ、それから背を向けた。
黒い姿が、森の闇へ溶け込んでいった。
*
――リンデルの街。
真夜中を少し過ぎた頃。
明日のパンを焼くため、パン屋の主人が誰よりも早く起き出していた。
窯に火を入れる前に外へ出て、ふと空を見上げる。
「……なんだ、ありゃあ……?」
郊外の森の方角。
夜空の一角が、真っ赤に染まっている。
「か、火事だ……! 郊外で、火事だぁーーっ!」
主人の叫び声が、眠っていた街を揺り起こした。
あちこちの窓に明かりがともり、見張り台の鐘が鳴り始める。
カン、カン、カン!
*
「郊外の方だって!?」
「あっちには、魔女さまの娘さんの家が……!」
人々が桶を抱え、郊外へ向かって走りだした。
その中に、寝間着の上からショールを羽織っただけのハンナさんがいた。
「ミミちゃん……! ミミちゃん……!」
腰の痛みも忘れたように、必死に走っている。
騎士学校の寮から駆けつけたライルが、すぐに追いついた。
「ハンナさん! 俺の背中に!」
「で、でも……!」
「早く!」
ライルはハンナさんを背負うと、全力で駆けだした。
その横を、小さな影が風のように追い抜いていく。
「レイン!?」
「宿の窓から見えたの! ねえ、あっち……ミミちゃんのおうちだよね!?」
返事を待たずに、レインは木の枝から枝へ跳ぶように走り去った。
*
みんながたどり着いたとき、ミミの家は炎に包まれていた。
屋根がばちばちと音を立て、窓から赤い火が噴き出している。
「水だ! 水を持ってこい!」
「小川がある! そこからくむんだ!」
人々は小川から家まで一列になり、水の入った桶を手渡していった。
一つ、また一つ。
炎に水が浴びせられるたび、白い蒸気が立ちのぼる。
ライルもレインも、必死に桶を運んだ。
「ミミーーっ!! いるなら返事しろーーっ!!」
ライルの声は、炎の音にかき消される。
返事は、なかった。
*
空が白み始める頃、ようやく最後の火が消えた。
ミミの家には、黒く焼け焦げた柱が何本か残るばかりだった。
屋根は落ち、壁は崩れ、焦げた木と薬草の匂いが重く漂っている。
誰も口を開かなかった。
「……ミミちゃんは……?」
ハンナさんが震える声で尋ねた。
「ミミちゃんは……どこだい……?」
答えられる人はいなかった。
外へ逃げてくる姿を見た者もいない。
辺りを探しても、見つからない。
「……まさか」
誰かが、かすれた声でつぶやいた。
「まだ、中に……」
「やめろ!!」
ライルが叫んだ。
そして、まだ熱の残る焼け跡へ踏み込んだ。
「ライル! 危ない、まだ熱いぞ!」
「かまうか! あいつが……ミミが、いるかもしれないんだ!」
焼けた板を、一枚ずつどかしていく。
熱い木片に触れ、手のひらに鋭い痛みが走った。
それでも、ライルは手を止めなかった。
近所の男たちも、道具を手に焼け跡へ入っていく。
レインはがれきの前に、ぺたりと座り込んでいた。
「ミミちゃん……うそ、だよね……? また来るねって……言ったのに……」
ハンナさんは両手で顔を覆い、声を殺して泣いていた。
*
――そのとき。
「……ふん、ふふん……♪」
森の方から、小さな鼻歌が聞こえてきた。
朝もやの向こう。
小川へ続く細い道を、小さな影がゆっくり歩いてくる。
両手には、大きなかご。
中には、真っ白な花がこんもりと積まれている。
そのかごを満足そうに見下ろしているのは――。
ミミだった。
*
(いっぱい、採れた……!)
私はかごの夜鈴花を見下ろしながら、思わず鼻歌を歌っていた。
気づけば、もう朝。
摘んだ花も、端の方から少しずつしぼみ始めている。
(は、早く帰って……薬にしないと……!)
顔を上げた、そのときだった。
道の先に、たくさんの人がいる。
(……え?)
知らない人が、いっぱい。
いつもなら、すぐに隠れたくなる。
でも、その中に――。
ライルさん。レインさん。ハンナさん。
「……ミミ……?」
ライルさんが、黒いがれきの中から私を見た。
顔も手も、真っ黒だった。
「ミミちゃんっ!!」
レインさんが飛び跳ねるように立ち上がる。
そして、ハンナさんが。
腰が痛いはずのハンナさんが、まっすぐこちらへ走ってきた。
次の瞬間、私はその腕に抱きしめられていた。
「ミミちゃん……っ! ミミちゃん、ミミちゃん……っ!」
ぎゅうっと、苦しいくらいに。
ハンナさんの体が震えている。
「よかった……よかった……っ! 生きてた……生きてたよぉ……っ!」
(……え? え……?)
何が起きているのか、わからない。
ハンナさんの肩越しに、レインさんが泣きながら駆け寄るのが見えた。
ライルさんはがれきの上に座り込み、力が抜けたように顔を伏せた。
その向こうに――。
*
黒い柱。
崩れた壁。
うっすらと煙を上げる、黒いかたまり。
焦げた匂い。
(……あれ……?)
ここは、家のあった場所のはずだ。
私の家。
お母さんと暮らした家。
薬草を吊るしていた天井も。
小瓶を並べた棚も。
母と二人で座った椅子も。
どこにも、なかった。
(…………)
頭の中が、真っ白になる。
私はハンナさんの腕をすり抜けていた。
「ミミちゃん!?」
かごが地面に落ちる。
白い花が、ばらばらと散らばった。
私は走っていた。
焼け跡へ。
「ミミ! だめだ! まだ熱い!」
ライルさんの声が聞こえた。
でも、足は止まらなかった。
(ノート……! お母さんの、ノート……!)
テーブルがあったはずの場所。
真ん中に、ちゃんと置いてきた。
ここに、あったはずなのに。
黒くなった板を、手でどける。
……ない。
灰しか、ない。
(帽子……! お母さんの、帽子……!)
壁に掛けてあった、大きなつばの帽子。
あの日、街の人たちが持ち帰ってきてくれた、母の帽子。
ようやく、家に帰ってきたのに。
壁は、もうなかった。
ローブも。
鍋も。
すり鉢も。
小さな薬箱も。
侯爵さまの書状も。
トマくんにもらった花の押し花も。
何も、なかった。
全部、灰になっていた。
(……うそ……)
両手が、真っ黒になっている。
(うそ……うそ、だよね……?)
私は灰の中に膝をついた。
「……おかあ、さん……」
声が、こぼれた。
「……おかあさんの……ノート……」
もう、あの字を見ることはできない。
『ミミが五歳になったら、教えてあげること』
そう書かれていた、あの一行も。
「……ぼうし……かえって、きたのに……やっと……かえって、きたのに……っ」
喉の奥から、何かがせり上がってきた。
「う……あ……っ」
止まらなかった。
「うわあああああああん……っ!!」
私は、灰の中で声を上げて泣いた。
母がいなくなったときより。
母のノートを見つけたときより。
もっと、もっと、大きな声で。
まるで、五歳の子どもみたいに。
*
どれくらい泣いたのだろう。
気づくと、誰かがずっと背中をさすってくれていた。
ハンナさんだった。
隣では、レインさんがぐしゃぐしゃの顔で私の手を握ってくれている。
「……ごめんね、ミミちゃん……。間に合わなくて、ごめんね……」
ハンナさんが絞り出すように言った。
私はぶんぶんと首を横に振る。
ハンナさんのせいじゃない。
誰のせいでも、ない。
――ううん。
違う。
誰かが、この家に火をつけたんだ。
*
顔を上げると、ライルさんが焼け跡のそばに立っていた。
その両手が、真っ赤になっている。
手のひらには、水ぶくれまでできていた。
(……やけど……!)
周りを見る。
ライルさんだけじゃなかった。
水を運んでいたおじさんの腕。
がれきをどけていた人たちの手。
みんな、私を探してくれた人たちだった。
(……私の……ために……)
涙がまたこみ上げてくる。
でも。
私は、袖で目元をぬぐった。
(……今は、手当て……!)
立ち上がって、ライルさんに近づいた。
「……ラ、ライルさん……て、手を……見せて……ください……」
「え? ああ、これくらいなら――」
「……み、見せて……ください……っ」
自分でも驚くくらい、はっきり声が出た。
ライルさんは目を丸くしたあと、そっと手を差し出してくれた。
手のひらが赤く腫れ、水ぶくれができている。
(……範囲が広い。すぐ冷やして、治癒師さんにも診てもらわないと)
薬はない。
ノートも、薬箱も、包帯も。
何も、ない。
でも――。
(冷やすのに、薬はいらない……!)
「……お、小川の水を……くんで、冷やしてください……! つ、冷たい水を……しばらく、かけ続けて……!」
私は周りを見回した。
「や、やけどした人……み、みんな……! 水で、冷やして……ください……!」
知らない人が、たくさんいる。
声が震える。
それでも、言った。
「み、水ぶくれは、つぶさないで……! あ、油も、塗らないで……! 冷やしたら、きれいな布で……そっと覆って……。そ、それから、治癒師さんに……!」
人々は一瞬きょとんとした。
けれど、ライルさんがうなずくと、一人、また一人と水をくみに向かった。
私はライルさんを小川のそばまで連れていく。
桶にくんだ水を、赤くなった手へゆっくりとかけてもらった。
「……冷たいな。でも、少し楽になってきた」
ライルさんが、ほっと息をついた。
それから、自分の手を見つめたまま、ぽつりと言った。
「……ノートがなくても、ちゃんとわかるんだな、お前」
私は、うつむいた。
母のノートは、燃えてしまった。
でも。
何度も何度も読み返したページ。
母が教えてくれた薬草の名前。
手当ての順番。
それは、まだここにある。
私の、頭の中に。
(……全部じゃ、ない。でも……)
(お母さんが教えてくれたことまで……全部、燃えたわけじゃ、ない……)
*
「みんなー! 捕まえたよーっ!」
森の方から、レインさんの声が響いた。
振り返ると、レインさんと何人かの街の男の人たちが戻ってきたところだった。
男の人たちに両腕をつかまれ、黒い服の男が引きずられてくる。
見覚えのある、黒い服。
あの日、バルトロ子爵と一緒に来た、無口な従者だ。
「家の裏を見たら、新しい足跡が森の方まで続いてたの! それに、油の匂いが残ってて……!」
レインさんは、涙でぐしゃぐしゃになった顔のまま、胸を張った。
「森の奥で隠れてるのを見つけたから、矢でマントを木に縫いつけてやったんだ!」
従者は、何も言わなかった。
ただ、私を一度だけ見て――。
生きている私を見て、ほんの少し目を見開いた。
*
――のちにわかったことだけれど。
従者は、その日のうちに騎士団へ引き渡された。
はじめは口を閉ざしていたが、取り調べの末、やがてすべてを白状した。
地下牢にいるバルトロが、ミミの家へ火をつけるよう命じたこと。
報酬として、没収を免れた隠し財産を渡す約束だったこと。
騎士団がバルトロの元屋敷を調べると、床下から隠された金が見つかった。
侯爵暗殺未遂に続く、新たな罪。
しかも、狙われたのは侯爵家が後ろ盾となった五歳の娘だった。
バルトロは、二度と自由の身には戻れなくなったという。
知らせを受けたヴァルデマー侯爵は、怒りのあまり手にしていたグラスを握りつぶしたらしい。
――もっとも、中に入っていたのは酒ではなく、水だったそうだけれど。
*
――火事のあった日の夕方。
焼け跡の前に、私は立っていた。
やけどをした人たちの手当ては、ライルさんたちが治癒師に引き継いでくれた。
街の人たちも、一人、また一人と帰っていった。
足元には、ハンナさんが拾い集めてくれた夜鈴花のかご。
白い花は、もうすっかりしぼんでいる。
(……この家で、生まれた)
(この家で、お母さんと暮らした)
(この家で……お母さんを、待った)
黒い柱を、じっと見つめる。
帽子も。ノートも。
母のものは、もう何も残っていない。
「ミミちゃん」
後ろから、優しい声がした。
ハンナさんだった。
「……今夜は、うちにおいで」
しわだらけの手が、私の手をそっと包む。
「狭い家だけどね。あったかいスープと、ふかふかのパンくらいはあるからさ」
私は焼け跡を見つめたまま、しばらく動けなかった。
それから。
小さく、こくりとうなずいた。
ハンナさんの手は、しわしわで、温かかった。
お母さんの手と、同じくらい。




