第9話 偉そうな侯爵さま
侯爵さまがやって来たのは、晩餐会の夜から、ちょうど七日後のことだった。
その朝、ライルさんが先に来て、扉の外から教えてくれた。
「ミミ。今日の昼過ぎに、侯爵様がいらっしゃる。俺も付き添うからな」
(き、今日……っ!?)
「大丈夫だ。偉そうな人だけど、怒りに来るわけじゃない。礼を言いに来るんだ」
(え、偉そうな……人……?)
……大丈夫な要素が、一つも見つからなかった。
*
昼過ぎ。
ガラガラガラ……。
家の外から車輪の音がして、馬のいななきが聞こえた。
私は窓の隙間から、そっと外をのぞいた。
黒くて大きな、ぴかぴかの馬車。
その後ろには、荷物を山ほど積んだ荷車が一台。
さらに、馬に乗った騎士さんが四人。
(む、無理……! ひ、人が、多すぎる……っ!)
私は窓から飛びのき、迷うことなくベッドの下にもぐり込んだ。
コン、コン、コン。
「ミミ、開けるぞ」
ライルさんの声だ。
扉が開き、何人もの足音が入ってくる。
ベッドの下から見えるのは、足元だけ。
ライルさんの、使い込んだ革のブーツ。
騎士さんたちの、重たそうな鉄のブーツ。
そして、その真ん中に――。
黒く光る、上等な革靴が一足。
「……ここか」
低く、よく響く声がした。
「狭い。暗い。それに、なんだ、この草くさい匂いは」
(ご、ごめんなさい……っ!)
「侯爵様、ここは薬師の家ですので……」
「わかっておる。言ってみただけだ」
ふん、と鼻を鳴らす音。
「それで、その小娘はどこだ?」
「……その、ベッドの下に」
ライルさんの、なんとも申し訳なさそうな声。
少しの沈黙。
「……ベッドの、下?」
「ひどい人見知りでして……」
「ふん。わしの命を救った娘が、ベッドの下か」
黒い革靴が、こつ、こつと近づいてくる。
(こ、来ないで……っ!)
私はベッドの下で、ぎゅうっと体を小さくした。
革靴が、目の前でぴたりと止まる。
「わしはヴァルデマー。侯爵だ」
*
「娘。礼を言いに来た」
侯爵さまの声は、ちっともお礼を言う人の声には聞こえなかった。
「わしの皿に毒を入れようとした愚か者がいた。それを、お前が小麦粉にすり替えた。……おかげで、わしはこうして生きておる」
少し、間が空いた。
「……礼を言う」
ぼそっ、と。
さっきまでより、ずっと小さな声だった。
(……い、今……お礼、言われた……?)
「表に礼の品を持ってきた。好きに使え」
ライルさんが、くすっと笑う気配がした。
「ミミ、すごいぞ。上等な布に、干し肉、塩、砂糖……それから」
「小麦粉だ」
侯爵さまが、ぶっきらぼうに言った。
「王都でいちばん上等な小麦粉を、ひと袋。……お前の『毒』の礼だ」
(こ、こむぎこ……)
……まさか、お礼に小麦粉をもらうなんて。
ベッドの下で、思わずちょっとだけ笑ってしまった。
*
「それから、もう一つ、伝えておくことがある」
侯爵さまの声が、低くなった。
「バルトロのことだ」
どきん、と胸が鳴る。
「王家から沙汰が下りてな。あやつは爵位を剥奪された。家は取り潰し、財産も没収だ」
(……えっ)
「派閥の長であるわしを、毒で殺そうとしたのだ。当然の報いだな」
侯爵さまは、ふんと鼻を鳴らした。
「あやつは牢の中でも、『わしは悪くない、あの小娘が悪い』とわめいておるそうだ。……だが、誰も耳を貸さん」
ライルさんが、ベッドのそばにしゃがみ込む気配がした。
「ミミ。お前が取っておいた銀貨の袋、覚えてるか? あれも役に立ったんだ」
(……あ)
バルトロ子爵が「前金だ」と言って置いていった、重たい革袋。
使う気になんて、とてもなれなくて、棚の奥に押し込んでいたものだ。
ライルさんたちに相談したとき、セレナさんに預けていた。
「袋に、バルトロの家の紋章が縫い込んであったんだ。手紙に書かれていた前金の話を裏付ける証拠になった」
侯爵さまが、くっくっと喉の奥で笑った。
「銀貨には手もつけず、証拠として差し出すとはな。五歳の小娘のくせに、なかなか抜け目がない」
(ぬ、抜け目……? つ、使うのが怖かった、だけ……)
でも、どうやら褒められているらしい。
……黙っておこう。
*
侯爵さまは帰る前に、もう一度だけベッドの前に立った。
黒い革靴が、すぐ目の前にある。
――そのとき。
私は、気づいてしまった。
侯爵さまの右足。
左足とは、立ち方が少し違う。
右足に体重をかけないようにしている。
特に、親指の付け根をかばうように。
さっき近づいてきたときも、こつ、こつ、という足音の、右だけがほんの少し軽かった。
ずっと足元ばかり見ていたから、気づけたのかもしれない。
(……あの立ち方。それに、右の靴。親指のところだけ、革が少し伸びてる……?)
頭の中のざわざわが、すっと静かになった。
(も、もしかして……)
「……み、右の……足……」
気づくと、ベッドの下から声が出ていた。
「……ん?」
「お、親指の……付け根……い、痛く……ない、ですか……?」
沈黙。
騎士さんたちが、顔を見合わせる気配がした。
「……なぜ、それを知っておる?」
侯爵さまの声が、初めて少しだけ揺れた。
(や、やっぱり……でも、決めつけちゃだめ……)
「そ、その……赤く、腫れたり……熱を持ったり……夜に、急に痛くなったり……しますか……?」
「…………する」
「ご、ごちそうを……たくさん食べたり……お、お酒を飲んだ……次の日、とか……」
「……なぜ、そこまでわかる」
やっぱり。
でも、ちゃんと診ていないから、断定はできない。
「……あ、あの……お酒を、少し控えて……お肉も、と、特に内臓のお料理は……控えめに……。お、お水も飲んで……痛いときは冷やして、無理に歩かないで……」
薬のことになると、言いたいことが次々に浮かんでくる。
「そ、それから……治癒師さんに、ちゃんと診てもらって――」
「わしに、酒をやめろと言うのか!?」
どん、と床を鳴らすような大声。
「ひっ……!」
私はベッドの下で頭を抱え、ぎゅっと丸くなった。
(い、言っちゃった……! え、偉い人に……! で、でも、やめろとまでは……!)
しん、と部屋が静まり返る。
ライルさんも騎士さんたちも、息をひそめていた。
やがて。
「……くっ」
侯爵さまが、喉の奥で笑った。
「くくく……! わしの侍医ですら、なかなか言い出せんことを……ベッドの下の小娘に言われるとはな!」
黒い革靴が、ほんの少し右足をかばいながら向きを変えた。
「……酒は、少しだけ減らしてやる」
ぶつぶつと、不機嫌そうな声だった。
「少しだけ、だぞ」
(……は、はい……!)
*
侯爵さまは帰り際、テーブルの上に一通の書状を置いた。
分厚い、上等な紙。
真ん中には、赤い蝋で押された大きな紋章がある。
「その書状を、家の目立つところに飾っておけ」
侯爵さまは、ぶっきらぼうに言った。
「この家の娘には、ヴァルデマー侯爵家が後ろ盾となる。……この娘に手を出す者は、侯爵家が許さん。そう記してある」
(う、後ろ盾……?)
「わしは、借りを作ったままにしておくのが好かん」
そう言い残し、侯爵さまは扉を出ていった。
右足を、ほんの少しかばいながら。
*
馬車の音が遠ざかり、家の中がすっかり静かになってから。
私は、ようやくベッドの下からはい出した。
テーブルには、紋章入りの書状。
家の外には、荷車から下ろされた山ほどのお礼の品。
その一番上に、真っ白な小麦粉の大きな袋が載っていた。
「ミミ」
ライルさんが、笑いをこらえながら言った。
「侯爵様に酒をやめろって言ったのは、たぶん、この国でお前が初めてだぞ」
(……や、やめろとは……言ってません……!)
顔から火が出そうだった。
でも。
私は、書状に押された赤い紋章を見つめた。
(……もう、あの子爵は来ない)
(この家は……燃やされない……)
ずっと胸の奥にあった冷たい塊が、ゆっくりと溶けていく気がした。
その夜、私は久しぶりに、ぐっすりと眠った。
*
――同じ夜。リンデルの地下牢。
湿った石の壁。
鉄格子の向こうで、ろうそくの火がちらちらと揺れていた。
その奥に、一人の男がうずくまっている。
かつては上等だった紫の上着は泥と汗で汚れ、見る影もない。
細い口ひげは乱れ、目だけがぎらぎらと血走っていた。
元子爵、バルトロ。
「……おのれ……あの、小娘め……」
かすれた声が、石の壁に吸い込まれる。
「あの小娘さえいなければ……わしは今ごろ……派閥の、長に……!」
こつ、こつ。
牢の外の暗がりから、足音が近づいてきた。
鉄格子の前で止まったのは、黒い服を着た男だった。
あの日、ミミの家の扉を無言で開けた従者。
晩餐会の夜は子爵の屋敷に残っていたため、捕らえられずにいた男だ。
「……来たか」
バルトロは鉄格子に顔を寄せ、にたりと笑った。
「財産はすべて奪われた。だが……屋敷の床下に隠しておいた金までは、見つからなかったはずだ。あれを、全部くれてやる」
従者は、何も答えない。
「だから――」
バルトロの目が、暗く光った。
「あの小娘を、消せ」
「…………」
「ふん。郊外のあんなぼろ小屋だ。夜中に火が出たところで、誰が気づく。誰が止められる」
ろうそくの火が、ゆらりと揺れた。
「あの小屋ごと……燃やしてしまえ」
黒服の従者は、しばらく黙ってバルトロを見下ろしていた。
やがて、ほんの小さくうなずく。
こつ、こつ。
足音が、暗闇の奥へ遠ざかっていく。
牢の中には、バルトロの低い笑い声だけが、いつまでも響いていた。




