第8話 ウソの毒薬
その人が訪ねてきたのは、レインさんが森の奥の薬草を届けてくれてから、半月ほどたった日のことだった。
コン、コン。
丁寧なのに、どこか冷たい響きのするノック。
「失礼。郊外の魔女の家は、こちらかな」
聞き覚えのない、低い男の人の声だった。
(し、知らない人……!)
私はいつものように、棚の陰へ逃げ込もうとして――。
ギイ、と。
返事をするより先に、扉が開いた。
「ひっ……!」
入ってきたのは、二人の男の人だった。
一人は黒い服を着た、無口そうな従者。
もう一人は、四十歳を過ぎたくらいの背の高い男の人。濃い紫色の上着に、金の飾りがついた杖を持っている。
細い口ひげの下で、薄い唇がにやりと曲がった。
「ほう。噂どおり、本当に子どもだな」
男の人はハンカチで鼻を押さえ、部屋を見回す。
「わしはバルトロ。子爵だ」
(し、子爵……? き、貴族さま……!?)
足が、がくがくと震えだした。
この世界で、貴族に逆らうのがどれほど怖いことか。それくらいは、私でも知っている。
「冒険者どもの間で評判だそうだな。郊外の魔女の毒消しは、本物だと」
バルトロ子爵は杖の先で、棚に並んだ小瓶をこつん、こつんと叩いた。
「毒消しが作れるということは……毒にも詳しい、ということだ」
(……え?)
子爵の視線が、棚の陰に隠れた私をとらえる。
「毒を作れ」
*
頭の中が、真っ白になった。
「相手を眠らせ、そのまま二度と目覚めさせない毒だ。味も匂いもなく、食べ物に混ぜても気づかれないものがいい」
(ど、毒……? ひ、人を……殺すための……?)
「誰に使うかは、お前が知る必要はない」
子爵はテーブルの上に、ずしりと革袋を置いた。
ちゃりん、と銀貨の音がした。
「前金だ。うまくいけば、この倍をやろう」
(い、いらない……! そ、そんなの……!)
首を横に振ろうとした、そのとき。
すっ、と杖の先が私の目の前に突きつけられた。
「断る、などとは言わんだろうな」
さっきまでの笑みは、もうない。
「親もいない子どもが、郊外の小屋に一人きり。ある晩、その小屋が火事になったとして……誰が騒ぐと思う?」
「……っ!」
背中に冷たい汗が流れた。
「七日後に取りに来る。それまでに用意しておけ。……誰にも言うなよ」
バルトロ子爵はくるりと背を向けた。
従者が無言で扉を開ける。
バタン。
扉が閉まった途端、私はその場にへたり込んだ。
テーブルの上には、銀貨の袋。
まるで、そこだけが別の世界のものみたいに見えた。
*
その夜、私は一睡もできなかった。
(毒……人を、殺すための、毒……)
母のノートには、魔物の毒についても詳しく書かれている。
どんな毒が、体にどう作用するのか。
何を使えば、毒を弱められるのか。
全部、人を助けるための記録だ。
それを、人を傷つけるために使うなんて。
(……無理。絶対に、無理……!)
でも、断れば。
この家が。
母の薬草の匂いがする、この家が。
(ど、どうしよう……どうしよう……っ)
膝を抱え、ぎゅっと目をつぶる。
逃げる? どこへ?
言われたとおりに毒を作る?
……そんなの、絶対に嫌。
作らずにごまかす? でも、どうやって?
考えても考えても、同じところをぐるぐる回るばかりだった。
――そのとき。
台所の棚に置かれた、白い袋が目に入った。
ハンナさんの腰の貼り薬を作ったときに使った、小麦粉の袋。
(……あ)
私は、ゆっくりと顔を上げた。
(毒じゃないものを……毒だと思わせて、渡せたら……?)
*
次の日から、私は考え続けた。
誰も傷つけずに済む方法。
子爵に渡す小瓶には、毒の代わりに小麦粉を入れる。
何度もふるいにかけたら、細かな白い粉になる。
(で、でも……)
気になることがあった。
小麦を食べると、体調を崩す人もいる。
もし狙われている人がそうだったら、毒のつもりがなくても危ない。
それに、私は狙われている人が誰なのかさえ知らない。
三日に一度、パンと野菜を届けてくれるハンナさんに、思い切って聞いてみた。
「……ハ、ハンナさん……。き、貴族の人って……パ、パン……食べます、か……?」
「貴族さまかい? そりゃ食べるとも。白くてふわふわの、いいパンをね」
(……そっか)
でも、貴族の誰もが同じとは限らない。
その答えだけで安全だと決めることは、できなかった。
(……やっぱり、渡すだけじゃ……だめなんだ)
それに、小麦粉なら、子爵の望んだ毒と同じようには使えない。
子爵が中身を疑うかもしれないし、何も起きなければ、また別の方法を考えるかもしれない。
そうなれば、狙われている人も、私も危ない。
(止めなきゃ……。この計画、そのものを……!)
でも、私一人じゃ無理だ。
五歳の私が「貴族さまが人を殺そうとしています」と言って、誰が信じてくれるだろう。
そもそも、知らない人に話しかけるだけで、足がすくむのに。
(だ、誰か……助けてくれる、大人の人……)
頭に浮かんだのは、一人だった。
包帯を巻いた肩。
不味いポーションを、顔をしかめながら飲んでくれた姿。
何度も「また来る」と言ってくれた、優しい声。
(……ライルさん)
*
私は紙とペンを取り出した。
声では、うまく伝えられない。
でも、書いたものは残る。
以前、伝えたいことを聞いてもらえなかったとき、そう気づいた。
何度も何度も書き直した。手が震えて、文字がいつも以上にがたがたになる。
それでも、最後まで書いた。
『ライルさんへ
きぞくの ひとが きて、どくを つくれと いわれました。
ひとを ころす どくです。だれを ころすかは わかりません。
ことわったら いえを もやすと いわれました。
どくは つくりません。かわりに こむぎこを わたそうと おもいます。
でも、わたし ひとりでは とめられません。
たすけて ください。
ミミ』
最後の一行を書くときだけ、ペンが何度も止まった。
『たすけて ください』
今まで、誰にも言ったことのない言葉だった。
*
コン、コン。
三日に一度の、聞き慣れた音。
「ミミちゃん、パンとお野菜、持ってきたよ」
私は扉を開けた。
いつもより、少しだけ大きく。
「……ハ、ハンナ……さん……」
「おや?」
ハンナさんが目を丸くした。
私の方から名前を呼んだのは、初めてだった。
私は、震える手で畳んだ手紙を差し出す。
「……こ、これ……き、騎士学校の……ライルさんに……と、届けて……ください……」
喉がきゅっと締まる。
けれど、引っ込めなかった。
「……お、お願い……します……っ」
ハンナさんは、手紙と私の顔を見比べた。
そして何も聞かず、そっと手紙を受け取って胸元にしまう。
「わかったよ。今日のうちに、必ず届けるからね」
しわだらけの手が、私の頭を優しくなでた。
「ミミちゃんが、自分から『お願い』って言ってくれたんだ。おばあちゃん、走ってでも行くよ」
私は小さくうなずいた。
声にならない「ありがとう」が、胸の奥にあふれていた。
*
その日の夕方。
コン、コン、コン。
「ミミ! ライルだ!」
私は慌てて扉を開けた。
ライルさんが、息を切らして立っていた。
そして、その後ろには――。
白いローブを着た、背の高い女の人。
(……っ! し、知らない人……!)
とっさに棚の陰へ逃げようとした私に、女の人が静かに声をかけた。
「待って。怖がらせてごめんなさいね」
声は、とても柔らかかった。
「私はセレナ。騎士学校で治癒師をしているの」
セレナさんは扉の外に立ったまま、勝手に中へ入ろうとはしなかった。
「あなたの手紙、読んだわ。ライルがすぐに相談してくれたの」
それから、私と目の高さが合うようにしゃがんだ。
「とても勇気のいることだったと思う。知らせてくれて、ありがとう」
私はうつむいたまま、スカートの裾を握りしめた。
「ここからは、私たち大人にも手伝わせてね」
*
セレナさんは、私が答えられる速さに合わせて、一つずつ質問してくれた。
子爵の名前。顔。服。連れていた従者。
それから、いつ取りに来ると言っていたのか。
私はうなずいたり、首を振ったり、紙に書いたりして、なんとか答えた。
「……バルトロ子爵、ね」
セレナさんとライルさんが顔を見合わせる。
「ヴァルデマー侯爵の派閥にいる貴族だわ。最近は家の勢いが落ちて、派閥の中でも不満を抱えていると聞くけれど……」
「それじゃ、狙われているのは侯爵様ですか?」
「その可能性はある。でも、まだ決めつけられないわ」
セレナさんは少し考えてから続けた。
「子爵が薬を受け取る三日後に、侯爵家で晩餐会が開かれる予定なの。まずは騎士団に知らせて、侯爵家にも事情を確認しましょう」
私の胸が、どくんと鳴った。
(……騎士団……。そ、そんなに大きな話に……?)
「ミミちゃん。子爵が来る日は、私たちが近くで見守るわ。あなたを一人にはしない」
セレナさんは、私が書いた手紙に目を落とした。
「毒の代わりに小麦粉を渡そうと思ったのね。それは、誰も傷つけたくなかったから?」
私はこくりとうなずいた。
「その気持ちは大事よ。でも、相手が何をするかわからない以上、あなた一人で試してはだめ。受け渡しも、そのあとのことも、私たちで安全を確かめながら進めるわ」
そして、少しだけほほ笑んだ。
「怖くなったら、無理をしなくていい。私たちに知らせて」
私は、ゆっくりとうなずいた。
「大丈夫だ、ミミ」
ライルさんが、いつもの声で言った。
「お前はもう、一人じゃない」
その言葉を聞いた途端、ずっと張りつめていた胸の奥が、少しだけ緩んだ。
*
七日目。
約束どおり、バルトロ子爵がやって来た。
窓の向こう、森の木々はいつもどおり静かだった。
でも、そのどこかで、騎士団の人たちが見守ってくれている。
(だ、大丈夫……。ライルさんたちが、いる……)
私は黒いガラスの小瓶を、震える手で差し出した。
中身は、毒ではない。
何度もふるいにかけた、小麦粉だ。
「……こ、これ……です……」
子爵は小瓶を光にかざし、満足そうに笑った。
「ほう。白い粉か。……使い方は?」
(……っ)
私は、セレナさんたちと決めたとおりに、説明した。
「……お、お酒には……向きません……。り、料理に……使う、ものです……」
「料理か。なるほどな」
子爵は小瓶を上着の内ポケットにしまった。
「残りの金は、事が済んでからだ。余計なことは言うなよ」
バタン。
扉が閉まり、足音が遠ざかる。
私はその場にへたり込んだ。
(……渡せた……)
でも、これで終わりじゃない。
(……あとは、大人に任せる……)
セレナさんの言葉を、何度も心の中で繰り返した。
*
――三日後の夜。ヴァルデマー侯爵家。
大広間には長いテーブルが延び、燭台の明かりが揺れていた。
上座には、六十歳くらいの白髪の男が座っている。
背筋をぴんと伸ばし、鋭い目で集まった貴族たちを見渡していた。
ヴァルデマー侯爵。
派閥の頂点に立つその男の威圧感に、周囲の貴族たちはすっかり萎縮している。
「ふん。今宵も、しけた顔ぶれだな」
その一言に、引きつった愛想笑いが広がった。
客の中には、バルトロ子爵の姿もあった。
給仕たちが、次々と料理を運んでくる。
ただ、その中には、妙に体格のいい給仕が何人か紛れていた。
壁際に控える従者の列には、騎士団の補佐役として招かれたライルもいる。
そして侯爵自身も、今夜の企てについて事前に説明を受けていた。
騎士団とともに、子爵が動く瞬間を待っているのだ。
料理が白いシチューに変わった、そのとき。
バルトロ子爵が、すっと席を立った。
「侯爵閣下。お皿が少し遠いようで。こちらへ寄せて差し上げましょう」
侯爵の皿へ手を伸ばす。
袖の陰で、子爵の指が黒い小瓶の栓を抜いた。
白い粉が、シチューの上に落ちる。
ライルは、その一部始終を見ていた。
子爵は何食わぬ顔で席に戻り、ワインのグラスを持ち上げた。
「閣下のご健康と、派閥の繁栄に」
侯爵は、ふん、と鼻を鳴らした。
子爵に渡されたものが小麦粉だと事前に知らされていた侯爵は、シチューをゆっくりと口に運ぶ。
一口。
二口。
三口。
――何も起きない。
侯爵は、平然と食べ続けている。
バルトロ子爵の顔から、すうっと血の気が引いた。
(ば、馬鹿な……。眠るように静かに、二度と目覚めぬと……!)
侯爵は皿をきれいに平らげた。
「うむ。今日のシチューは、なかなか悪くない」
(なぜだ……!? なぜ効かん……!)
子爵の手が、テーブルの下でがたがたと震えだした。
そっと席を立ち、上着の内ポケットへ手を入れる。
空になった小瓶を隠そうとした――その瞬間。
「そこまでだ、バルトロ子爵」
低い声とともに、給仕姿の男たちが一斉に子爵を取り囲んだ。
彼らは本物の給仕ではない。
リンデル騎士団の騎士たちだった。
「な、何を……! 無礼な! わしを誰だと――!」
騎士の一人が子爵の手首をつかみ、空の小瓶を取り上げた。
底には、白い粉が少しだけ残っている。
「侯爵閣下の料理に、この粉を入れるのを確認した。説明してもらおうか」
壁際から、ライルが一歩前に出た。
「俺も、確かに見ました」
大広間がざわつく。
「バ、バルトロ……貴様……!」
侯爵が低くうなった。
子爵は真っ青な顔で叫ぶ。
「ち、違う! わしは知らん! それは……郊外の、あの小娘が作った毒だ! わしは、あの小娘にだまされて――!」
「毒、ですか?」
大広間の入り口から、静かな声がした。
白いローブを着たセレナだった。
騎士から小瓶を受け取り、中身を確かめるように眺める。
「これは、小麦粉です」
「……は?」
「ただの小麦粉。事前にミミちゃんから、何を渡すか聞いていました。侯爵閣下にも、事情をお伝えしてあります」
バルトロ子爵は、ぽかんと口を開けた。
「こ……小麦粉……?」
セレナは懐から、一枚の紙を取り出した。
がたがたの字で書かれた、ミミの手紙だった。
『どくは つくりません。かわりに こむぎこを わたそうと おもいます。』
「この子は、あなたに毒を作れと脅されたことも、家を燃やすと脅されたことも、すべて知らせてくれたんです」
セレナの声は静かだった。
「誰も傷つけたくないと願った五歳の子どもが、あなたの計画を止めるきっかけを作ったのよ」
大広間は、しんと静まり返った。
子爵は、がくりと膝をつく。
「……連れていけ」
侯爵の命令で、騎士たちが子爵を連行していった。
残された人々は、しばらく誰も口を開かなかった。
やがて、侯爵が低く笑いだした。
「くっ……くくく……!」
その笑い声は、次第に大きくなっていく。
「小麦粉、だと? わしを狙った毒の正体が、小麦粉……! しかも、それを考えたのが五歳の小娘とはな!」
侯爵は目尻の涙をぬぐった。
それから、ふっと笑みを消す。
「……その娘、ミミと言ったか」
「はい」
「郊外の、魔女の娘だな」
侯爵は空になった皿を、しばらく見つめた。
「……ふん。借りができたな」
*
翌日の昼過ぎ。
コン、コン、コン。
「ミミ、ライルだ」
私は扉を開けた。
そこには、晴れやかな顔のライルさんが立っていた。
「終わったよ。全部、うまくいった」
「……ほ、本当……ですか……?」
「ああ」
ライルさんは、昨夜の出来事を話してくれた。
子爵が小麦粉をシチューに入れたこと。
侯爵は事情を知っていて、騎士団もその場にいたこと。
子爵はそのまま取り押さえられたこと。
セレナ先生が、あの粉は小麦粉だと皆に説明したこと。
(……だ、誰も……傷つかなかったんだ……)
胸の奥が、じわりと温かくなる。
「それでな、ミミ」
ライルさんが、少し困ったような顔をした。
「侯爵様が、お前に会いたいそうだ」
(…………え?)
「直接、礼が言いたいって。近いうちに、ここへ来るかもしれない」
(こ、侯爵……さま……が……? こ、ここに……!?)
頭の中で、ぷつんと何かが切れた。
「……む、む、無理……! む、無理です……! ぜ、絶対……っ!」
私は棚の陰を通り越し、ベッドの下へもぐり込んだ。
「お、おい、ミミ!? そこまで隠れなくても!」
ライルさんの困った声が、頭の上から降ってくる。
それでも、ベッドの下で膝を抱えながら、私はほんの少しだけ思っていた。
(……誰も、傷つかなかった)
(……助けて、って……言えた)
怖かった。
今だって、怖い。
それでも、誰かを頼ることができた。
それは、きっと。
私がこの世界に来てから、いちばん大きな一歩だった。




