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『星を紡ぐ右腕 〜追放された魔導技師、壊れた右腕で世界を繋ぐ〜』  作者: 鍼灸師いのぴー
第3章:設計思想編

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第97話:『消えなかった記録』

「アレンッ!! おい、聞こえてるのか……ッ!」


レオンの声が、まるで見えない水底の底から響くように遠い。


コックピットのシートに身体を預けたまま、アレンはまだ現実と幻影の狭間を漂っていた。


視界の端には、相変わらずモノクロームの残滓がちらつき、耳の奥では旧文明の冷徹なシステム音声と、零号機が発した静かな機械音が反響し続けている。


暴走する黒い右腕の魔導回路は、アレンの心臓の鼓動を飲み込むかのように、禍々しい熱量を放ちながら脈を打っていた。


(……寒い)


昏い意識の底で、アレンは震えていた。


空調の効いたコックピットの温度ではない。もっと深い、魂の根底を凍てつかせるような寒気が、骨の髄から這い上がってきている。


あのモノクロの世界で触れた、果てしない時間の重みが、そのまま肉体に定着しようとしているかのように。


「アレンっ! しっかりしろ!」


レオンが乱暴に肩を揺さぶる。


その衝撃で、ようやくアレンの指先が痙攣したようにピクリと動いた。


『――システム、再構成シーケンスを強制実行します』


突然、冷徹な合成音声がコックピットに響いた。


アークの声だ。しかし、いつもの滑らかな演算応答ではない。どこかノイズ混じりで、システム全体が悲鳴を上げているような不気味な響きがあった。


「……アーク?」


レオンが思わず身構え、計器盤へと視線を走らせる。


『レオン……それに、アレン』


アークの音声が、わずかに波打つ。


『私のデータベースに……異常な領域が生成されています。削除しようとしても、ファイアウォールを書き換えようとしても、そのデータは私のコアから消去できません』


「消せない? お前の管理下にあるデータベースが、そんなことあるか!」


『ありません。論理的にあり得ないはずなのです。ですが――』


アークの電子音が、恐怖に似た規則性のないリズムを刻んだ。


『その領域には、私自身の管理者権限すら及ばない「外部アクセスキー」が設定されています。そして、そこに保存されているのは、私が観測したこともない膨大な……』


『……アーク』


掠れた声で、アレンがようやく目を開けた。


焦点の定まらない瞳のまま、彼は自分の右腕を見つめる。


その黒い魔導回路の隙間から、先ほどまでとは違う、深く冷たい藍色の光が――かすかに、しかし確実に脈打っていた。


「お前……目覚めたのか!?」


レオンが両手でアレンの肩を掴む。


だが、アレンはその顔を見ず、ただ自分の右腕の光と、頭蓋の奥で鳴り続ける電子音に囚われていた。


「アレン、お前、さっきから様子がおかしいぞ。中で何を見た?」


「……レオン」


アレンはかすれる声で呟いた。


「俺は……さっき、何を見せられた……?」


「何をって……お前、零号機と戦った後、急に意識を飛ばして……」


レオンは言葉を選ぶように、一度口を閉じてから低く続けた。


その目は、冗談や軽口を一切許さないほど真剣だった。


「……あいつがお前に触れた瞬間だ。お前の右腕から出た光、あれ、零号機のセンサーと同じ色だったぞ。お前の身体の中で、何が起きやがった」


答えようとしても、声が出ない。


脳裏に蘇るのは、冷たい実験室の床と、何度拭き取っても消えなかった黒ずんだ血痕。そして、零号機がその巨大な装甲で覆い隠すように庇い続けていた「あの小さな生体」の幻影だ。


――『保護対象――未登録』


――『優先順位――再設定』


――『保護対象の名称、取得不能』


あの世界で見た記録が、濁流となってアレンの思考を殴りつける。


そのシステムログの冷徹さと、対照的にあった零号機の沈黙。


その時だった。


『――該当データを検知。強制再生を開始します』


アークの制止を無視して、コックピットのコンソールが一斉に発光した。


それはアークの管理下ではない。アレンの肉体、その胸元に刻まれた魔導回路を媒体にして、データが勝手に現実世界へあふれ出していく。


空間に、あのモノクロームの記録が投影された。


冷たい研究施設。


慌ただしく走り回る白衣の者たち。


そして、旧文明が「罪」と断じた、あの幼い生体の姿。


映像の中で、零号機がその圧倒的な装甲を展開し、世界すべての悪意からその存在を護り抜こうとしていた。


そして――その記録の最期に、奇妙な音声が混じっていた。


『……アレン』


その幼い生体が、記録の中で初めて、その名を口にした。


だが、現実世界でその音声を聞いた瞬間、アレンの背筋に凍るような戦慄が走った。


(……違う)


違和感が、雷のように脳裏を撃ち抜く。


あれは、名前を呼んでいるのではない。


名前を、教えられている。


そう直感した。


それは零号機が、その途方もない時間の果てに、その小さな存在へ向けて刻み込んだ――唯一の「証」だった。


ならば――自分が今持っている「アレン・ヴァルハイト」という名前は、一体どこから来たのか。


その答えだけが、どうしても思い出せない。


いや。


思い出せないのではない。


何者かによって、思い出せないようにされている。


「おい、アレン……? いまの声……」


レオンが息を呑み、血の気の引いた顔でアレンを見た。


レオンにとっても、その名が何を意味するのかは分からない。しかし、それが現在の状況を決定的に変えてしまう「何か」であることだけは本能で理解していた。


「アーク、今の記録の出所は……!」


レオンが叫ぶが、アークの応答はすでに二重のノイズに歪んでいた。


『――警告。ローカル・ストレージの容量を超過』


『未確認のサブ・ディレクトリが展開されます』


『保存場所……アレン・ヴァルハイトの内部領域』


コンソールに、次々と崩壊していく文字列が映し出される。


それは旧文明の遺産か、あるいは零号機が遺した遺言か。


消去されたはずのデータが、アレンという肉体を器にして、今まさに現実世界へ「復元」されようとしていた。


「……俺の中に……まだある」


アレンが呟く。


「何がだ?」


「記録が……消されなかったものが、まだ俺の奥に隠されている」


その言葉を遮るように、アークの合成音声が割れた。


『――新規のディレクトリを捕捉』


『名称……【PROJECT:――――】』


一瞬。


コックピットの全モニターが、眩いほどの藍色に染まった。


文字の続きが表示されようとしたその瞬間、コンソール全体が激しいスパークを散らし、すべての画面が漆黒の闇へと沈んだ。


「っ……! アーク、システムはどうなった!」


レオンが計器盤を殴りつけるように確認する。


『……メインシステム、再起動完了。ですが……』


アークの声に、先ほどまでの恐怖とは違う、底知れぬ困惑が混じっていた。


『先ほどの【PROJECT:――――】に関するログは、データそのものが綺麗に消去されました。私の演算領域には、何も残っていません』


「消されたのか……?」


「いや……」


アレンは静かに首を振った。


自分の右腕の奥。その確かな手応えだけが、消えていないことを告げている。


「消されたんじゃない。……鍵が掛かったんだ」


アレンが右腕を握りしめると、藍色の光がもう一度だけ、不気味な熱を帯びて脈打った。


コックピットの外――はるか遠くの地平線の彼方から、新たな地鳴りのような音が響き渡り始めた。


「……何だ、今の音……?」


レオンが振り返る。


アレンもまた、ゆっくりと顔を上げた。


その瞬間。


暗闇に沈んだはずのモニターが、一つだけ再び点灯した。


藍色の光。


そこに表示されたのは、先ほど消えたはずの文字列だった。


【PROJECT:――――】


そして、その直下に――


先ほどまでは存在しなかった、新たな一文が浮かび上がる。


【第一保護対象:生存】


アレンの瞳が、大きく見開かれた。


「……第一……?」


その言葉を最後に、モニターは再び暗闇へ沈んだ。




(第97話:『消えなかった記録』・完)

次回、第98話『第一保護対象』へ続く

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