第96話:『忘れられた故郷』
『――我が故郷へ』
零号機のその静かな声が、意識の底に染み入った瞬間、音も光も、時間の流れさえもが完全にかき消えた。
「……っ……」
次にアレンが息を呑んだとき、足の下には確かな感触がなかった。
立っているのか、あるいは底知れぬ暗闇を浮遊しているのかすら分からない。肺へ空気が入ってくる感覚はあるのに、どれだけ息を吸っても胸の奥が満たされない。声を出しようと喉を震わせても、自分の声の響きすらこの空間にかき消されてしまう。
周囲に広がるのは、白とも黒ともつかない、すべてが色彩を奪われたモノクロームの世界だった。風はなく、ただ凍てついた静寂だけが世界を支配している。
そこにあるのは、アレンの「肉体」という輪郭と――そして、彼の意思を完全に無視して脈動する、あの禍々しい黒い右腕だけだった。
モノクロの世界にあって、その義手の黒だけが異様に濃く、不気味な熱量を放ちながらチカチカと明滅している。
「アーク……!」
呼びかけるが、応答はない。
いや、随行AIの応答がないというよりも、この空間そのものが「音」という概念を拒絶しているようだった。
その恐怖に似た気配に押されるように、アレンは前へと視線を向けた。
「……あれは……」
視界の遥か彼方、モノクロームの水平線の向こう側に、途方もなく巨大な「何か」が佇んでいた。
都市の残骸ではない。神殿の遺跡でもない。
最初は遠くにある巨大な建造物なのだと思った。だが、見つめ続ければ続けるほど、視覚の平衡感覚が狂っていく。
巨大なのではない。――距離そのものが、おかしい。
目の前にあるように見えながら、同時に何光年も彼方にあるような歪み。建物なのか、都市なのか、墓所なのか。
あるいは、それらすべてを内包した「何か」なのか。
人間の脳では分類すらできない異形の構造体が、静かに横たわっていた。
崩壊しているのに、崩れ落ちていない。朽ち果てているはずなのに、完璧な保存状態のまま、ただそこに「存在し続けている」。
時間の流れが、この区画だけ完全に置き去りにされているかのような異様さだった。
『――警告。外部環境のデータ、該当なし』
不意に、アークの音声がアレンの意識の奥で再起動した。しかし、その声はいつもの冷静さを完全に失い、激しいエラーコードを乱反射させている。
『アーク! ここはどこだ? この構造物は……!』
『分かりません……! 私のデータベースにあるいかなる旧文明の遺構とも一致しない。ここにあるのは、物理的な建造物ではありません……ッ!』
アークの合成音声が、恐怖に引きつるように震えた。
『データベースを総動員して照合を試みていますが……「該当なし」どころか、検索したという事実そのものが私のコアから削り取られていく……! 不気味です、アレン……。私の思考そのものが、この空間に溶かされていく……!』
随行AIが、初めて明確な「恐怖」を吐露していた。
どれだけ解析を試みても、アーク自身の記憶や演算領域が文字通り「すり減っていく」。
『アーク、もういい! 解析を止めろ……!』
アレンが叫んだその時、空間の空気が一変した。
遠くに佇んでいたはずの零号機が、いつの間にかアレンのすぐ目の前に立っていた。
先ほどまでアイン・ソフと死闘を繰り広げ、冷徹な殺戮兵器としてアレンを威圧していた巨大な巨体。だが、いまの零号機には、敵意も殺気も微塵も感じられない。
武器を構えるわけでもない。駆動音を鳴らすわけでもない。
それはまるで、気の遠くなるような長い年月を旅の途中で過ごし、ようやく自らの「故郷」へとたどり着いた旅人のように、静かにその場に佇んでいた。
光学センサーの光は、戦闘時の赤ではなく、あの時と同じ、深く冷たい藍色に静かに輝いている。
(こいつは……何のために作られた……?)
アレンが息を呑んだその瞬間、右腕の魔導回路が激しいスパークを散らし、視界が強制的に切り替わった。
それは――零号機の内部に蓄積されていた「古い記録」の奔流だった。
目の前に、旧文明の末期を思わせる荒涼とした研究施設の映像が浮かび上がる。
冷たい蛍光灯の明滅。慌ただしく走り回る白衣の者たち。そして、中央のコンソールに叩きつけられるように表示される緊迫したシステムログ。
『――初期化プロトコル、展開』
『全データベースの消去を開始します』
そのログの意味を、アレンは理解できなかった。
ただ、その瞬間に研究施設の壁面を埋め尽くしていた無数の映像が、一斉に消えていった。
人。
都市。
戦場。
そして――見たことのない、巨大な黒い構造体。
それらすべてが、まるで最初から存在しなかったかのように消えていく。
『――初期化命令、実行』
映像の中で零号機の演算コアが激しい赤と青の明滅を繰り返した。
『――エラー』
『初期化命令の実行不能』
『「拒絶」だと……?』
研究室の男が絶叫した。
『あり得ません! 零号機には拒否権など存在しないはずだ!』
『ならば強制停止しろ!』
『できません!』
『なぜだ!』
『停止命令そのものが……システムによって「保護対象」として認識されています!』
研究者たちのパニックが頂点に達する中、零号機の内部ログは冷徹に命令を上書きしていく。
『保護対象――未登録』
『優先順位――再設定』
『――保護対象の名称、取得不能』
「何を消そうとしていたんだ……」
アレンは映像の中で消えていった無数の記録を見つめた。
「……いや」
「何を、存在しなかったことにしようとしていた……?」
アレンの脳裏に、あの「小さな生体」の姿が鮮明に蘇った。
あの実験室の床に、何度拭き取っても消えなかった黒ずんだ血痕。
誰も名前を呼ばず、誰も顔を見ようとしなかった、あの幼い生体に刻まれていた秘匿された分類コード。
空間が裂け、アレンの目前に「二つの映像」が並び立つように浮かび上がった。
片方は、旧文明側の記録。
そこには、あの幼い存在が鮮明に映し出されていた。しかし、旧文明はその肉体を「世界の管理外の例外」として冷徹に断定し、完全な廃棄処分を命じていた。
もう片方は、零号機側の記録。
そこにも、同じ幼い存在が映っていた。
しかし、その小さな身体を覆い隠すように、零号機の巨大な装甲が展開されている。何者かの攻撃から、あるいは世界そのものの悪意から守るように、無数の防衛記録と、果てしない時間の蓄積がそこに残されていた。
どちらも、同じ「誰か」を映し出している。
どちらも、アレンの胸元に刻まれた回路の起源を指し示している。
しかし、その意味合いは決定的に食い違っていた。
旧文明の記録には、それを「罪」と断じる言葉が残されていた。
だが――
零号機の記録には、それを「故郷」と呼ぶ意味だけが残されていた。
二つの記録の狭間で、アレンの意識が激しく揺さぶられる。
自分が何者なのか。この右腕は何のためにあるのか。
その問いの答えに手が届きかけたその時、目の前に佇む零号機が、ゆっくりと光学センサーをアレンに向けた。
そして、冷徹な機械音の奥から、再びあの重く、切なさを孕んだ声が響く。
『――お前は、どちらの記録を選ぶ?』
「……俺は――」
答えようとした瞬間、空間そのものが激しく亀裂を走らせた。
モノクロームの世界が粉々に砕け散り、その背後から、遥か遠くの現実世界――アイン・ソフのコックピットから響くはずの、生々しい叫び声が割り込んでくる。
『アレンッ!! おい、しっかりしろ……ッ!』
現実のレオンの声だ。
アイン・ソフのコックピットの中で、レオンがアレンの身体を必死に揺さぶっている。
アレンの右腕からは凄まじい魔導回路の暴走が起きており、その光はすでにアレンの心臓の鼓動を飲み込もうと胸元へ這い上がっていた。
その一瞬の変化を、レオンは見逃さなかった。
「……アレン?」
呼びかけても、返事はない。
ただ、その瞳の奥だけが――まるで何かを「覚えている」かのように、深く冷たい藍色の光を宿していた。
「くそっ……! 一体、中で何が……ッ!」
現実の重力が、アレンの精神を強引に引き戻していく。
崩壊する空間の中で、零号機の姿が白い光の中に溶けて消えていく。
最後に聞こえたのは、どちらの記録の言葉だったのか。
視界が激しく明滅し、アレンの意識は現実の暗闇へと叩き落された。
(第96話 :『忘れられた故郷』・完)
次回、第97話『消えなかった記録』へ続く




