第95話:『原初への帰還』
『――拒絶反応を確認』
『……ですが』
『ようやく、見つけました』
『帰還を――開始します』
零号機のその合成音声がコックピットの冷たい空気を震えた瞬間、世界から一切の音が消え去った。
「っ……が、あ……ッ!」
アレンは喉の奥からせり上がる激痛と眩暈に、思わず両目を固く閉じた。
痛覚ではない。精神の深部、意識の最も底にある「自我の境界線」が、外側から無理やりこじ開けられるような、悍ましいほどの侵食感だった。
自らの意志を完全に無視して勝手に伸びた黒い右腕は、すでに零号機の指先と寸分違わず接触していた。
いや、接触しているという表現ですら生ぬるい。神代の機構と魔導回路が、互いの金属を溶かし合うように深い結合を始めている。
「動け……動けよ、くそっ……!」
アレンは左手で右腕を掴み、力任せに引き剥がそうとした。しかし、義手の関節はすでにアレンの命令を完全に放棄し、逆方向にすら歪みながら零号機を貪るように絡みついている。
皮膚の下では、埋め込まれたはずの魔導回路が激しい光を放ちながら波打ち、アレン自身の心臓の鼓動と右腕の得体の知れない脈動が、少しずつ、しかし確実に同期していく。
『――警告! 外部回線からの強制介入を確認!』
『アレン、意識を保ってください! このままではあなたの精神そのものが、零号機の演算領域へ引きずり込まれます……ッ!』
アークの悲鳴が、遠くの底から聞こえる水音のように響く。
だが、その警告の声を最後に、アレンの視界は完全に白濁した光へと飲み込まれた。
物理的な空間が、音もなく消え失せた。
そこにあったのは、冷たいコンクリートの壁と、幾重もの魔導シールドに囲まれた無機質な「実験室」の幻影だった。
時間の感覚はない。ただ、そこには冷徹な使命感に突き動かされた旧文明の研究者たちの気配だけが、息が詰まるほど濃密に残されていた。
視界の端で、白衣を着た者たちが慌ただしく動き回っている。
彼らが目の前にしているのは、巨大な兵器の起動データではない。もっと小さく、もっと脆い、生体に関する記録だった。
『――生体反応、安定』
『適合率……異常値。基準値を優に突破しています』
『神代の因子を、この肉体に定着させる』
冷徹なログを読み上げる研究者の声が、幻影の中から響いてくる。
実験室の床には、何度拭き取っても消えなかったような、黒ずんだ血痕が残されていた。研究者たちは誰もその小さな身体を見ようとせず、ただ目の前のモニタと数値を凝視している。魔導回路を刻む者、生命維持の数値を監視する者、そして記録を取る者――誰もが沈黙の中にいた。
さらに視線を下ろすと、そこには小さな「身体」があった。
まだ言葉も持たず、自我すら確立されていない、あまりにも幼い生体。
その剥き出しの胸元に、冷たく光る青白い魔導回路が、まるで逃れられない呪いのように、あるいは命を縛る枷のように刻み込まれていく。
その幼い存在の顔は眩い光に覆われ、最後まで輪郭すら見えない。
『……この子は、何になる?』
白衣を着た男の一人が、絶望と畏怖が入り混じった声で呟いた。
誰も答えようとはしなかった。口を開きかけた者も、すぐにその唇を引き結ぶ。
主任研究員の手元の端末には、「兵器適合体」でも「守護者」でもない、完全に秘匿された別の分類コードが点滅していた。
『兵器か? それとも――』
返事はなかった。
答える者など、最初から誰もいなかった。
ただ、その幼い肉体に因子が移植されたという事実だけが、誰にも知られることなく闇の中へ沈んでいった。
――それが、アレン自身の過去なのか。
(俺は……あんな場所にいたのか?)
意識の境界が溶けかけたアレンの脳裏で、強い疑問と拒絶が湧き上がる。
そんなはずはない。アレンに旧文明の記憶などない。生まれた街も、育った工房も、温もりも、すべて自分のものとして覚えているはずだ。
なのに、なぜ。あの回路の輝きを見た瞬間から、胸の奥が引き裂かれるような既視感を覚えるのか。
『――おかしい』
突如として、アークの合成音声がアレンの意識の底に割り込んできた。
普段の冷静さは跡形もなく消え失せ、随行AIの全演算コアが恐怖によるエラーを吐き出し続けている。
『アーク……? どうした……!』
『私には分かりません……! 私の検索結果が……消えています』
『消えているだと……?』
『違います……検索したという事実そのものが、私のデータベースから切り離されている。アクセスしようとするたびに、私自身のコアの記憶が削り取られていく……』
アークの合成音声が、初めて明確な「恐怖」を滲ませて震えた。
『これ以上進めば……私自身が、何なのか分からなくなる。引き返してください、アレン! ここは……人間が踏み込んではならない、禁忌の領域です……ッ!』
アークの絶叫を嘲笑うかのように、融合した右腕を通じて、膨大な情報の奔流がアレンの脳へ雪崩れ込んできた。
零号機という巨大な器を満たしていたものが、アレンの意識へと溢れ出す。
底知れない痛み。
消えない罪悪感。
誰一人救えなかった絶望。
そして――自分が何者なのか、どこから来てどこへ行くのかさえ分からなくなるほどの、途方もない「時間」の重み。
(俺が……俺じゃなくなる……?)
自我が完全に崩壊しかけたその瞬間。
目の前で、零号機の巨大な光学センサーの光が、ふと変異した。
赤ではない。警告の色でもない。それはこれまで一度も見たことのない、深く冷たい藍色の輝きだった。
アレンは息絶え絶えに、視界の先で見据える巨体に問いかけた。
「お前……今、何て……」
零号機は答えなかった。
ただ、静かに、まるで長い眠りから醒めた者が歩み寄るように、巨体がわずかに動く。
右腕の回路が狂おしいほどの熱量を帯びて共鳴した。
そして、冷徹な機械音の奥から、あまりにも重く、切なさを孕んだ声が響く。
『――ようこそ』
一瞬の静寂。
『我が故郷へ』
その言葉を最後に、アレンの意識は完全に暗黒の底へと沈み込んでいった。
(第95話:『原初への帰還』・完)
次回、第96話『忘れられた故郷』へ続く




