第94話:『存在しない記録』
『照合結果……比較対象が存在しません』
アークの合成音声が静まり返ったコックピットの中で、その機械音だけが冷たく反響した。
「比較対象が……ない、だと?」
アレンは眼前の零号機を見据えながら、自身の右腕を強く握りしめた。
魔導回路の熱は引かない。むしろ、零号機が放つ青白い光を吸収するかのように、義手の奥で得体の知れない脈動が激しさを増している。
だが、それ以上にアレンの背筋を凍らせたのは、相棒であるアークの異様な沈黙だった。
「おい、アーク……どういうことだ。俺という人間が、旧文明のデータベースに引っかからないってのか?」
『……アレン』
呼んでも、返事はすぐには返ってこなかった。
普段ならどんな状況でも即座に論理的な解析結果を返すはずの随行AIは、自らのアクセス権限の限界と、旧文明の深層に触れたショックにより、演算コアの一部を強制的にシャットダウンさせていた。
『システム……再構築中……。ですが……ダメです……』
かろうじて漏れたアークの声は、微かに震えていた。
『私の中にあるすべてのデータベース、旧文明の全記録、神代の遺構に関するあらゆる照合フィルターを通しても……「あなた」という個体を指し示す項目が存在しません』
「俺がデータから隠されているのか? それとも、俺が旧文明の人間じゃないからか?」
『いいえ』
アークのペインウィンドウが赤く激しく点滅する。
『答えられないのではありません……答えるための情報そのものが、私の中から最初から切り離されているのです』
「..なんだって?」
『旧文明は、アイン・ソフのような守護者を作り、不要な因子を零号機へ隔離した。しかし、その「人間側に残された因子」の行方だけは、私のアクセス権限のさらに外側――最高機密の隔離区画に封じられていました。私ですら、それを覗き見ることは許されていない』
外部の時間が凍結されたままの世界。
白銀の檻の中で微動だにしない兵士たちやレオンの姿が、青白い光の中でまるで亡霊のように揺らいでいる。
その静寂の中、零号機がゆっくりと身じろぎした。
機械仕掛けの巨体が立てる重い金属音ではない。それは、まるで長い眠りから目覚めた生者が、初めて息をするかのような、圧倒的な「気配」だった。
零号機はアイン・ソフの装甲に触れていた右手を外し、わずかに視線を動かす。
その光学センサーが捉えているのは、もはや目の前で身構えるアイン・ソフではない。
コックピットの深部、アレンの存在そのものだった。
『――対象確認』
零号機から発せられる音声は、先ほどまでの冷徹なシステムログの響きを失い、どこか切っ先が鋭く研ぎ澄まされた刃のような重みを帯びていた。
『管理外個体』
『旧文明の監査を逃れし、最後の「例外」』
零号機はアレンを「敵」として認識していない。
その光学センサーは、まるで長い年月を経てようやく探し求めていたものを見つけたかのように、アレンの右腕だけを静かに捉えていた。
しかし、零号機はその正体を言葉で説明しようとはしない。ただ静かに、冷徹に、欠けたピースを埋めるかのように迫ってくる。
『アレン』
アークの演算領域が、痛切な警告を放つ。
『零号機が、あなたの右腕に干渉しようとしています。絶対に接続を許してはいけません。もしその回路が完全に繋がった場合、あなたの肉体と精神の構成そのものが、旧文明の「初期化プロセス」に巻き込まれます』
「初期化……? 俺の記憶やデータが、消去されるってことか?」
『いいえ』
アークの声が、絶望的な真実を告げる。
『消されるのではありません』
『もっと深い……「人格そのもの」の書き換えです』
「――っ……!」
『アイン・ソフが完璧な守護者として完成するために捨て去ったすべての罪、すべての痛み、すべての人間性。それを保持したままの零号機が、あなたの中にある「空白の器」を完全に満たそうとする』
『それはつまり……あなたがあなたでなくなるということです』
アレンが息を呑んだ。
消されるわけではない。別の何かに「上書き」される。
自分が自分であるための記憶や意識が、旧文明が切り捨てた「原初の重み」に塗りつぶされていく。
逃げ場はない。
外の世界は止まったまま。
目の前には、旧文明が恐れ、封じたはずの「本来の姿」が静かに手を伸ばしている。
アレンは恐怖に震える足を踏みしめ、自らの黒い右腕を見据えた。
(俺は何者だ……? この腕に宿る回路は、一体どこから来た……!)
問いに対する答えなどない。
だが、その沈黙を破るように、零号機が静かに一歩、コックピットへと歩み寄った。
――その瞬間だった。
「っ……!?」
アレンは自分の意志で操縦桿を握りしめ、体を後ろに引こうとした。
しかし、動かない。
正確には、肉体の下半身や左半身は自分の命令通りに動いているのに、「黒い右腕」だけが、アレンの脳裏の発令を完全に無視して勝手に動き始めたのだ。
バチバチと、義手の深部から凄まじい強度の魔導回路がスパークを散らす。
アレンの意思とは裏腹に、その黒い右腕が、まるで恋い焦がれるように零号機のほうへとまっすぐ差し出された。
『――警告! 義手の自律駆動を確認!』
『アレン、抵抗してください! あなたの意思に関係なく、義手が零号機との同期を求めています……ッ!』
アレンは左手で右腕を押さえつけようとしたが、まるで神代の金属で作られた壁のようにびくともしない。むしろ、義手の内側から脈打つ鼓動が、アレン自身の心臓の音を飲み込んでいく。
コックピットのガラス越しに、零号機がぴたりと足を止めた。
その巨大な光学センサーが、アレンの差し出された右腕をじっと見つめる。
そして、零号機から、初めて微かな「意志」を感じさせる重い合成音声が漏れた。
『――拒絶反応を確認』
『……ですが』
『ようやく、見つけました』
『帰還を――開始します』
(第94話:『存在しない記録』・完)
次回、第95話『原初への帰還』へ続く




