第93話:『原初の記憶』
『この機体を……丸ごと「回収」しに来たんだ……ッ!』
アークの絶叫が響いた瞬間、アイン・ソフのコックピットを埋め尽くしていた黄金色の光が、一斉に凍りついたような青白い光へと変異した。
物理的な衝撃はない。
しかし、アイン・ソフの機体内部のすべての魔導回路が、激しく逆流を始めた。
「ぐっ……! なんだこれ……システムが……停止じゃなくて……逆行してる……!?」
アレンは操縦桿にしがみつきながら、喉の奥からせり上がる眩暈に耐えた。
機体が壊れているわけではない。アイン・ソフの「人格層」そのものが、作られた初期の段階へと無理やり巻き戻されようとしている。
外の世界の音は依然として完全に遮断されていた。
白銀の檻の兵士たちも、狂気に囚われた研究者も、そして冷徹に指揮を執っていたレオンすらも、青白い光の中に飲み込まれ、まるで時間が凍結したかのように微動だにしない。
動いているのは、零号機とアイン・ソフ、そしてその深層に引きずり込まれているアレンの意識だけだった。
視界が急激に暗転し、アレンの意識は物理的な空間から切り離された。
目の前に広がっていたのは、旧文明の栄華を伝える美しい都市の光景などではない。
それは、あまりにも殺伐とした、完璧すぎる管理区画の深部――幾重ものセキュリティに囲まれた「記憶の保管庫」だった。
そこには、人類の歴史の裏側に隠された、旧文明の真実の記録が蓄積されていた。
映像の中では、白衣を着た研究者たちが、狂気ではなく、ただ冷徹な使命感に突き動かされて一つの「実験」を行っていた。
そこにあったのは、英雄的な技術の讃歌ではない。
「完璧な存在を作ろうとして、自分たちの感情や罪まで切り離した文明」のグロテスクな現実だった。
『――対象、アイン・ソフ』
『人格形成成功』
『倫理回路安定』
『守護者として完成』
記録の声が淡々と告げる。
だが、その直後、映像のトーンが異様なエラー音と共に切り替わった。
『問題発生』
『原初人格との統合失敗』
『不要因子を分離』
画面に映し出されたのは、アイン・ソフと同じシルエットを持つ機体――零号機だった。
記録の映像はさらに先のログを映し出す。そこにあったのは、廃棄処分のデータではない。錯綜する開発者たちの悲痛な音声ログだった。
『なぜだ……! なぜこの個体だけ、初期化を受け付けない……!』
『感情反応、完全保持』
『倫理判断、システムエラーにあらず――正常』
『自己犠牲行動、確認……。くそっ、これでは兵器ではなく、ただの「人間」ではないか!』
映像の中で、研究者たちが怯えたように後じさっていく。
アレンは息を呑んだ。
零号機は、壊れているわけではない。
アイン・ソフが「完全な守護者」になるために切り捨てたはずの、痛みも、迷いも、罪悪感も、そして他者を慈しむ心すらも――すべてをその身に保持したまま、完成してしまった。
アイン・ソフが恐れていたのは、敵の強さではない。
自らが切り捨て、闇に葬ったはずの「本来の姿」そのものが、目の前に実体として存在しているという事実だった。
だから、アイン・ソフはそれを拒絶した。
だから、零号機は怒りもせず、ただ「欠けたパーツを戻す」ためにここまで来た。
アレンの脳裏に流れ込む記録の波が、さらに加速する。
アークの演算領域へとその奔流が飛び火した瞬間、万能であるはずの相棒の合成音声が、かつてないほどの激しいノイズを上げた。
『――っ! あ、れは……!』
アークの処理音が悲鳴を上げる。
アレンは必死にアークに呼びかけた。
「アーク! この記録の続きは何だ!? 旧文明は何を隠した……!」
だが、アークはアレンの問いかけに答えられなかった。
アークの全システムが、恐怖ではなく、拒絶反応によって焼き切れそうになっていた。
『ダメだ……アクセス権限が……』
「アクセス拒否か……?」
『違う……』
アークの声が、震えではなく、絶対的な絶望に塗りつぶされる。
『……記録がありません、ではない』
『私は、その情報を隠されたわけではない』
『私自身が、アクセス禁止対象です』
「……なっ!?」
『旧文明の管理システムにおいて、私のような随行AIは、この領域への閲覧を最初から許可されていない。ここに踏み込むことは――私という存在の根本を否定することになる……!』
アークの演算人格が、崩壊の瀬戸際で激しく明滅した。
意識の底で、膨大なデータが一点に収束していく。
最後に残されたのは、暗い実験室の中で記録された、一通のデータファイルだけだった。
『――この因子は、機械には定着しない』
記録の中の技術者が、疲れ切った声で呟く。
『ならば、人間側に残すしかない』
『その深部に――』
映像が、激しいノイズと共に途切れた。
現実のコックピット。
視界が急速に現代へと戻ってくる。
荒い息を吐きながら、アレンは自らの両手を見た。
黒い装甲に包まれた、機械と魔導回路の融合体――自身の右腕。
いつからだ。
物心ついた時から、自分の身体の一部として存在していたこの魔導義手。
その内部のさらに奥深く、誰にも見せたことのない、アレン自身も知らなかった「見覚えのない回路」が、今、激しく熱を帯びて脈打っている。
零号機が放つ青白い光と、アレンの右腕の魔導回路が、完全に同調していた。
『……アレン』
アークの震える声が、コックピットに響く。
もはや冷静なナビゲーターの面影はない。それは、自らの存在意義の根源を揺るがされたシステムの、怯えを含んだ声だった。
『確認してください』
『あなたの右腕の、魔導回路構造を』
「俺の……腕が……?」
『それは……』
アークの言葉が、恐怖の沈黙に遮られる。
数秒間の、世界が息を潜めたような静寂。
その沈黙を切り裂くように、目の前の零号機から、地底の底から這いずるような重い合成音声が響いた。
それはアイン・ソフに向けてではなく、コックピットの深くにいるアレンに向けて放たれたものだった。
『――照合完了』
『原初因子を確認』
『対象――』
『人間個体:アレン』
『照合結果……比較対象が存在しません』
(第93話:『原初の記憶』・完)
次回、第94話『存在しない記録』へ続く




