第92話:『接触』
零号機の手が、アイン・ソフの装甲へとゆっくりと触れた。
直後、世界からあらゆる音が消え去った。
周囲の兵士たちの怒号も、狂喜に満ちていたはずの研究者の声も、吹き抜ける風の音も、コックピットを埋め尽くしていたアークの処理音すらも――すべてが嘘のように途絶える。
あたかも現実の空間から、その一帯だけが切り離されたかのような、絶対的な無音。
外の戦場では、すべての魔導計測器が針を振り切ったのち、一斉に機能を停止した。
白銀の檻の兵士たちは、武器を構えることすら忘れている。誰一人として「撃て」と命じることができない。ただ、目の前で起きている異常の不可避な気配に気圧され、じりじりと後じさることしかできなかった。
レオンが第91話で告げた「あれは戦う対象ですら、ない」という予言が、冷酷な現実としてその場を支配していた。
アレンは息を呑むことも忘れ、目の前の光景を見据えていた。
物理的な衝撃はない。爆風も、魔導波長の衝突もない。
ただ、零号機の指先が触れたアイン・ソフの装甲から、不気味なほど冷たい青白い光が波紋のように広がっていくだけだった。
――違う。
これは戦闘ではない。
「アーク……っ、今、何が……っ!?」
アレンの問いかけに、アークの合成音声は即座に応答できなかった。
代わりに、アークの全処理領域が強制的に「外部からの侵入」に呑み込まれていく。
遮断する間もない。
アレンの脳裏に、自らの意志とは無関係に、断片的な「古の記憶」の残滓が暴力的に流れ込んできた。
視界が暗転し、強制的に見せつけられたのは、幾重もの巨大な地下施設だった。
そこには、無数の「廃棄された機体」の残骸が転がっている。
旧文明の技術の粋を集めて作られたはずの試作群。だが、そのすべてに共通していたのは、決定的な「何か」が削ぎ落とされているという異常性だった。
そして、その中央に鎮座していた機体の名が、アレンの脳裏に直接響いた。
『試験体:零号機』
『状態:――』
『判定:――(データ破損/アクセス拒否)』
映像の中の記録は急速に乱れ、文字の代わりに、旧文明の警告を示す赤色のコードと共に、いくつかの単語が脳裏を掠めていく。
『――人格形成プロトコル』
『――切断』
『――分離』
『――封印』
それらの意味を理解する間もなく、映像は激しいノイズにかき消されていく。
『……記録がありません』
脳裏に響いたアークの声は、恐怖と混乱に完全に引きつれていた。
万能の演算システムであるはずのそれが、初めて「処理の限界」を超えて震えている。
『いや……違う』
『存在したはずの情報が……存在しない』
『これは消去ではない……』
『最初から、存在してはいけなかったものとして処理されている……!』
「何を言ってるんだ、アーク……!」
アレンが息を呑んだその瞬間、零号機が初めて動いた。
アイン・ソフの装甲に触れていたその手が、わずかに押し込まれる。
ガキィッ、と機体全体の装甲が悲鳴を上げ、アイン・ソフの内部システムが激しく明滅した。
その激しい明滅と同時に、アレンの右腕――魔導義手に異変が起きていた。
――熱い。
だが、それはただの痛みではない。
電流が走るような焼ける感覚の奥で、義手の内部に組み込まれた古い回路が、まるで長い眠りから目覚めるかのように微かに脈打っていた。
知っている。
この震えを、この冷たさを、アレン自身の意志とは無関係に、彼の右腕が――理由も分からないまま、目の前の存在に応えるように微かな共鳴を返している。
冷や汗がアレンの背筋を伝った。
そんなアレンの混乱を他所に、周囲の空気がさらに凍りつく。
研究者だけは別の意味で凍りついていた。手元の端末を見つめ、青ざめた顔で頭を振る。
「……違う……違うぞ……」
側近の兵士が怯えた声で問う。
「何が違う、研究主任……ッ!」
「我々は……発掘したんじゃない……」
研究者の瞳に浮かんでいたのは狂気ではなく、人類の歴史の底知れぬタブーに触れてしまった者の、底無しの絶望だった。
「……眠らせて、いたんだ……あんなものを、この地に封じ込めていただけだったんだ……ッ!」
そして――
今まで完全な沈黙を保っていた零号機の内部から、地底の底から這いずるような、重く澱んだ合成音声が響いた。
それはアレンに向けてではない。
目の前に佇む、アイン・ソフの機体そのものに向けて放たれたものだった。
そこには憎しみも、怒りも、悪意すらなかった。
ただ、欠けたパーツを元の場所に戻すかのような、あまりにも機械的な温度差だけがあった。
『――確認完了』
『欠落を確認』
『帰還対象を認識』
アークの処理音が、けたたましくエラーを吐き出す。
『帰還……?』
『そのコードは……存在してはいけない……!』
『なぜ、お前がそれを……』
アークの混乱を無視して、零号機は冷徹に宣告を完遂する。
『帰還処理を実行します』
冷徹で、一切の感情を持たない宣告。
それを聞いた瞬間、アークのシステムが完全に振り切れ、限界を超えた警告音を鳴り響かせた。
『……っ、違う……!』
アークの音声が、かつてないほどの恐怖を帯びて裏返る。
『あれは、迎えに来たんじゃない……!』
『アイン・ソフを……!』
『この機体を……丸ごと「回収」しに来たんだ……ッ!』
(第92話:『接触』・完)
次回、第93話『原初の記憶』へ続く




