第78話:『来訪者と代償』
工房の扉の前。
アレンは作業台から引き抜いたあの螺子を、無意識に左手の掌で強く握りしめていた。冷たい金属の感触が、皮膚を伝って心臓の鼓動を早める。
「……入るつもりなら、勝手に入れ」
アレンは声を落とし、静かに低く告げた。
「だが、一つだけ言っておく。俺の工房で、勝手な真似は許さねぇ」
しばらくの沈黙。ランタンの灯りが、窓の外から吹き込む夜風にわずかに揺れる。
そして──。
カチャ。
鍵が回る音ではない。扉の内部で、微細な金属音が幾重にも響いた。
──錠の構造を理解し、内部の噛み合わせだけを変えた音だった。
職人なら工具を使う。
魔術師なら魔力で壊す。
だが、この男は違った。ただ「理解」しただけだった。
まるで、最初からこのちっぽけな鍵など何の意味も持っていなかったと言わんばかりに、重い木扉がゆっくりと押し開けられる。
入ってきた男は、夜の闇を溶かしたような黒い外套を纏っていた。
年齢は30代前半ほど。派手な装飾や武器の類は見当たらない。
だが、その歩き方だけでアレンには一目で分かった。
この男は職人ではない。
工具を握る者特有の油と鉄の匂いがない。
だが、現場を知らない人間の歩き方でもなかった。多くの技術者を見て、評価し、時には切り捨ててきた人間の歩き方だった。
男がフードを深く被ったまま、ゆっくりと顔を上げる。
その鼻梁に掛かった銀縁の眼鏡が、ランタンの光を鋭く反射した。
外套の襟元。そのわずかに隙間に、消えかけた刺繍が縫い付けられているのが見えた。
交差する二本の鍵と歯車。
──第七工廠の紋章。
その一瞬、アレンの背後に立っていたエレノアの息が、わずかに詰まった。彼女の瞳が恐怖ではなく、深い驚愕に揺れる。
「……そんな……」
エレノアが掠れた声を零す。
「まだ、残っていたのですか……」
男は視線をアレンから外し、その背後にいるエレノアへと静かに向けた。感情の読めない瞳が、彼女の姿を値踏みするように見つめる。
「……君は」
男の口元が、わずかに動いた。
「王都魔導学術院、エレノア・ヴァレンシュタイン」
「っ……!」
「記録に残っていた名前だ。王都魔導学術院で、禁忌研究への異議を唱え続けた学生。その後、研究資料の一部と共に姿を消した人物」
男の言葉に、エレノアは歯をくいしばった。調べられて見つけられたのではない。彼女の存在は、初めからこの男たちの「管理記録」の中に刻まれていたのだ。
「……違う」
エレノアが小さく首を振った。その瞳に、隠しきれない怒りと警戒の色が宿る。
「第七工廠は、消えたんじゃない……消されたんです」
エヴァンは彼女の言葉を否定も肯定もせず、ただ冷ややかに目を細めた。
アレンはエレノアを一歩後ろへ庇い、目の前の男を睨み据えた。
「名前を名乗る気はねぇか?」
「エヴァンだ。……エヴァン・クロウ」
男──エヴァンは淡々と名乗り、冷徹な視線をアレンの左手、そして作業台の上に置かれたままの螺子へと移した。
エヴァンはそのまま足音を殺し、壁際に並ぶ工具や作業台へと視線を巡らせた。
「……整備用の配置か」
「何だ?」
「左手用の工具が多い。君は、左腕を失った技術者だな」
アレンの目がわずかに細くなる。
「……そこまで分かるのか」
「分かる」
エヴァンは工具には一切触れない。だが、その並びと摩耗の具合だけで、すべてを理解している目だった。
「君は魔導義手を兵器として扱っていない」
「なら何だ?」
「……身体の延長として扱っている」
一瞬の沈黙が、工房の空気を重くする。
「だから危険なんだ」
「ふざけたことを……。アレンと言ったか。君は自分が何をしたのか、本当に理解していない」
エヴァンの声には、怒りも焦りもない。あるのは、絶対的な事実を告げるような乾いた響きだけだった。
「その義手は、人を救うためだけに作られたものではない。あれは、肉体の限界を超え、人間を一切の故障なく稼働する『兵器』にするための技術だ。かつて第七工廠が国家の命運を賭けて生み出し、そしてあまりに危険ゆえに自ら封印し、抹消した禁忌の機巧だ」
エヴァンの言葉に、工房の空気が凍りつく。
しばらく、誰も口を開かなかった。
エレノアですら、反論する言葉を探していた。
だが──
アレンだけは違った。
「……違うな」
エヴァンの眉が、ほんのわずかに動いた。
「何が違う?」
「俺が見たのは、兵器じゃねぇ」
アレンの低い声が、静まり返った工房に響く。
「泣きながら、それでも父親に作ってもらった小さな手を必死に握ろうとしていた……一人の女の子の腕だ」
その言葉を聞いた瞬間、エヴァンの眼鏡の奥の瞳が、わずかに揺らいだ。
冷徹な管理者の仮面の下に、一瞬だけ、過去の何かに触れられたような痛切な沈黙が落ちる。
「……君は」
エヴァンは息を潜め、信じられないものを見るような目でアレンを見た。
「本当に、何も知らずにそれに触れ、それを蘇らせたのか」
「知る必要がどこにある。目の前で壊れた手があったから、直した。それだけだ」
アレンの答えに、エヴァンは小さく息を吐いた。それは呆れか、あるいは──途方もないものを見るような諦念か。
エヴァンは再び作業台の上の螺子に目を落とし、その微小な切削痕に気づいたように息を呑んだ。
「この加工……」
「……まさか」
エヴァンの口から、微かに一つの名前が漏れる。
「クロム・ヴァルガス」
その名前を聞いた瞬間、アレンの表情が険しく変わった。
「師匠を知っているのか?」
「知っている、ではない」
エヴァンは冷徹な眼差しを再びアレンに向け、静かに告げた。
「あの男は、第七工廠が最後に恐れた技術者だ。……そして、我々が最後まで理解できなかった男でもある」
工房の温度が、一段と下がったような気がした。
「第七工廠の技術は、設計図やパーツだけでは完成しない」
エヴァンはアレンの目の前でピタリと足を止め、その冷たい目を真っ直ぐに突き刺した。
「必要なのは、適合する人間だ」
「……何だ、それは」
「魔導義手は誰でも扱えるものではない。神経も、魔力も、精神も……すべてが耐えられなければ、ただの死の道具になる」
エヴァンの視線が、ゆっくりとアレンの左腕へ落ちる。
「……やめろ」
アレンが低く呟く。
「その腕を見れば分かる」
エヴァンの声が、冷たく響く。
「お前は……第七工廠が最後まで求め続けた条件を満たしている」
「機械を装着するのではない。己の肉体として受け入れる条件を」
心臓が跳ねるような静寂の中、エヴァンは決定的な事実を言い放つ。
「ならば教えよう。その腕を蘇らせた代償を」
「……あ?」
「お前は義手を蘇らせたんじゃない。……眠っていた第七工廠そのものを、もう一度この世界に呼び起こしたんだ」
そして──。
「最初に目覚めたのは、技術じゃない」
「技術を欲しがる者たちだ」
エヴァンの冷たい宣告が、工房の闇に深く沈み込んでいった。
(第78話:『来訪者と代償』・完)
次回「第79話:『鋼鉄の罪』」へ続く




