第77話:『影の足音』
ルチアが去った後の工房には、朝の静けさが戻っていた。
作業台の上。アレンは虫眼鏡を片手に、あの小さな螺子をじっと見つめていた。
朝の蒼い光を受けて、螺子は鏡のように滑らかな光沢を放っている。
「……アレン、何か分かりましたか?」
エレノアが淹れたての温かいお茶を差し出しながら、傍らに立った。
「ああ。単に腕のいい職人が削ったってレベルじゃねぇ。根元のこの部分……肉眼じゃ潰れて見えるほどの微小な刻印がある」
アレンから虫眼鏡を受け取り、エレノアが覗き込む。
歪みひとつない螺子の首元。そこには、交差する二本の鍵と歯車をあしらった、極小の紋様が刻まれていた。
それを見た瞬間、エレノアの息がわずかに止まった。
「……この刻印、見覚えがあります」
「知っているのか?」
アレンが顔を上げると、エレノアは珍しく困惑と警戒の混ざった表情で眉を潜めていた。
「昔……父の書斎にあった資料で見かけたことがあります。『王国魔導技術局・第七工廠』……かつて王都の最奥に存在し、数年前に突如として封鎖・抹消された組織です」
「抹消……?」
「ええ。通常の軍事技術の枠を超えた、禁忌とされる機巧や魔導義手を研究していた場所だと聞いています。……なぜ、そのような場所で作られたパーツが、ルチアの父親の義手に……」
アレンの左手が、無意識に固く握りしめられた。
あの不器用で、娘のために必死に針を動かしていた父親。
そんな男が、自分の意思でここまで辿り着くはずがない。
ならば……誰かが、この義手に関わったのだ。少女の父親を巻き込んでまで、何者かは一体何から逃れ、何を義手の奥底へ残したのか──。
昼過ぎ。アレンとエレノアは、不足した汎用パーツとオイルの調達を兼ねて、中央市場へと足を運んでいた。
行き交う人々、威勢の良い行商人の声。一見すると、いつもの平和な街の風景だ。
「おう、アレン! 今日も怪我の治療か?」
馴染みの露店店主が声をかけてくる。アレンが短く挨拶を交わしながら、目的の真鍮線を手に取った時、店主が声を潜めて言った。
「そういえばよ……最近、この辺りを妙な奴らが嗅ぎ回っててな」
「妙な奴?」
「ああ。黒いフードを目深にかぶった連中だよ。『腕の立つ鍛冶屋を知らないか』とか『腕に奇妙な義手をつけた少女を見かけなかったか』って、金払いのいい顔で聞いて回りやがる。不気味だから誰もまともに答えてねぇが……」
アレンの背筋を、冷たいものが駆け抜けた。
黒いフード。そして、ルチアを探す動き。
アレンが思わず周囲の群衆へ視線を走らせた、その時。
「……アレン」
横に立つエレノアが、アレンの袖をそっと引いた。
その視線はアレンとは違う方向──三つ先の狭い裏路地の隙間に向けられている。
「何だ?」
「今、あの路地の影から、こちらを観察していた人間がいました」
「いた?」
「ええ。ですが……私が視線を合わせた瞬間に、気配ごと消えました。ただの街の人間ではありません」
アレンには何も見えなかった。だが、エレノアの肌が捉えた違和感は確実だった。
影はすでに、すぐ近くまで迫っている。
日が落ち、街が暗闇に包まれた頃。
二人は買い出しを終え、工房へと戻ってきた。
「ルチアの奴……無事に街を出られていればいいが」
アレンが低く呟きながら、工房の木扉に手をかけた瞬間──手が止まった。
「……アレン?」
「……鍵が、一回分余計に回されている」
アレンの目が険しく光る。
毎朝・毎晩、自分が決まった回数だけ回す施錠の感触。それが、ほんのわずかにズレていた。
アレンはエレノアを背後に庇いながら、静かに扉を押して中へ入る。
室内は荒らされた形跡はない。だが──。
作業台の上。整頓しておいたはずの工具の配置が、ミリ単位で動いている。
さらに、窓枠の木目。そこには、擦りつけられたような黒い上質な布の繊維が、一筋だけ残されていた。
「留守の間に……入られたか」
アレンたちが外に出ている隙を突かれ、内部を物色されたのだ。
目的は明白だった。ルチアが持ち込んだ義手、あるいは──今、アレンのポケットの中にあるあの精密な螺子。
「アレン、ルチアさんを探している以上、いずれここまで辿り着くでしょう」
「ああ。だが……まずはこの工房だ」
アレンは作業台の引き出しから、あらかじめ取り出しておいた「あの螺子」を再び掌の上に置いた。
夜が深まり、工房の中にランタンの灯りだけが揺れていた。
アレンは作業台に座り、掌の中の螺子をじっと見つめている。
エレノアが突然、静かに立ち上がり、入口の扉へと振り返った。
「……アレン」
「どうした?」
「誰か、来ます」
工房の中が、静寂に包まれる。
──……コツ。
──……コツ。
夜の冷たい空気をつんざくように、外の石畳を踏みしめる乾いた足音が響いた。
ゆっくりと。
迷いなく。
足音は工房の扉のすぐ目の前で、ピタリと止まった。
静けさが支配する。ノックの音はない。
だが、薄い木扉一枚を隔てた向こう側に、こちらの存在をすでに把握しているような気配が立っている。
やがて──低い、抑調のない声が扉の向こうから落ちてきた。
「……その義手を蘇らせた職人に会いたい」
アレンの左手が、無意識に掌の螺子を力強く握りしめた。
「……誰だ」
短い沈黙。
「それを知る必要はない」
扉の向こうの声は、まるで感情を持ち合わせていないかのように淡々と、そして重く響いた。
「ただ──」
「それは、本来ここにあるものではない」
わずかな静寂。
扉の向こうの影は、まるで失われた記録を確認するように、静かに呟いた。
「……失われた技術を扱える者が、まだこの街に残っていたとはな」
(第77話:『影の足音』・完)
(次回「第78話:『来訪者と代償』」へ続く)




