第71話:『左手の職人』
──ガリッ。
乾いた不快な音が、朝の静かな工房に響き渡る。
アレンの左手から、細身のドライバーの先端が滑った。真鍮パーツの小さなネジ頭が浅く削れ、銀色の削りかすが作業台の上にハラハラと落ちる。
「……くそが」
アレンは低く毒づき、額の汗を作業着の袖で乱暴に拭った。
左手だけの訓練を始めて、今日で三日目。
アレンは朝から晩まで、ひたすら左手だけで工具を握り、ネジを締める訓練を繰り返していた。
だが、現実は甘くない。
長年右手に頼りきっていた左手には、精密な作業を支える微細な神経も、繊細な力加減の感覚も育っていなかった。
掌の皮膚はすでに摩擦で赤く腫れ上がり、マメが潰れて痛む。
頭の中では、完成品はすでに出来上がっている。金属が噛み合う音まで鮮明に聞こえているというのに、その通りに動いてくれない左手が、何よりも歯痒かった。
思い通りに動かない己の不甲斐なさに、胸の奥で黒い鬱屈がマグマのように渦巻いていた。
──ガリッ。
また滑った。今度は指先を軽くかすめ、赤黒い血が滲む。
「……あーあ。また手傷だらけにして」
呆れたような、けれど温かい声が頭上から降ってきた。
いつの間にか工房に降りてきていたエレノアが、救急箱と湯気の立つハーブティーをトレイに乗せて立っていた。
「……入ってくるならノックしろ」
「ノックは三回したよ。アレンが没頭しすぎて気づかなかっただけ」
エレノアは作業台の端にトレイを置くと、アレンの左手をそっと引き寄せた。
赤く腫れ、傷ついた大きな手。エレノアは消毒薬を含ませた布で、傷口を優しく拭っていく。
「痛む?」
「……痛くねぇよ。動かねぇ右手より、痛む分だけマシだ」
アレンはぶっきらぼうに答えながら、作業台の上に散らばったネジとドライバーを見つめた。
「……全然ダメだ。右手なら三秒で終わる作業に、一時間かけても終わらねぇ。トルクの支点も、指の添え方も……右手の感覚をそのまま左手に持っていこうとしてるのが分かってはいるんだが、身体が覚えねぇんだ」
エレノアは消毒を終えると、清潔な包帯をアレンの左手に丁寧に巻きつけながら、ふと作業台の工具類に視線を落とした。
「……ねぇ、アレン」
「あ?」
「アレンはさ、街の人たちの義手や義足を作るとき、いつも何て言ってた?」
アレンは怪訝そうに眉をひそめた。
「……『人間の骨格も癖も一人ひとり違う。だから体に合わせて道具を作らなきゃ意味がねぇ』……だが、それがどうした」
「そのドライバーは、昔のアレンには合ってた」
エレノアはアレンの使い古された精密ドライバーを指差し、静かにアレンの目を見つめた。
「でも今のアレンには、もう合わなくなっちゃったんじゃない?」
「────。」
雷に打たれたような衝撃が、アレンの頭を突き抜けた。
(……そうだ。俺は何を血迷ってたんだ)
自分は職人だ。
合わない体に無理やり道具を合わせさせるのではない。「今の体(左手)」に最も適した道具を、一から作ることこそが自分の仕事ではないか。
「……エレノア」
「なに?」
「……サンキュ」
アレンは包帯が巻かれた左手で、作業台の奥から金属用のゴツゴツとしたヤスリを引き寄せた。
それからの数時間、アレンは作業台に没頭した。
左手でしっかり握り込めるように、ドライバーの木製の柄を削り直す。
右手に比べて筋力が足りない左手でもトルクが伝わりやすいよう、柄の太さを僅かに増し、重心の位置を数ミリ手前にずらした。
削り、握り、確かめ、また削る。
夕暮れの橙色の光が工房に差し込む頃──アレンの左手の中には、不格好だが彼の左手の掌に吸い付くように馴染む、一本の「変形ドライバー」が完成していた。
アレンは息を整え、新しいドライバーを左手で握り直した。
傷ついた指先。ぎこちないフォーム。
だが、今度は柄がしっかりと左手の掌に噛み合っている。
作業台の真鍮パーツに、小さなネジを載せる。
ドライバーの先端をあてがい、ゆっくりと、左手の掌全体でトルクをかけて回した。
回転。
コンマ数ミリの滑らかな感触。
──カチッ。
小さく、だがどこまでも明瞭な金属音が響いた。
ネジは斜めになることも、頭を潰すこともなく、パーツの穴へ吸い込まれるように完璧に噛み合わさった。
「……っ!」
アレンの胸が高鳴った。
すささっと二本目のネジを引き寄せ、同じようにドライバーをあてがう。
──ガリッ。
「……くそっ」
二本目は滑った。
調子に乗って力を入れすぎた。三本目も、角度がズレてネジが弾け飛んだ。
完璧にできたのは、まだ奇跡のような「一本」だけ。
左手習得への道のりは、気が遠くなるほど長く、果てしない。
それでも。
作業台の上で輝く、たった一本の完璧に締まった真鍮のネジを見つめながら、アレンは汗を拭った。
「……まだ一本。」
アレンは真鍮のネジを、左手の指先でそっとなぞった。
「それでも……俺は、また職人になれる。」
暗闇の中で、確かに足元の一歩を踏み出した手応えがあった。
──同じ頃。
工房から少し離れた街の目抜き通り。
夕暮れの雑踏の中、長旅の外套を羽織った男が、小さな大衆酒場の片隅で静かに黒パンをかじっていた。
男は周囲の客に気づかれないよう、袖口から手のひらサイズの小さな金属筒を取り出す。
筒の表面に刻まれた繊細な魔導回路に細いペン先を滑らせ、短く暗号文を打ち込んでいく。
『対象、左手への適応行動を開始。道具の再構築を確認』
送信の青い微光が消えると、男は素早く筒を懐へ収め、何事もなかったかのようにスープを啜った。
──数千レグ離れた、北の帝都。
蒸気と機械油の匂いが充満するハインリヒの研究室。
壁一面の数式の中央で、卓上の受信端末がかすかな電子音を立てて羊皮紙を吐き出した。
ハインリヒはペンを止め、印字された報告書を手に取った。
『対象、左手への適応行動を開始』
ハインリヒの瞳に、感情の揺らぎはない。
驚きも、期待もなく──ただ、提示された新たなデータを冷徹に処理する研究者の眼光だけがあった。
「順応開始を確認。」
ハインリヒは無機質な眼光を黒板に向け、淡々とペンを走らせた。
「……観測を継続する。どこまで進化するか。」
(第71話:『左手の職人』 ・ 完)
(次回「第72話:『職人の証』」へ続く)




