第70話:『再計算』
ルチアの手術から、一週間が過ぎていた。
朝の光が差し込む工房は、いつもの静けさに満ちていた。
煤けた木製の作業台、棚に整然と並べられた真鍮のパーツ、壁に掛けられた大小さまざまな工具。朝の冷えた空気を吸い込みながら、アレンは作業着の袖を捲り上げる。
左手で、使い古された工具箱のラッチを外す。
カチャリと乾いた金属音が響いた。
アレンは何気なく右手を伸ばし、一番使い慣れた細身の精密ドライバーを掴もうとした。
──……。
指が、届かない。
いや、届いている。金属の冷たい質感は確かに掌の皮膚に触れている。
だが、「握れ」という脳からの命令が、右腕のどこかでプツリと途切れて消える。
指先が微かに痙攣し──ドライバーは支えを失って作業台から滑り落ちた。
カラン……カラン……。
床の石畳を転がる、小さく、あまりにも静かな金属音。
アレンはその場に突っ立ったまま、だらりと垂れ下がった己の右手を見つめた。
(……ああ)
叫びも、涙も出なかった。
ただ、胸の奥底で、重く冷たい塊がゆっくりと沈んでいく感覚だけがあった。
(……本当に、壊れたんだな)
職人としての自分の命が、半分死んだのだということを、アレンは今初めて正しく理解した。
──だが。
アレンは歯を喰いしばり、左手で拾い上げたドライバーを握り直した。
(利き手じゃねぇ……だが、左手なら動く)
作業台の端にあった、試作中の義手関節の真鍮パーツを引き寄せる。小さなネジを一つ穴に合わせ、左手のドライバーの先を押し当てた。
──ガリッ。
滑った刃先が金属を削り、不快な高音を立てた。
指先の微妙なトルク管理が効かない。右手なら無意識に調整できていたコンマ数ミリの力加減が、不器用な左手ではまったく制御できなかった。
「くそっ……!」
もう一度。
ガリッ。
さらにもう一度。
パチン、と音を立てて小さなネジが弾け飛び、床の隙間へと消えた。
アレンの額にじんわりと冷や汗が滲む。掌が酷く汗ばんでいた。
左手の中のドライバーを強く握り締め、腕を大きく振り上げ──壁に向かって投げつけようとして、アレンの動きがぴたりと止まった。
息を乱しながら、アレンは振り上げた左手をゆっくりと下ろした。
工具を投げたら、本当におしまいだ。道具を粗末にした瞬間、自分は完全に「職人」ではなくなる。
アレンはドライバーを作業台へ静かに置くと、力なく椅子の背もたれに体を預けた。
「……アレン、朝ごはんできてるよ」
奥の居住スペースへ続くドアが開き、エレノアが顔を出した。
トレイの上には、湯気の立つスープと硬めのパン。
アレンは返事をせず、ただゆっくりと立ち上がってテーブルについた。
エレノアはアレンの向かいに座り、スープ皿をそっと差し出す。アレンが左手でスプーンを持ち、不器用に使っているのを、エレノアは静かに見つめていた。
「……右手、痛む?」
「……いや」
「嘘」
エレノアの声は静かだったが、断定していた。
アレンはスプーンを止め、気まずそうに視線を外す。
「痛まねぇよ。……痛みすらしねぇんだからな」
「……。」
「感覚がねぇんだ。熱いのか冷たいのかも分からねぇ。ただの冷たい肉の塊がぶら下がってるみたいだ」
アレンは自嘲気味に笑った。
エレノアは胸を締め付けられるような痛みを覚えながらも、溢れ出そうになる涙を必死に引っ込めた。可哀想に思うことも、優しく慰めることも、今の彼を傷つけると分かっていたからだ。
「……ルチアちゃん、今朝スケッチ帳に大きな街の絵を描いてたよ」
「……そうか」
「アレンが守ったんだよ。あの子の未来も、あの父親の笑顔も」
エレノアはまっすぐにアレンの目を見た。
「わたしは、アレンがしたことを後悔してほしくない」
「……後悔なんかしてねぇよ」
アレンは短く答え、残りのスープを左手で一気に飲み干した。
食後、静まり返った工房で、アレンはひとり作業台の椅子に腰かけていた。
動かない右手を左手で包み込み、壁にぽつんと飾られた親父──クロムの遺影と、彼が遺した古い道具たちを見上げる。
(……終わったよ、親父)
アレンは心の中で呟いた。
(俺の右腕……さっき試してみたが、精密な作業は二度とできねぇ。ネジ一本まともに締められねぇや)
沈黙する遺影。だが、アレンの脳裏には、昔パイプの煙をくゆらせながら自分を見下ろしていたクロムの、低い声が鮮明に蘇っていた。
『右腕が終わっただけだ』
(……え?)
『左腕は死んだのか。頭は。……じゃあ職人もまだ生きてる』
昔、アレンがまだ駆け出しの頃、右手を大きく怪我して自暴自棄になっていた時にクロムが言い放った言葉だ。
『右手が使えなきゃ左手を使え。手足が動かなきゃ頭を使え。……手先が器用なだけの奴を、俺は職人とは呼ばん』
幻聴のように響く親父の声。
クロムはかつて、元々は左利きだった自分の手を血の滲むような修行で右手に叩き直したのだと、生前にエレノアの父親から聞いたことがあった。
(そうだったな……。あんたはいつだって、泥を食んで這い上がってきた)
アレンは作業台の上のドライバーを、動かない右手ではなく──自分の「左手」でしっかりと握り直した。
左手の握りは、酷くぎこちない。
親指の位置も、人差し指の添え方や角度も、長年馴染んだ右手とは何もかもが違っていた。
それでも。
アレンがその不器用な掌で力を込めると──ドライバーは、今度は床へ落ちなかった。
「泣き言言ってる暇があったら、左手でメス握る練習でもしろ……か」
アレンはポツリと漏らすと、口元に小さな苦笑を浮かべた。
「相変わらずスパルタな親父さんだぜ」
その瞳から絶望の陰りは完全に消えていた。
今日から左手で、職人をやり直せばいい。職人・アレンの「再計算」が、ここから始まる。
──数千レグ離れた、北の帝都。
巨大な蒸気機関の重低音が響く高層研究塔の一室。
部屋の壁一面に描かれた、精密で膨大な「生命最適化理論」の数式群。
ハインリヒはその中央に立ち、机の上の青白い真鍮板と、壁の数式を交互に見つめていた。
ガシャン、と不吉な音を立てて、ハインリヒは壁に掛かっていた数か月分の計算羊皮紙を束ごと引き剥がし、床へと投げ捨てた。
「は、博士……!? 何をされるのですか!」
背後に控えていた若い助手が、顔を蒼白にして叫んだ。
「それは我々が数年かけて組み上げた、義体適合率百%の金字塔の理論です! それを捨ててしまっては……!」
「古くなった捨て紙に価値はない」
ハインリヒは冷徹な声で吐き捨てた。
「我々の『百パーセント』は破綻したのだ。0.27%の誤差を捨てて組み上げた最適解が、その0.27%の誤差によって完全に上書きされ、凌駕された」
「し、しかし……それは局所的な例外に過ぎません! たった一人の職人が起こした奇跡のような偏屈なデータを、全体に適用する必要など──」
「違う。」
ハインリヒは静かに振り返った。
その瞳には、冷酷な計算を超えた、未知への狂おしいほどの情熱が揺らめいていた。
「奇跡ではない。……これは『進化』だ」
ハインリヒは黒板に向かい、白粉の散る勢いで大きな文字を書き走らせた。
『 Human Variable(人間変数) 』
「効率と合理だけでは到達できない領域が存在する。人間が土壇場で吐き出す、計算不能の感情と意地……それ自体を因子として数式に組み込む」
ハインリヒは万年筆を握り直し、羊皮紙に新たな計算式を猛烈な速度で刻み始めた。
「彼が命を賭して証明してみせたなら、私はそれを概念として完全解明するまでだ。……人間という変数を組み込み、再計算を開始する」
淡々とペンを走らせながら、ハインリヒは狂気すら孕んだ静かな微笑を浮かべた。
「次は……君自身を観測しよう。アレン」
(第70話:『再計算』 ・ 完)
(次回「第71話:『左手の職人』」へ続く)




