第69話:『人たるの証明』
術式用のランプが照らし出す狭い施術室は、焦げ付いた血と強い魔力の臭いに満ちていた。
診察台のルチアの呼吸は、すでに浅い。右腕の暴走線は鎖骨の真下まで達し、心臓へと侵食を開始しようとしていた。
「アレン……」
扉の脇で、エレノアが息を呑んでアレンの背中を見つめている。
アレンの左手には真鍮板。右手には術式メス。
ハインリヒの提示した『最適解』──神経の完全上書きによる救命率百%、右腕温存率百%。だが、ルチアの人格保持率は九九・七三%。
(残り、零・二七%……)
ハインリヒにとって、それは計算上の「許容すべき誤差」だった。
効率と合理を極めた領域において、少女の思い出や癖、父親を愛する心の微細な欠片など、命と肉体を残すための安すぎる代償に過ぎない。
「……ふざけんな」
アレンは低く呟くと、左手の真鍮板を施術台の端へ乱暴に投げ置いた。
ガチャン、と重い金属音が響く。
「アレン……!? ハインリヒの技術を……使わないの……!?」
「使わねぇ。ハインリヒの言う通りにやれば、腕も命も助かるんだろうよ。……だが、それじゃ『ルチア』は死ぬ。俺たちが救うのは、命の入った肉体人形じゃねぇ」
アレンはメスを握り直し、真鍮板に刻まれた回折回路の一瞬の像を脳裏で反芻した。
ハインリヒの回路。その「神経伝達経路の組み換え構造」の着想だけを盗み、頭の中でクロムの教えと無理やり交差させる。
だが──メスをルチアの皮膚に当てようとしたその瞬間。
カチ、と微かにメスの刃先が鳴った。
アレンの右手が、激しく震えていた。
(……待て。本当に俺の手技で届くか……?)
(0.01ミリでも手元が狂えば、暴走魔力が脳へ逆流してこの子は即死する。ハインリヒなら確実に助けられる命を、俺の意地で殺すことになるんじゃないのか……?)
失敗の恐怖が、氷の刃となってアレンの首元に突きつけられる。
息が詰まり、視界の端がぐにゃりと歪む。たった数秒の静寂が、永遠のように施術室を支配した。
「アレン……」
エレノアが、すがりつくような悲痛な声でアレンの名を呼ぶ。
アレンは目をつむり、深く、長く呼吸を吐き出した。
(……親父なら)
(親父ならここで……逃げずに泥を食む)
目を開けたアレンの瞳から、迷いが消えていた。
震える右手の上に左手を重ね、メスを深く握り直す。
「エレノア! 術式抑止剤を俺の右腕の魔力線に直接打ち込め!」
「え……っ!? アレン、そんなことをしたらあなたの腕の魔力線が……!」
「早くしろ! 時間がねぇ!」
エレノアは唇を噛み締め、注射器をアレンの右腕に突き刺した。強烈な薬効がアレンの腕を襲い、激痛とともに肉体の限界を超えた精密な魔力制御を強制的に引き出す。
「ハインリヒ……お前の『百パーセント』なんぞに、俺は乗らない」
アレンはメスをルチアの右腕へと走らせた。
暴走した魔力線を一根ずつ手作業で切り離し、自分の魔力を直接打ち込んで「毒(暴走)」を自分の腕へと引き受ける、泥臭く過酷な手技。
──その頃、重い施術室の扉の向こう側で。
父親は廊下の冷たい床に膝をつき、雨に濡れて角が丸まった小さなスケッチ帳を両手で強く抱きしめていた。
(神様……クロム先生……アレン先生……頼む……!)
閉ざされた扉の隙間から、時折バチバチという不穏な魔力の火花と、激しい呻き声が漏れてくる。
父親はぎゅっと目を閉じ、スケッチ帳のページを脳裏でめくった。
そこには、下手くそで歪な鉛筆の線で描かれた、煙突の煙や、街で行き交う人々、そして──照れくさそうに笑う自分の顔が描かれていた。
『お父さん、見て! 今日は工房の煙突が上手に描けたよ!』
『大人になったらね、世界で一番大きな絵本を作ってお父さんにプレゼントするの!』
無邪気に笑う少女の顔が、思い出されるたびに胸を抉る。
(あの子の未来を……あの笑顔を……奪わないでくれ……っ!)
父親はスケッチ帳に顔を埋め、声を押し殺してただひたすら祈り続けた。
「ガぁっ……!?」
施術室内で、最悪の逆流が起きた。ルチアの脈動が弾け、アレンの指の感覚が丸ごと焼き飛ばされる。視界が一瞬真っ白になり、メスの刃先が僅かに逸れた。
(くそっ……持ってくれ、俺の腕……っ!!)
「アレン……っ!!」
傍らで魔力糸を補給していたエレノアが、悲鳴のような声を上げた。
アレンの作業着の袖が弾け飛び、その右腕の皮膚の下で、魔力線がブチブチと音を立てて千切れ破裂していくのが見えた。
(やめて……! もうやめてアレン……!)
エレノアは胸が張り裂けそうな激痛に襲われた。
アレンの右腕は、職人としての彼の命だ。それが今、少女の命の肩代わりとなってボロボロに崩れていく。止めなければ、アレンは二度と道具を握れなくなる。
だが──ここでアレンの手を止めれば、ルチアの命も、あの父親の祈りもすべて潰える。
(お願い……耐えて……! アレンの腕も、ルチアちゃんの未来も……誰も失わせないで……!!)
エレノアは血が滲むほど唇を噛み締め、溢れ出る涙を拭いもせず、激しく震える手でアレンに新しい術式針を差し出し続けた。
アレンは己の右腕の魔力線が千切れ飛ぶ激痛に耐え、血の涙を流しながら、止まりかけたメスを力任せではなく、限界の精密さで押し戻した。
──パンッ!
「よし……! 暴走線の切除、完了……!」
アレンが掠れた息を漏らした、その瞬間だった。
──バチッ……!
「……なに……っ!?」
ルチアの肘の奥深く、最深部の神経の影から、髪の毛よりも細い赤黒い暴走線が一本──まるで生き物のように跳ね上がり、心臓へ向かって急速に伸び始めた。
(嘘だろ……!? まだ潜んでやがったのか……!!)
絶望がアレンの脳裏を駆け抜ける。
アレンの右腕の感覚は、すでに9割以上が消失していた。指先は氷のように冷たく、もはやメスを支える力すら残っていない。
(動け……! 動いてくれ俺の指……!! ここで終わったら……何のために右腕を捨てた……!!)
アレンは動かない右手に左手を覆いかぶせ、己の全存在と全魔力を絞り出した。
職人としてのプライドも、将来も、右腕のすべてをこの一瞬に薪としてくべ尽くす。
「届いてくれぇぇぇぇっ────!!!」
──パツンッ。
最後の一本が、乾いた音を立てて切断された。
ルチアの右腕から、不吉な赤黒い光線が完全に消え去る。
暴走は収まった。腕は切断を免れ、命も繋ぎ止められた。
アレンの手からメスが落ち、乾いた音を立てて床を転がった。
アレンの右腕はだらりと垂れ下がり、完全に感覚を失っていた。しばらくは繊細な義手の製作など不可能なほどの、深刻で決定的な損傷だった。
「はぁ……はぁ……っ」
膝をつくアレン。
施術室の扉が開かれ、外で祈り続けていた父親が崩れ落ちるように飛び込んできた。
「先生……! ルチアは……ルチアは……!?」
アレンは何も言わず、ただ診察台の少女を顎でしゃくった。
診察台の上で、少女の長い睫毛がかすかに震えた。
ゆっくりと開かれた瞳には、先ほどまでの荒々しい狂気は微塵もなく、ただ幼く澄んだ光が宿っていた。
父親は涙で視界を濡らしながら、そっと少女の小さな手を両手で包み込んだ。
「ルチア……っ」
父親が、震える声でその名を呼ぶ。
少女はゆっくりと瞬きをし、少しだけ眩しそうに父親の顔を見上げ──、
「……お父さん?」
ごく自然に、首をかしげて微笑んだ。
「ああ……っ、ルチア……! ルチアぁぁっ……!」
父親は少女を強く、強く抱きしめて号泣した。
父親の激しい抱擁のはずみで、懐から零れ落ちたスケッチ帳が床に転がり、鉛筆がカランと音を立ててルチアの脇に止まった。
ルチアはその鉛筆を見つめ、包帯の巻かれた右手をゆっくりと伸ばした。
指先が小さな音を立てて鉛筆に触れる。だが、力が入らず、鉛筆は指の間からすべり落ちて床へ転がった。
「あ……」
「いいんだ、いいんだよルチア! もう無理をしなくていい……腕も、命も無事だったんだから……!」
父親が慌ててルチアの右手を包み込み、優しく制そうとする。
だが、ルチアは首を静かに横に振った。
「わたし……描きたいの」
ルチアは唇を噛み締め、もう一度、震える右手でゆっくりと鉛筆を拾い上げた。
指先を白くさせながら鉛筆を強く握り直すと、床のスケッチ帳の白紙のページへと、全身の力を込めてその先を押し当てる。
キィ、と小さな音が響いた。
歪で、少し震えているけれど──確かで力強い「一本の線」が、紙の上に残された。
「描けた……っ。お父さん、わたし……描けるよ……!」
ルチアが涙の浮かんだ瞳で、弾けるような笑顔を浮かべる。
「ああ……! 描けるとも! なんでも……なんでも描けるさ……!!」
父親はルチアの手ごとスケッチ帳を強く包み込み、声にならない泣き声を漏らした。
その温かな光景を、アレンは冷たくなった動かない右腕を抱えながら、壁に背をもたれて静かに見つめていた。
──その時。
机の端に放置されていた真鍮板が、カチ、と静かな音を立てて震えた。
表面に刻まれていた文字が沈黙し、新たな、そして冷徹な刻み傷が青白い光を帯びてじわじわと浮かび上がっていく。
『例外を観測。』
『人間という変数を組み込み──再計算を開始。』
アレンはその真鍮板を、静かに、だが冷ややかな眼差しで見つめ返した。
(来いよ、ハインリヒ。何回計算し直そうが……俺たちは何度でも泥を啜って生きてやる)
(第69話:『人たるの証明』 ・ 完)
(次回「第70話:『再計算』」へ続く)




