第68話:『試される境界』
その患者は、土砂降りの雨が街を濡らす夕刻に運び込まれてきた。
八歳ほどの少女だった。名はルチア。
街の外縁で野生の魔導獣に襲撃され、右腕の魔力線が壊滅的に暴走を起こしていた。
「アレン先生、頼む……! この子の腕を、命を救ってくれ……!」
付き添ってきた父親が、雨と涙でぐしゃぐしゃになった顔でアレンの作業着にしがみつく。その懐からは、水滴で濡れ、角が擦り切れた一冊の小さなスケッチ帳がこぼれ落ちた。
「この子は……ルチアは毎日、街の景色や工房の煙突を描くのが大好きなんです……! 『将来は自分の描いた絵で絵本を作るんだ』って、昨日も笑顔で話してくれて……! お願いです先生、絵を描く腕を切らないでやってくれ……!」
悲痛な叫びが工房の天井に響く。
アレンはルチアを急いで診察台に寝かせ、術式用の眼鏡を装着してその右腕を覗き込んだ。
(くそっ……ひでぇ)
魔導回路の乱反射により、右腕の神経と肉体が内側から焼き切れようとしている。赤黒い魔力の脈動が皮膚の表面まで浮き上がり、少女の小さな身体を激しい痙攣が襲っていた。
「エレノア、魔力冷却用の術式陣と氷銀のピンセットを持ってきてくれ! 急げ!」
「ええ!」
アレンは即座に作業に入った。
ハインリヒのことなど頭から吹き飛ばし、目の前の命を救うために職人としての腕を全開にする。
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まずは暴走する魔力線を冷やし、脈動を抑え込もうと冷却陣を右腕にあてる。──だが、接触した瞬間、術式陣が乾いた音を立てて破裂した。魔力の渦が冷気を跳ね返したのだ。
「チッ……! なら、バイパス用の魔力糸で暴走を外部へ逃がす!」
アレンは額に脂汗を浮かべ、細い針を使ってルチアの肘の関節に魔力糸を打ち込んだ。余剰な魔力を逃がし、神経の焼き切れを防ぐクロム直伝の応急処置だ。
一瞬、ルチアの痛む呻き声がやんだ。
(よし、いけるか……!?)
──パンッ!
希望は一秒と持たなかった。
逃げ場を失った魔力が逆流し、魔力糸が一瞬で焼き切れた。それどころか、暴走は肩の付け根まで一気に跳ね上がり、ルチアの口から血の混ざった悲鳴が漏れる。
「ルチア!」
父親が狂ったように叫ぶ。
アレンの手が、激しく震えた。
冷却も駄目。バイパスも駄目。義手用の安定術式を流し込んでも、少女の細い魔力線が耐えきれずに崩壊していく。
(手立てが……ねぇ。俺の技術じゃ……クロムの親父のやり方じゃ……!)
どれだけ計算しても、どれだけ泥を啜るように試行錯誤しても、辿り着く結末は一つしかなかった。
(痛みを止めることはできる。命を延ばすこともできる……。だが、暴走した神経を根元から切除するしかねぇ。右腕は……失われる)
命を助けるためには、腕を切るしかない。それが、現在の魔導義手医学とアレンの技術における「限界(正解)」だった。
「……腕を諦めれば、命は助かる」
アレンが掠れた声で低く吐き捨てると、父親はその場に崩れ落ち、スケッチ帳を胸に抱きしめて号泣した。
「そんな……そんなのあんまりだ……!」
アレンは拳を壊れるほど強く握りしめ、歯を食いしばった。自分の技術の無力さが、少女の未来を奪おうとしている。絶望と敗北感が工房を重く支配した。
──その時だった。
胸ポケットの中で、カチ、と微かな音が響いた。
アレンは無言でポケットの中に手を入れる。
指先で触れた真鍮板。そこに刻まれた新たな文字を、アレンはポケットの中で静かに読み取った。
『救命率 百パーセント』
『右腕温存率 百パーセント』
『人格保持率 九九・七三%』
「……ッ!?」
アレンの思考が一瞬、白く停止する。
(救命率……百? 腕の温存も……百%……?)
(そんな術式……存在するはずがねぇ。……いや、待て)
(この回折構造は……まさか、神経そのものを直接書き換える気か……!?)
アレンの背筋を、氷のような冷気が駆け抜ける。
文字と回路の意味を脳が理解した瞬間、血の気が完全に引いた。
(この回路なら……暴走した神経を置き換えられる)
(腕は残る。あのスケッチ帳も守れる。あの父親は、泣かずに済む……)
(だが……この九九・七三という数字は……)
(ハインリヒは……壊れた部位だけじゃねぇ。人格の最適化まで、計算に入れてやがるんだ)
冷徹なまでに誠実な、数字の提示。
真鍮板を使えば、腕を切る必要も、少女から夢を奪うこともない。
だが──残りの0.27%。彼女の脳と心の一部が上書きされ、もう「元のルチア」ではなくなる。
「……職人は、命令どおりに動く機械を作るんじゃねぇ」
アレンの脳裏に、かつてクロムがぽつりと言っていた言葉が蘇る。
「壊れた人間を、ただ新品に取り替えるのが俺たちの仕事じゃねぇんだ……」
クロムの技術では、腕を失う。だが「その子」のまま生きられる。
ハインリヒの技術では、腕が残る。だが「その子」の一部が失われる。
どちらを選んでも、地獄だった。
「アレン」
エレノアが静かにルチアの傍らへ歩み寄り、汗に濡れた前髪を優しくそっと払った。
その瞳に涙はない。だが、張り詰めそうな胸の痛みを必死に堪える静かな眼差しがあった。
「私は……腕がなくても、ルチアちゃんはルチアちゃんだと思う」
「エレノア……」
「でも……心まで別の誰かになったら……このお父さんが抱きしめたいルチアちゃんを、本当に助けたことになるの……?」
「……ッ」
エレノアの掠れた問いが、アレンの胸を容赦なく射抜く。
診察台の上で、ルチアが苦しげに小さな呻き声を漏らした。刻一刻と、少女の命の猶予が削られていく。
アレンは真鍮板を潰れんばかりに握りしめると、道具箱から術式用のメスを取り出した。
アレンは施術室の扉を開いた。
右手にはメス。
左手には真鍮板。
どちらも人を救う道具だった。
だが、その二つは決して同じ道具ではなかった。
その足を踏み出す一歩と同時に、掌の中の真鍮板に、新たな刻み傷が静かに走った。
『では、人間を証明してみせろ。』
(第68話:『試される境界』 ・ 完)
(次回「第69話:人たるの証明」へ続く)




