第67話:『歪んだ鏡』
工房の仕掛けを、アレンは朝から片端から調べ上げた。
壁の隙間、床板の裏、果ては天井の梁に至るまで、盗聴や遠見の魔導具、あるいは微小な式神の類が潜んでいないか、血眼になって探し回った。
──だが、何も出てこなかった。
魔力の痕跡すら、ただの一筋も残っていない。
そこでアレンは真実に思い至り、血の気が引くのを感じた。
(監視してんじゃねぇ……。あいつは、俺の思考を……俺の癖を、計算してやがるんだ)
アレンがどこを見つめ、どこで迷い、何秒後にどう動くか。ハインリヒはアレンという人間の「職人としての思考回路」を完全に把握し、その予測に基づいてあの文字を浮かび上がらせていたのだ。
姿なき影に脳内を覗き込まれているような不気味さを抱えたまま、アレンは作業台に腰を下ろすしかなかった。
「アレンさん、おはよう!」
昼前、元気な声とともに工房の扉が開いた。
やってきたのは、近所に住む老船大工のトーマスだった。数年前、事故で右腕を失い、クロムが作った義手を愛用している常連だ。傍らには、幼い孫娘が嬉しそうに寄り添っている。
「トミーじいさんか。今日はどこが痛む?」
「いやぁ、肘の関節部分がな、少しキーキー鳴るんだ。油を注して調整してもらおうと思ってね」
アレンは手早く道具を取り出し、老人の義手の分解点検を始めた。
内部の摩耗した歯車を交換しようと、ピンセットを差し向けた──その瞬間だった。
(……いや)
脳裏に、あの真鍮板の完璧な回路図が掠める。
(この程度なら……あのバイパス回路を組めば、歯車による摩擦そのものをゼロにできる。部品の定期交換すら不要になるはずだ……)
「……っ」
アレンの手がピタリと止まる。
頼まれてもいないのに、無意識のうちにハインリヒの「最適化」を思考の選択肢に入れていた自分に気づき、冷や汗が吹き出した。
「どうした、アレンさん?」
「……いや、なんでもねぇ。ただの摩耗だ。新しい歯車に替えるぜ」
アレンは思考を振り払うように声を張り上げた。そんなアレンの様子に気づくこともなく、トーマス老人はふんわりと目を細めた。
「クロムさんはな……『重いか?』って、何度も何度も聞いてきたよ。俺が『ちょうどいい』って答えるまで、あの人は一度も『完成した』とは言わなかった。この義手は少し重い。……だがな、この重さがあるからこそ、こうやって孫の手を握ってるときに『ああ、今俺はあいつの手を握れてるんだ』って、しっかり実感できるんだ」
老人は義手で愛おしそうに孫の頭を撫でた。孫娘も嬉しそうに、その無骨で不便な義手に頬を寄せている。
「……っ」
アレンの胸の奥が、強く突かれたように痛んだ。
性能を上げること、摩擦を削ること──それが技術者の「正解」だと、アレンはずっと信じてきた。だが、この老人にとってはこの「重さ」と「不完全さ」こそが、人と人を繋ぐ温もりなのだ。
「アレン、お茶が入ったわよ」
奧から出てきたエレノアが、トミー老人と孫娘に温かい紅茶と焼き菓子を差し出す。
孫娘が楽しそうに笑い、エレノアも和やかに微笑み返す。工房を包む、穏やかで幸福な日常の空気。
アレンはその光景を見つめ、静かに息を吐いた。
胸のポケットに手をやり、クロムの手紙の羊皮紙に触れる。親父の作ってきたものは、間違っていなかった。性能だけが義手じゃない。
──その時だった。
胸ポケットの奥で、カチ、と微かな音がした。
羊皮紙の隣に仕舞い込んであった真鍮板。
アレンはエレノアたちに背を向け、ポケットの中で指先だけで真鍮板の表面をなぞった。
新たな、細く鋭い刻み傷。
『修理とは、完成を諦める技術だ。』
「……ッ!」
アレンの息が止まった。
『人間は完成できない理由を愛と呼ぶ。』
ハインリヒの冷徹な文字が、アレンの脳裏へ直接突き刺さる。
(違う……!)
アレンは心の中で激しく否定した。
「アレン? どうしたの?」
エレノアが不思議そうにアレンの顔を覗き込む。
「……いや、なんでもねぇ。トミーじいさん、油を注し直して歯車も替えたぜ。これでまた調子よく動くはずだ」
「おお、ありがとうアレン! やっぱりクロムさんの弟子だな!」
老人は満足そうに笑い、孫娘と手を繋いで帰っていった。
エレノアも笑顔で見送っている。
愛する人の笑顔と、温かな日常。
自分はそれを守ったはずだった。
なのに、胸の奥には勝利の実感が欠片も残っていなかった。
老人の笑い声が、工房の外へ少しずつ遠ざかっていく。
静寂だけが残った。
アレンは、ゆっくりとポケットへ手を入れた。
真鍮板を取り出し、ひっくり返す。
『君は今日、三度ためらった。』
アレンは息を止めた。
終わったはずの文章の下へ、音もなく、新たな刻み傷が走る。
『一度目より、三度目の方が短かった。』
(第67話:『歪んだ鏡』 ・ 完)
(次回「第68話:試される境界」へ続く)




