第66話:『最適の毒』
アレンは静かに息を整え、作業台の上に道具を並べていた。
超極細の魔導導線を、指先で癖を伸ばすように真っ直ぐ揃える。精密調整用の小型槌の位置を微調整し、拭き上げたばかりのピンセットを真鍮板の傍らに置く。
職人がこれから執刀にかかるための、静かな儀式だった。
あとは一本、繋ぐだけだった。
真鍮板に描かれた回路通りに、右腕の義手へ一本だけバイパスを繋ぎ替えればいい。そうすれば、昨夜アレンを苛んだコンマ数秒の制御遅延は綺麗さっぱり消え去り、義手は完璧な動きを取り戻す。
アレンは導線を指先で摘まみ、義手の内部構造の深部──真鍮板が指し示す接続点へと、静かに近づけた。
あと一ミリ。触れさせるだけでいい。
「……っ」
ピタリと、アレンの指先が止まった。
息を殺して見守っていた作業台の向こうのエレノアが、ハッと息を呑む。
「アレン……?」
「……違う」
アレンは苦々しく吐き捨てると、導線を放り出し、作業台に突っ伏すように両手をついた。
「違う……。こんなの、ただの繋ぎ替えだ。見ればわかる。試せば動く。……だが、なんで親父はこのルートを潰したんだ?」
アレンの頭を支配していたのは、恐怖ではなかった。
職人としての猛烈な飢餓感と、解けない問いへの苛立ちだ。
「親父の技術だぞ? この簡単なバイパスに気づかねぇわけがねぇ。人間の神経応答さえ超える速度が出せる回路だ。なのに親父はわざわざ、遠回りで効率の悪い回路を選んで設計した。……親父なら、こんな回路は絶対に採用しねぇ。だが……そこまでして採用しなかった、決定的な理由が何かあるはずなんだ」
答えが出ない。
ハインリヒの提示した答えはあまりにも美しく、そして正しすぎる。だからこそ、それを選ばなかった師・クロムの「理由」が分からない限り、アレンは最後の一本を繋ぐことができなかった。
「アレン、お願い……もうそんなもの、捨てて……」
耐えかねたように、エレノアが静かに、しかし切痛に声を絞り出した。
彼女は作業台に歩み寄ると、真鍮板を引っ掴もうと手を伸ばす。
「手ぇ出すな!」
アレンの鋭い一言が、工房の空気を引き裂いた。
エレノアの手が、空中でピタリと止まる。
「お願いだから、私を見てアレン……。それが綺麗に見えるのは分かるわ。でも……それ以上に、今のあなたが怖いの」
「……っ」
「捨てられねぇんだよ!」
アレンは立ち上がり、頭を抱えた。
「これを見ちまったら……もう元の図面には戻れねぇんだよ! お前にはただの鉄くずに見えるかもしれないがな、俺にとっちゃ……俺が一生かかっても辿り着けねぇかもしれない、神の設計図なんだよ!」
「アレン……」
エレノアの顔から血の気が引いていく。
同じ作業台を挟み、同じ一枚の真鍮板を見つめながら、ふたりの見ている世界は完全に隔絶されていた。
アレンを侵食していく「技術という名の毒」の深さに、エレノアは声を失うしかなかった。
重苦しい静寂が工房を支配する中、アレンは乱暴に棚の奥を引き出し、古い木箱を引っぱり出した。
クロムが遺した、生前のメモや雑多な工具が詰め込まれた箱だ。
アレンは貪るように中身を引っかき回した。親父なら、何か書き残しているはずだ。あのハインリヒという男の狂気について、あるいは、あのバイパス回路を捨てた理由について。
箱の底から、黄ばんだ一通の封筒が出てきた。
宛名も差出人もない。ただ、クロムの無骨な筆跡で、密封された封蝋が施されている。
アレンは躊躇なく封を破り、中の羊皮紙を引っ張り出した。
そこには、たった一行だけ、文字が記されていた。
『美しいものほど、最初に疑え。』
「……親父」
長々とした解説も、ハインリヒの名すらもなかった。
だが、その一言だけで十分だった。クロムもまた、かつてこの真鍮板と同じ「悪魔の美しさ」を突きつけられ、悩み、苦しみ、そして踏みとどまったのだ。
アレンは深く息を吐き出し、羊皮紙を硬い手触りの胸ポケットに仕舞い込んだ。
──翌朝。
一晩中、作業台から離れなかったアレンは、薄明かりの中で目を擦った。
真鍮板を持ち上げ、工房の奥にある重厚な耐火金庫へ仕舞い込もうとしたアレンの指先が、その瞬間に凍りついた。
「……あ?」
真鍮板の表面。
昨夜までは存在しなかったはずの、極微細な彫り傷。
新しい回路の補助線と、幾何学的な数値が、まるで生き物のように増殖していた。
誰も工房には入っていない。金庫にも入れていない。
それなのに、一晩明けただけで、設計図の「続き」が勝手に刻み込まれていたのだ。
血の引きつるような感覚を覚えながら、アレンは真鍮板をひっくり返した。
裏面。
昨日までは『我々の知性は〜』という一文しか刻まれていなかったはずのその場所に、流麗な、しかし狂気を孕んだ新しい文字が刻まれていた。
『君は昨日、この線を十五秒見つめていた。』
「……っ!?」
『だから次は、ここまで理解できる。』
アレンの喉から、声にならない呻きが漏れた。
見られていた。
アレンが昨日、真鍮板のどこを指でなぞり、どの回路の前で何秒間立ち止まり、思考を巡らせていたのか──そのすべてを、姿なき何者かが、暗闇の中から完璧に「理解」していた。
息が詰まるような戦慄の中、アレンが真鍮板を金縛りに遭ったように見つめていると──。
その瞬間だった。
真鍮板の末尾に、新たな刻み傷が、音もなく浮かび上がる。
『その顔を待っていた。』
(第66話:『最適の毒』 ・ 完)
(次回「第67話:歪んだ鏡」へ続く)




