第65話:『始まりの鍵』
朝の光が、窓の歪んだガラスを通して工房の床に細長い縞模様を描いていた。
深夜の騒動が嘘のように、外からは朝市へ向かう荷馬車の轍の音や、小鳥のさえずりが聞こえてくる。
アレンは、作業台の上で冷めきったコーヒーのカップを所在なげに見つめていた。
エレノアはアレンの身を案じるあまり、朝からろくに口をきいていない。何かを言おうとしては口を閉じ、所在なげに棚のモップやハタキを動かしている。彼女の手元が、微かに震えているのをアレンは見逃さなかった。
「エレノア。俺は壊れちゃいねぇよ」
ぶっきらぼうに言ったアレンの声は、自分自身を納得させるためのもののようでもあった。
実際、腕は動く。
ただ、指先が時折、自分の脳の命令を追い越して「最適」に動いてしまう。その機械的な先回り(ラグの消失)が、皮膚の裏側を冷たい何かで撫でられているようで、不気味極まりなかった。
「わかってるわよ。……ただ、少し考え事をしていただけ」
エレノアが力なく微笑んだ、その時だった。
カタ, と。
工房の扉に備え付けられたポストのフラップが、小さく音を立てた。
新聞か、それとも近所の住人からの修理依頼のメモか。
エレノアが歩み寄り、薄い手紙の投入口から落ちたものを拾い上げる。
「……手紙じゃないわ。これ、金属の……板?」
「あ?」
アレンは怪訝そうに立ち上がり、エレノアの手からそれを受け取った。
名刺ほどの大きさの、薄い真鍮板。
だが、その表面を見た瞬間、アレンの目が限界まで見開かれた。
そこには、極微細な刃先でエッチングされた、アレンの『魔導義手』の深部回路図が刻まれていたのだ。それも、クロムのオリジナルの設計図ですら描かれていない、昨夜「黒い紋様」が刻まれた後の、現在の変異状態の回路図が。
そして、その下に添えられた、一筋の美しい改修ラインと、短い注釈。
『ここをこう繋げば、ラグは消える』
「何よ、これ……。いたずら?」
「違う」
アレンの喉から、乾いた声が出た。
アレンは反射的に、そんな他人の差し出した回路など否定しようとした。
だが──。
昨夜、アレンがまだ計算しきれず、脳内で記号が散らばっていたままの未完成の数式。その最後の空欄に、この真鍮板の数値が、狂いなくピタリとはまった。
「……っ」
アレンは自分の右腕を、義手の指先を、微かに動かした。
脳が理解してしまう。
この配線なら──あのクロムの設計思想に生じた制御遅延を、確実に、わずか0.03秒削れる。
それは、昨夜アレンがどれだけ図面を引き直しても、どうしても超えられなかったクロムの壁だった。
「誰が、こんなものを……」
エレノアが真鍮板を覗き込み、アレンの顔色を見て、そのただならぬ雰囲気に息を呑んだ。
「アレン、駄目よ。そんな怪しいもの──」
「……親父なら、こんな回路は絶対に採用しねぇ」
アレンは真鍮板を強く握りしめた。
その言葉に、エレノアは一瞬だけ安堵の表情を浮かべる。だが、アレンの言葉はそこで終わらなかった。
「だが、性能だけを見るなら──こっちの方が上だ」
「え……?」
「親父の設計は、安全マージンを取りすぎてる。暴走を防ぐために、あえて『やれねぇ』ようにリミッターをかけてたんだ。だが、こいつは違う。できることを、できる極限まで引き出そうとしてやがる」
クロムは間違っていたのではない。
できても、アレンの安全のために「やらなかった」のだ。
しかし、この真鍮板の送り主は、それを「限界(妥協)」と呼び、いとも容易く超えてみせた。
アレンは真鍮板を裏返した。
そこには、流麗な筆致で、たった一言だけ刻まれていた。
『我々の知性は、神代の檻さえ超える。アレン、君はあの古いクロムの限界に、いつまで付き合うつもりだ?』
「ハインリヒ……」
かつて、クロムの元同僚であり、神代の禁忌に手を染めてギルドを追放された、歴史の影の職人。
「そいつが、王都にいるのね……?」
エレノアの声が震える。
アレンは何も答えず、真鍮板をポケットにねじ込むと、弾かれたように工房を飛び出した。
「アレン! 待って!」
エレノアの制止を振り切り、アレンは朝の雑踏へと駆け出す。
大通りには、商品を並べる商人たち、談笑する市民、パトロールの衛兵たちが行き交っていた。誰もが普通の人間に見える。
アレンは荒い息を吐きながら、周囲を見回した。
誰が自分を見ている?
誰が、あの恐るべき知性を持って、自分を「観察」しているのか。
その時。
背後から、無邪気な子供の笑い声が聞こえた。
ハッと振り返る。
だが、そこには風に舞う埃の他には、誰もいなかった。
ただ、アレンの右胸のポケットの奥で。
先ほどねじ込んだ真鍮板が、じわじわと、体温以外の不自然な「熱」を帯びて、微かに温かくなっている。
──アレンには、見えていない。
通りの向こう。
朝日の逆光を浴びたパン屋の軒先に、仕立ての良い外套を着た一人の男が静かに立っていることを。
フードは被っていない。
だが、眩い朝光がその顔を白く潰し、その表情を窺い知ることはできない。
男は、アレンの焦燥に満ちた表情など見ていなかった。
ただひたすらに、アレンの右腕──銀色の装甲に刻まれた「黒い紋様」だけを、熱狂を孕んだ眼差しで見つめていた。
静かに、男の薄い唇が、小さく弧を描く。
「素晴らしい。君はもう、道具に選ばれ始めている」
次の瞬間、一台の大きな物資輸送の馬車が、男の手前を遮るように通り過ぎていく。
馬車が通り抜けたときには。
パン屋の軒先には、もう誰も立っていなかった。
どれだけ探しても、手がかりは一つも掴めなかった。
工房に戻ったアレンは、再び薄暗い作業台の前に座り込んでいた。
卓上には、あの真鍮板が置かれている。
その完璧な美しさを誇る回路図は、アレンの職人としての魂を、今も激しく揺さぶり続けている。
アレンが右手に力を込めると。
装甲の表面に這う黒い紋様が、アレンの心臓の鼓動と同期するように、ドク、ドク、と、微かに、かつ確かに脈打った。
──アレンは、その改善案を捨てられなかった。
(第65話:『始まりの鍵』 ・ 完)
(次回「第66話:最適の毒」へ続く)




