第64話:『囚人の行方』
深夜二時。工房の温度は、冷え切った石壁に吸い込まれるように下がり続けていた。
だが、アレンは作業台に広げた羊皮紙から目を離さなかった。
墨の掠れた図面と、先ほど脳裏に直接展開された数式の残滓。彼は何度も羽ペンを走らせ、数値を書き込み、そして冷酷に斜線を引いてそれを否定する。
「アレン、もう休んだ方が……。魔力の暴走を無理やりねじ伏せたのよ。精神的な負荷だって──」
「エレノア、職人は勘で動かねぇ」
アレンはペンを置き、己の額を強く指先で叩いた。
「数字は嘘をつかねぇ。一つでも計算が狂えば、その時点で設計は終わりだ。だが、何回逆算しても結果は同じだ。この檻にかかっている魔力負荷は、限りなく『零』に近い。構造が生きているのに、内圧が完全に抜けてやがる。計算が、狂いなく合っちまうんだ」
それは、感覚的な予感ではない。
積み上げられた数字が静かに告げる、確定した「事実」だった。
「だったら……」
エレノアは生唾を飲み込み、机の上の漆黒の鉄を見つめた。
「じゃあ、すぐにでも探しましょう。その、逃げ出したっていう『何か』を。王都の警備隊や、神殿の神官戦士たちにも秘匿で協力を要請して、手当たり次第に魔力の痕跡を追えば──」
「探す? 何を基準にだ」
「え……?」
「魔力波形も、外見も、そもそもそいつが『人間』の形をしているのかすら分からねぇんだぞ。そんな状態で王都をひっくり返してどうする。それに、エレノア」
アレンは冷え切った目で、黒い鉄の表面を指先でなぞった。
「根本的に前提が間違ってる。……こいつは、檻をぶち破って逃げたんじゃねぇ」
「……どういうことよ? だって、中身は空っぽなんでしょう?」
「ああ。だが、外殻にも、内側の積層膜にも、内側から破壊されたような物理的・魔力的な『破断痕』が一切ねぇんだ。もし凶悪なバケモノが力任せにこの檻を壊したなら、金属疲労の微細な亀裂が必ず残る。それがない」
アレンは、黒い鉄の「回路の繋がり」をエレノアに指し示した。
「檻は、今でも完全に、正常に機能している。歪みが生じたのはただの経年劣化だ。……つまり、封印は解除されたんじゃない。外から、正しい手順を踏んで、エラーを起こさずに『開けられた』んだよ」
しんと、工房の空気が凍りついた。
エレノアの顔から、みるみるうちに血の気が引いていくのが暗がりでも分かった。
「そんなこと……誰ができるっていうの? 神代の、何千年も昔の封印システムなのよ? 鍵の形だって、術式のパスワードだって、とっくに歴史の闇に消えているはずじゃない!」
「消えてるさ。だから、鍵そのものをその場で『自作』した奴がいる」
アレンは右手を持ち上げ、五本の指を開閉させた。
銀色の金属装甲に、禍々しく這う一本の黒い紋様。
「俺と同じように、この封印の設計思想を瞬時に読み解き、その場で完璧な『合鍵』を編み上げて、優雅に扉を開けて去っていった。……俺が今日ようやく辿り着いた場所に、そいつはとうの昔に立ってたってことだ」
「……職人」
「そうだ。神代の封印を、その場で理解してしまう化け物みてぇな職人が、この時代のどこかにいる」
アレンの言葉は、これまでのどんな怪物の襲撃よりも、冷たく、そして深くエレノアの胸を刺した。
敵は、理解の及ばない怪物ではない。
アレンと同じ「知性」と「技術」を極めた、最悪の職人。
「……っ」
アレンは不快なラグを感じる右腕を休めるため、近くの作業棚から、愛用の調整用レンチを手に取ろうとした。
指先がスチール製のレンチに触れる。
その瞬間。
ピク、と。
右腕の『魔導義手』が、アレンの意志とは無関係に、微かに火花を散らした。
「アレン!?」
「違う……」
アレンはレンチを持ったまま、固まった。
また、ラグが発生したのか。制御精度の低下による機能不全か。
いや、違った。
今、義手は、アレンがレンチを掴むという意志──脳から神経、そして擬似神経へと「命令が届く前」に、最適な重心位置と力の分散率を──。
勝手に補正し、動き始めていた。
レンチは、アレンが力を込める前に、もっとも負荷の少ない角度へ自然と傾いていた。
「……壊れたんじゃねぇ」
アレンはレンチを凝視したまま、ぽつりと呟いた。
「……俺が動かす前に、最適解を選び始めてやがる」
クロムがアレンのために遺した、暴走制御の檻である『魔導義手』。
それが、神代の超技術と回路を接続したことで、あろうことかその思想を一部取り込み、自己のシステムを書き換え始めている。
これが故障なのか、それとも、見たこともない変異の始まりなのか──。
──同じ頃。
王都の北、高貴な居住区から遥かに外れた、誰も寄り付かない古い廃墟街。
立ち並ぶ崩れかけた石壁の奥に、かつて使われていたとされる、ひび割れた古い石造りの井戸が、ひっそりと闇に佇んでいた。
月光すら届かない路地。
その古い井戸の側面に刻まれた、風化して潰れかけた奇妙な紋様。
そこに、誰も触れていないはずのその石肌に、突如として──。
アレンの義手と同じ、禍々しい赤黒い光が、一本のひび割れのように淡く走った。
カツン、と。
夜の静寂を破り、革靴が泥を連ねる音が響く。
崩れた壁の影から、静かに、一人の影が歩み出た。
衣服の隙間から覗く姿は、仕立ての良い外套に身を包んでいるが、その顔は深いフードの闇に隠れて判別できない。
人影は、淡く光る井戸の紋様に、そっと手袋をはめた指先を触れさせた。
「……ようやく、届いたか」
低く、どこか楽しげな声が、夜風に溶ける。
人影がゆっくりと踵を返し、闇の向こうへ足音もなく去っていく。
その直後。
井戸の底の闇が、わずかに揺れた。
ドクン。
と、重く、確かな「鼓動」が、一度だけ返ってきた。
(第64話:『囚人の行方』 ・ 完)
(次回「第65話:始まりの鍵」へ続く)




