第72話:『職人の証』
コン……カチッ。
朝の静かな工房に、真鍮と工具が噛み合う小さな音が響く。
作業台に向かうアレンの左手には、昨日自ら削り直した変形ドライバーが握られていた。
太く、不格好に歪んだ木製の柄が、傷だらけの掌にしっくりと噛み合っている。
ゆっくりとトルクをかける。
長年、右手に頼りきってきたせいで、左手には精密作業を支える繊細な神経も、力加減の感覚も育っていなかった。手つきは依然としてぎこちなく、右手で作業していた頃の数倍の時間がかかっている。
頭の中では、もう完成している。金属が噛み合う音さえ聞こえるというのに、左手だけが思い通りに動いてくれない。
それでも、昨日までのようにネジ頭を潰して弾き飛ぶ頻度は確実に減っていた。
──ダンッ! ダンッ!
静寂を破り、工房の頑丈な木の扉が乱暴に叩かれた。
「アレンさん! 頼む、居てくれ……っ!」
悲鳴に近い声とともに扉が開き、飛び込んできたのは港で荷揚げ作業員をしている男・マルコだった。
マルコは右脚を激しく引きずり、壁に肩をぶつけながら作業台へと倒れ込むようにすがった。
「どうした、マルコ。落ち着け」
「落ち着いてなんかいられるかよ! 膝が……膝の関節が固まっちまったんだ!」
マルコが提示した右脚には、数年前にアレンが仕立てた高精度の機構義足が装着されていた。
膝の連結パーツから「ギギ……」と嫌な摩擦音が漏れ、完全に内部で噛み込んで曲がらなくなっている。
「明日の朝一番で、大型貨物船の積み込みがあるんだ! ここで穴を開けたら、俺ぁ現場を外されちまう……!」
マルコは顔を歪め、縋るような目でアレンを見つめた。
「アレンさんが右手を痛めた噂は聞いた……無茶言ってるのは分かってる! だけど……この義足がなかったら、俺ぁもう港じゃ働けなかった。……娘を高く抱き上げて笑わせてやれるようになったのも、全部この義足のおかげなんだ。他の誰でもねぇ、アレンさんに直してほしいんだよ!」
「────。」
アレンの胸の奥が、熱い塊で満たされていく。
目の前にいる男は、アレンを「終わった職人」としてではなく、「変わらず己の人生を支えてくれた職人」として頼ってきている。
「アレン」
背後から、エレノアが静かに歩み寄ってきた。
制止するような言葉も、心配するような眼差しもない。ただまっすぐにアレンの目を見つめていた。
「……できる?」
「……できるかじゃねぇ。やるんだよ」
「わかった。私は手伝う」
エレノアは即座に作業台の不要なパーツを脇へ退けると、大型の万力をセットし、油の染み込んだウエスと予備のピンセットを並べた。
作業が始まった。
万力で義足の膝フレームを固定する。
だが、左手一本での作業は過酷を極めた。固定リングを外すだけでも力がうまく伝わらず、ドライバーが浅く滑る。
掌の包帯に、じわりと赤黒い血が滲み出た。
「くそっ……」
汗が額から滴り、目に入って沁みる。アレンは左手全体で工具を抑え込み、己の体重をかけてじわじわとネジを緩めていった。
──カチッ。
外れたカバーの隙間から内部を覗き込む。
高負荷によって歪んだ歯車の隙間に、摩耗した金属の微細な破片が噛み込んでいた。
噛み込んだ破片をピンセットで除去し、変形したギアの軸を削って整える。
右手なら数分で終わる調整に、30分以上が費やされた。
見守るマルコも、唾を飲み込んで固唾をのんでいる。
削り直したパーツを組み込み、最後の固定ネジに「変形ドライバー」をあてがう。
アレンは呼吸を整え、左手の掌全体で包み込むようにトルクをかけて締め上げた。
──カチリ。
「……よし。組み上がった。試してみろ」
アレンが汗を拭いながら万力を解除する。
マルコは胸を撫で下ろし、急いで義足を床につけ、右脚に体重をかけた。
「ありがとうアレンさん! やっぱりアンタは──」
マルコが踏み出し、膝を曲げようとした、その瞬間。
──ガタンッ!
不快な打撃音とともに膝のロックが弾け、マルコの身体が大きく傾いた。
「うわっ……!?」
「マルコ! アレン、落ち着いて!」
エレノアが咄嗟に抱き止め、間一髪で床への転倒を防ぐ。
マルコの顔から、一瞬で笑顔が消えた。
工房の空気が、一瞬で凍りつく。
膝関節は力を失い、ブランと不自然な角度で垂れ下がっていた。
「あ……あ……」
マルコの顔から血の気が引き、絶望の色が広がっていく。
アレンは自分の不甲斐なさに打ちのめされそうになる頭を、力任せに振った。
(落ち着け……焦るな。俺の目は死んでねぇ。左手だって、動いてる)
「……違う」
アレンは低く掠れた声で呟き、垂れ下がった義足に膝をついた。
「まだ終わってねぇ。……もう一度分解する」
「アレン、でも手傷が──」
「黙って見てろ!」
アレンは血の滲む左手で、再び万力へ義足を叩きつけるように固定した。
手つきのぎこちなさは変わらない。だが、その瞳に宿る不屈の光は、以前のどの作業の時よりも強く研ぎ澄まされていた。
再び内部を解体する。
目視だけではない。アレンは左手の指先で、コンマ数ミリのギアの歯を一本ずつ、撫でるように確かめていった。
(ここだ……内部のバリじゃねぇ。荷重がかかった時の、軸受けの歪みだ)
右手の感覚を追うのではない。
今の左手が感じ取った「歪み」の手触りだけに全神経を集中させる。
アレンはヤスリを引き寄せ、軸受けの傾きをコンマ数ミリだけ削り落とした。
再組み上げ。ドライバーを握る左手が、疲労と激痛でピクピクと大きく痙攣する。
「……動け」
アレンは左腕全体を歪ませ、己の魂を叩き込むように、最後のネジをじわじわと締め込んだ。
──カチッ。
今までで一番深く、重厚な金属音が響いた。
「……もう一回だ。立て、マルコ」
アレンの気迫に押され、マルコはゴクリと生唾を飲み込んで立ち上がった。
息をのむエレノア。
作業台の横で、マルコが右脚にゆっくりと体重をかける。
膝を折り曲げる──。
──ギギ……。
一瞬、わずかな抵抗感が伝わり、アレンの顔が緊張で強張る。
マルコが覚悟を決めて、さらにぐっと踏み込んだ。
──……スッ。
引っかかりは消え去り、吸い込まれるような滑らかさで膝関節が曲がり、しっかりとマルコの全体重を受け止めた。
「あ……」
マルコは何度も足を前に踏み出し、曲げ、伸ばした。
ガタつきも、不快な音も一切ない。自分の本当の足のように、力強く体重を支えていた。
「曲がる……! 動くぞ! ガタつきも完全に消えてる……!!」
マルコは弾けたように声を上げると、その場に力強く踏み込み、涙をぼろぼろとこぼした。
「動いた……動いたよアレンさん! これで明日も働ける! 娘をまた抱き上げてやれる……っ!! ありがとう……! ありがとう……!!」
マルコはアレンの包帯だらけの左手を両手で強く握りしめ、何度も、何度も頭を下げた。
「やっぱりアレンさんは、この街一番の職人だ!!」
金貨の入った袋を作業台に押し付けるように置くと、マルコは何度も振り返りながら、力強い足取りで工房を駆け去っていった。
ドタバタとした羽音が遠ざかり、工房に静寂が戻る。
アレンは緊張の糸が切れたように作業台へ倒れ込み、激しく肩で息をついた。
全身汗だくで、限界を迎えた左手はピクピクと痙攣を繰り返している。
「……無茶ばかりするんだから」
エレノアがハーブティーの入ったカップを作業台に置き、包帯から血が滲むアレンの左手を、愛おしそうにそっと両手で包み込んだ。
「……工具じゃねぇ。右手でもねぇ」
アレンは湯気の向こう、作業台の上に置かれた傷だらけの変形ドライバーを見つめ、自嘲気味に、だが力強く呟いた。
「……この仕事を諦めなかった奴が、職人なんだ。」
アレンは傷だらけの左手を見つめる。
まだ震えている。
まだ痛む。
それでも、その手は今日、一人の人生を支えた。
その不格好な左手には、確かに『職人の証』が刻まれていた。
(第72話:『職人の証』 ・ 完)
(次回「第73話:『再起の波紋』」へ続く)




