第59話:『胎動』
深夜、工房の傾いた屋根の上に、アレンは一人で座っていた。
風は冷たく、街の灯りはとうに消え失せている。見上げる夜空は吸い込まれそうなほどに黒い。
その漆黒の虚空の、さらに奥底。
人々の目には決して映らない境界の向こう側に、ぽつりと、針の先で突いたような紅い点が浮かんでいた。
はしごを登る静かな足音がして、夜着の上に薄い上着を羽織ったエレノアが顔を出した。隣に腰を下ろし、アレンと同じ空を見上げる。
「また見てるの?」
「見てねぇ」
アレンは視線を微動だにさせず、木炭の破片を握った左手を、目の前の羊皮紙の上でわずかに滑らせた。
「……測ってる」
「神様を?」
「神は規則正しい。一度動けば、必ずそこに対称性と周期が生まれる。市場での『新律』の暴走、あの後にこいつが動いた位置、瞬きの速度……全て数字に置き換わる。恐怖ってのはな、正体が分からねぇから恐怖なんだ。構造だと分かれば、それはただの『設計図』だ」
エレノアはアレンの横顔を見つめた。神という絶対的な絶望を前にしてなお、この男の目は、ただの『不良品』を検品するかのように冷徹で、そして底枯れた熱を孕んでいる。
「あまり根を詰めないでね。……まだ右肩の糸、抜いてないんだから」
「分かってる。明日、街へ行くぞ」
「え? 新しい義手の素材探し? でも、市場の仕入れはまだ混乱してるわよ」
「鉄は十分だ。だが、鉄をどう組むかを教えてくれる先生は必要だ」
アレンは羊皮紙に描かれた、奇怪な幾何学模様──第三世代の設計思想を指先でなぞった。
「欲しいのは鉄じゃねぇ。答えを知ってる構造だ」
───
翌日、二人が訪れたのは、華やかな中央市場ではなく、街の最外縁に位置するジャンクハル(廃棄区画)だった。
山と積まれたガラクタ、錆びついた古い馬車の車輪、出所の分からない金属片が放り出された泥の路地。
そこを歩くアレンの姿を見つけて、周囲の回収業者たちが、クスクスと下品な笑い声を漏らした。
「おい、見ろよ。市場の英雄サマがお出ましだぞ」
「自慢の魔導義手が壊れて、今度はゴミ拾いか? 落ちぶれたもんだな」
刺さるような嘲笑。
だが、アレンの耳には、彼らの言葉など羽虫の羽音ほどにも届いていなかった。
「アレン、あれ」
エレノアが指さした先には、何十年も前に廃棄され、半分泥に埋もれた巨大な水車の歯車があった。
アレンは引き寄せられるように歩み寄り、泥の中に膝をついた。
左手の指先で、ひび割れた木と、それを補強する歪な鉄の噛み合わせをじっくりと撫でていく。
「これだ……」
「その歯車を使うの?」
「何百年も壊れず回ってたってことは、それだけ理由がある。職人が計算したわけじゃない。回り続ける中で、世界の歪みをいなす『逃げ道』が、この不揃いな噛み合わせの中に自然と出来上がってる。こいつは、生き残った構造だ」
アレンは懐から工具を取り出すと、水車の中心部から、摩耗しきった真鍮の芯ピンを静かに抜き取った。
「相変わらず、気味の悪い目でゴミを見るねぇ、坊主」
背後から、ひび割れた低い声が響いた。
振り返ると、煤けた革のエプロンをまとい、片目を濁らせた50代ほどの老人が、壊れた荷車に腰掛けて煙草を吹かしていた。このジャンクハルを仕切る「ゴミ屋」、ガスパールだった。
街の住人たちは彼を浮浪者同然に扱うが、アレンは手の中のピンを握ったまま、ガスパールの背後に積み上げられた奇妙な鉄の山を見据えた。
「ゴミじゃねぇ。宝の山だ」
アレンの言葉に、ガスパールは一瞬だけ目を見開き、それから、欠けた歯を見せてニヤリと笑った。
「見る目があるな、坊主。……だがな、本当に『宝』と『ゴミ』の区別がついてるか?」
ガスパールはアレンが掴んでいるピンを指差した。
「そのピンの、どこに惚れた」
「摩耗の偏りだ。普通の職人は均等に削るが、これはわざと重心をコンマ数ミリずらしてある。だからこの水車は、軸が歪んでも回り続けられた」
アレンが即座に答えると、ガスパールは深く煙を吐き出し、満足そうに目を細めた。
「……合格だ。お前だけだよ、ここをそんな目で見るのは。付いてきな。本当の『ガラクタ』を見せてやる」
───
ガスパールの薄暗い作業小屋の奥。埃の舞う空間に、ずしりと重い、古びた木箱が置かれた。
ガスパールが乱暴にその蓋を開けると、中から現れたのは、煤とも錆とも違う、鈍い漆黒を放つ一塊の金属片だった。
アレンは何も言わず、その黒い鉄を左手で拾い上げた。
狂おしいほどの重量が、掌を押し潰すように伝わってくる。
アレンはそれをじっと見つめた。
指先で、ざらついた表面をなぞる。
窓から差し込む、わずかな斜光にかざす。
目を細めたまま、静かに、裏返した。
小屋の中に、肌がヒリつくような沈黙が流れる。
アレンの黒い瞳が、その金属の「断面」を捉えた瞬間、わずかに細められた。
「……違う」
エレノアが顔を覗き込む。
アレンは、断面に刻まれた、肉眼では捕捉できないほど微細な線を、指先で確かめるように追っていた。
「流れてる」
「流れてるって、鉄が?」
「自然にできた結晶じゃねぇ。叩かれ、引き伸ばされ、一定の方向に向かって、金属の組織が綺麗に揃ってる」
アレンは視線を上げ、ガスパールを冷徹に睨み据えた。
「……これ、誰かが作ってる」
アレンは何も言わなかった。
黒い鉄を握る左手に、ゆっくりと力が宿る。
そのアレンの言葉と視線を受け、ガスパールは満足そうに鼻を鳴らし、新しくパイプに火をつけた。
「気づいたか。そいつはな、空から降ってきた隕鉄じゃねぇ。地下の奥深く、古い地層から掘り出されたもんだ」
アレンは黒い鉄を見つめたまま、呟いた。
「誰も、こいつを持っていかなかったのか」
ガスパールは煙の向こうで、不敵に目を細めた。
「違うさ。街の腕利きの鍛冶師どもが総出で寄ってたかって、魔導の炎で炙ろうが、最高の槌で叩こうが、傷一つ付けられなかった」
老人は、ニヤリと欠けた歯を見せて笑う。
「傷一つつけられなかった」
「誰も──加工できなかったんだよ」
アレンは答えなかった。
黒い鉄を見つめたまま。
その口元だけが、ほんの僅かに笑っていた。
(第59話:『胎動』 ・ 完)
(次回「第60話:黒い鉄の解析」へ続く)




