第58話:『設計思想』
深夜の工房には、ただ一本の蝋燭の火だけが揺れていた。
ちくり、と皮膚に針が通る。
生身の右肩の裂傷を、エレノアが一本ずつ丁寧に縫合していた。彼女の指先は驚くほど静かで、もう涙も、取り乱した色もない。ただ淡々と、職人の肉体を繋ぎ止める作業に没頭していた。
「痛い?」
「……まあ」
「嘘」
「職人は嘘つくのも仕事だ」
アレンの不器用な返しに、エレノアは小さく、吐息のような溜息を漏らした。
「どうしてあんな無茶したの?」
針を引く手が、ほんの一瞬だけ止まる。向けられた声音には、怒りよりも深い、夜の闇に沈むような震えが混ざっていた。
「助ける方法が見えてたからだ。あの状況じゃ、あれが最短の正解だった」
「違う。……死ぬかもしれなかったじゃない。もしあのシステムが完全に暴走してたら、あなたごと消し飛んでた」
「職人は作る仕事だ。壊れる覚悟くらい最初からある」
「私は、壊れる部品じゃないわ」
エレノアは、アレンの左肩を少しだけ強く掴んだ。その指先が、微かに、だが拒絶するように強張っている。
「あなたが壊れたら、誰がその次の『正解』を作るのよ。……バカ」
それ以上、彼女は言葉を重ねなかった。手際よく結び目を作り、余分な糸をハサミで断つ。言葉を交わさずとも、互いの距離が、あの市場の泥泥とした喧騒を経て、決定的に変化したことだけが暗がりに染み渡っていた。
「終わったわ。……あまり無理に動かさないで」
「ああ、助かった」
アレンは左手で軽く肩を回すと、すぐに作業机に向き直った。
机の上には、完全に焼き付き、黒く煤けた第二世代義手が転がっている。
内部の超極細ワイヤーは神の圧力に耐えかねてことごとく破断し、外装の隙間からは炭化した魔力導線が干からびた植物の根のように溢れ出ていた。いくつかの主要ギアは、噛み合わせたまま凄まじい摩擦熱でドロドロに溶け、一つの無骨な鉄の塊へと変形して固まっている。一見すれば、ただの再利用不可能な鉄クズ。市場を守った「代償」は、あまりにも重かった。
だが、アレンの目は、落ち込むどころか、奇妙な興奮にギラギラと輝いていた。
ペンチを左手で器用に扱い、焼き付いたギアを一つずつ、力任せに剥ぎ取っていく。ガリ、と金属が削れる鈍い音が工房に響く。
「なるほど……。神の圧力をまともに受けると、応力はここへ逃げるか。伝達経路のこの一点に、世界の歪みが全て集中したわけだ」
アレンは、歪にねじ曲がり、変色した小さな真鍮の歯車を、愛おしそうに蝋燭の火に透かした。
「ここまで歪むのか。……じゃあ、逆に使えるな。耐荷重の限界が分かれば、次はその外側に『逃げ道』を作ればいい」
「壊れたのに……嬉しそうなのね」
「壊れたんじゃねぇ。神の設計の限界値が取れたんだよ。これ以上ない成果だ」
アレンは左手だけで、一枚の新しい羊皮紙を机に広げた。
木炭の芯を握り、迷いのない速度で、新しいスケッチを描き始めていく。
さらさらと、闇の中に硬い音が響く。
エレノアが横から覗き込んだ。だが、そこに描かれているのは、人間はおろか、これまでの義手の常識からも完全に逸脱した、複雑怪奇な幾何学模様だった。
どこが関節で、どこが駆動部なのか、彼女の知識では一切読み解けない。それは義手ではなかった。かと言って、敵を殺傷するための武器でもない。剥き出しの骨格のようであり、緻密に計算された建築物のようでもあり、あるいは、未知の巨大な生き物の神経図にも見えた。
「……アレン、それ、本当に義手なの?」
エレノアの声が、微かに強張る。その図面そのものが、何か人知を超えた禁忌に触れているような、悍ましさを放っていたからだ。
アレンは視線を図面から外さないまま、少しだけ口元を歪めた。
「義手じゃねぇ。──設計思想だ」
「設計……思想?」
「まず思想を作る。形は、そのあとだ」
「形だけ真似ても、神には届かねぇ」
ふと、アレンが手を止め、工房の小さな天窓を見上げた。
雲一つない深夜の夜空。
昼間の異変など誰も覚えていない静かな街の真上で──それは、あった。
誰にも見えない虚空の奥底に、ぽつりと浮かぶ、小さな紅い点。
「……動いた」
アレンが小さく呟いた。
紅い点は、まるで瞬きをするように、わずかに位置を変えた。
「何が?」
「神は規則正しい。だから必ず、癖がある」
アレンの黒い瞳が、夜空の紅い点を冷徹に映し出す。
「……まだ確信じゃねぇ。だが、繋がってるなら、観察できる」
アレンは視線を机の上へと戻した。
黒く焦げた第二世代の部品たちを、新しく描かれた幾何学模様の図面の周囲へと、静かに並べていく。
そして、木炭の芯を握り直すと、図面の右上へ、極めて小さく、だが鋭い筆致で文字を書き込んだ。
Concept: Gen-3
完成予想図は、最後まで描かれなかった。
木炭が、図面の中心へ一本の線を刻む。
「第三世代。……今度は、お前の設計思想ごと噛み合わせてやる」
蝋燭の火が、小さく爆ぜて、消えた。
残された深い闇の中で、第三世代は、まだ存在しない。
だが、その設計思想だけは、確かにこの夜、生まれた。
(第58話:『設計思想』 ・ 完)
(次回「第59話:胎動」へ続く)




