第57話:『新律(しんりつ)』
──『大規模エラー』。
空を満たしていた調停者の電子音声が、ぶつりと、酷く不格好に途切れた。
世界のすべてが完全に停止した空間で、虚空の眼だけがガタガタと狂ったように明滅している。
「アレン……これ、失敗、したの……!?」
エレノアが、喉の奥から絞り出すような声を上げた。世界が崩壊に向かう前兆にしか見えなかった。
だが、右肩から血を流し、義手の隙間から煙を吐きながら、アレンは不敵に笑った。
「バカ言え。神は止め方しか知らねぇ。──職人は動かし方を知ってる」
アレンの言葉に呼応するように、彼が市場のガラクタだけで組み上げた『鉄の三脚』の奥底から、小さな、しかし決定的な音が響いた。
時計屋の切れたゼンマイが、神のシステムの歪みを吸い上げ、逆方向にゆっくりと巻き戻る。
──カチ。
それは、神が強いてきた絶対の静止を刻む音ではない。アレンが現場の材料で書き換えた、全く新しい、泥臭い『構造の律動』。
ほんの数秒──いや、永遠のようにも思える静寂だった。
──カチ。
空中で完全に停止していた、鳩の白い羽が、わずかに一ミリだけ下を向いた。
──カチ。
魚屋の店先、傾いた樽の縁で静止していた水滴が、重力に従ってぽたりと地面に落ち、小さな波紋を広げた。
──カチ。
パン屋の冷え切ったカウンターから、ほんのわずかに、白い湯気がゆらりと立ち上り始める。
──ゴォン……。
市場の遥か後方、静止していた中央広場の教会の鐘が、一度だけ、重々しく街に響き渡った。
カチ、カチ、カチ──。
市場の隅で、母親に手を引かれたまま固まっていた子供が、深く、一度だけ瞬きをした。
その瞬間、押し黙っていた世界の「音」が、津波のように一気に決壊した。
「──うわああっ!?」
「何だ、今のは!?」
人々のざわめき、馬車の轍の音、風の匂い、生活の雑音が一気に市場を満たす。おばあさんの細い身体は、エレノアの腕の中に完全に引き抜かれていた。おばあさんは何が起きたかも分からず、ただ呆然と自分の足元を見つめている。
「すごい……本当に、動いた……」
エレノアは、ただその光景に圧倒されていた。神のシステムを騙し、奇跡ではなく「技術」で世界を動かしてのけた。その事実への純粋な驚嘆が、彼女の声を震わせる。
だが。
「……あ、れん?」
ガチ、と重苦しい金属音がした。
役目を終えた鉄の三脚がバラバラに崩れ落ちると同時に、アレンの身体がぐらりと傾く。第二世代義手は完全に焼き付き、生身の右肩からは真っ赤な血が容赦なく溢れていた。
「……チッ。思ったより、持っていかれたな……」
アレンが緊張の糸を切らし、膝から床へ崩れ落ちそうになった、その刹那。
「バカ……! 無茶しすぎよ……!」
エレノアが、おばあさんを優しく床へ座らせるや否や、猛烈な勢いでアレンの身体を横から抱き留めた。
アレンを支える彼女の肩が、激しく震えている。世界が動き出した瞬間には出なかった涙が、アレンのボロボロの姿を見た瞬間に、堰を切ったように彼女の目から溢れ出していた。
「エレノア、お前……」
「うるさい、黙ってて! 死んだらどうするのよ……っ!」
必死にアレンの生身の左腕を自分の肩に回し、その重さを全身で支えるエレノア。二人の距離が、市場の喧騒の中で、確かに今までとは違う意味で縮まっていた。
だが、その喧騒の真上。
市場の人々が元の日常に戻り、誰も見上げていない虚空に、それ(・・)はまだ存在していた。
ガタガタと激しくノイズを明滅させる、不可視の、巨大な眼。
神のシステムは、怒ることも、呪うこともない。ただ、冷徹に、淡々と、目の前で起きた「論理矛盾」を処理しようとしていた。
『──例外、検出──』
『──対象個体の行動ログ、およびエネルギー波形、既存カテゴリに該当なし──』
眼は、市場の誰を見ることもなく。
ただ一人、エレノアに支えられながら不敵に自分を見上げる、アレンという「職人」の姿だけを、一瞬たりとも逸らさずに凝視し続けている。
『──未知項目として登録。……観測対象を更新──』
『──例外対象:【職人】アレン──』
『──保存、完了──』
すっ、と。
巨大な眼は、最後の最後までアレンだけを見つめ続けたまま、虚空の彼方へと静かに溶けて消えた。
街は何事もなかったかのように動き、人々は空の異変にさえ気づかない。
だが、誰にも見えない空の奥底で、たった一つだけ、紅い観測点が、最後までアレンを追い続けていた。
まるで瞬きをするように、一度だけ赤く脈動した。
(第57話:『新律』 ・ 完)
(次回「第58話:残熱と次の一手」へ続く)




