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『星を紡ぐ右腕 〜追放された魔導技師、壊れた右腕で世界を繋ぐ〜』  作者: 鍼灸師いのぴー
第3章:設計思想編

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第60話:『黒い鉄の解析』

 工房の机の上に、その「黒い鉄」は置かれていた。

 夕闇が迫る中、鈍い漆黒の塊は、周囲の光をすべて吸い込むようにそこに佇んでいる。


 戻るなり、作業着に着替えようとしたエレノアが火床ホドへ足を向けた。


「炉、温める? ふいごの準備なら──」


「触るな」


 アレンの低く冷徹な声が、薄暗い工房に響いた。


「え?」


「火は入れない。槌も持ってくるな。……こいつには、まだ指一本触れるな」


 アレンは上着も脱がず、ただ椅子を引き寄せると、黒い鉄の正面にどかりと腰を下ろした。

 その目は、獲物を品定めする肉食獣のそれではなく、未知の数式を前にした数学者のように、静かに、深く沈み込んでいた。


     ───


 それから、まる一日、アレンは動かなかった。


 食事も摂らず、一言も発しない。

ただ、机の上の漆黒の塊を、あらゆる角度から見つめ続けている。


時折、アレンは左手の指先で、鉄の表面を小さく叩いた。


──カン。


少し位置をずらし、また叩く。


──コン。


底面に近い角を、爪の先で弾く。


──キィン。


背後で息を詰めて見守っていたエレノアが、たまらずに声を漏らした。


「……音が、違う?」


「内部の密度が均一じゃない。普通の鉱石なら、不純物が混ざっていてもここまで明確に響きは別れない」


アレンは手元の羊皮紙に、木炭で細かな数字を書き殴っていく。

重量、重心の微妙な偏り、部屋の温度変化に対する表面の冷え方の速度、そして、鼻を近づけなければ分からないほどの、微かな熱を帯びた匂い。


「傷もそうだ。鍛冶師たちが最高の槌で叩いたと言ったな。だが、表面に歪みがない。叩かれた衝撃が、傷にならずに別の場所へ『逃げて』いる」


     ───


アレンは昨日、ジャンクハルで見た「断面」の記憶を脳内で引き出し、羊皮紙の上に木炭を滑らせた。


描かれたのは、樹木の年輪のような、あるいは流体のうねりのような、美しい幾何学模様。


「流れてる、って言ってたわね。でも、それって名工が何度も折り返して鍛え上げた『肌』とは違うの?」


「違う。鍛えた跡なら、打撃の応力で結晶が潰れる。だがこいつは違う。最初から、この方向に流れるように、一本ずつの『線の束』として配置されている」


アレンは木炭を置き、自分の左手を見つめた。

かつて作った魔導義手。人工の筋肉、神経を模した魔導回路。


「これは、鍛えられた跡じゃない」


     ───


エレノアは、アレンが描き出した奇妙な図面と、机の上の黒い鉄を交互に見つめた。


「でも……街の腕利きの鍛冶師たちは、誰もこれを加工できなかったんでしょう? 魔導の炎でも、最高の槌でも傷一つ付かなかったって、ガスパールさんは言ってた」


「加工しようとしたから失敗したんだ」


「え?」


アレンは静かに身を乗り出し、黒い鉄の滑らかな表面を人差し指でなぞった。


「鉄を加工する奴らは、素材を『力』で従わせようとする。熱して柔らかくし、槌で叩いて形を変える。だが、こいつにその常識は通じない。なぜなら──」


アレンの瞳の奥に、昏い光が宿る。


「──見た目は鉄だ。だが、こいつは『鉄という材料』じゃない」


「……っ、材料じゃない? 見た目も、重さも、こんなに金属なのに?」


「掘り出された時点で、すでに完成していたんだ。これは、誰かが最初からこの性能を発揮するために、人の目では捉えられないほど微細な階層構造で組み上げられた……ひとつの『構造物』だ」


エレノアは言葉を失った。


ただの金属の塊だと思っていた。


だがアレンは、それを“機械”でも“武器”でもなく、「誰かの思考が形になったもの」として見ていたのだ。

鉄を叩くための力任せな技術では、その思想を傷つけることすら叶わない。


     ───


「鍛冶師は全員、間違えた。こいつに槌を振るった時点で、負けが決まっていたんだ」


アレンは黒い鉄を見つめたまま、その口元を不敵に歪めた。


「じゃあ、どうするの……? 叩けないなら、どうやってアレンの新しい右腕にするの?」


エレノアの問いに、アレンは答えなかった。

ただ、机の上の図面を指先で撫でると、静かに黒い鉄へ視線を戻した。


「作る前に、作者になる」


鍛冶じゃない。


これは、対話だ。


この構造を設計した者の思考を、超える。

アレンの「設計思想編」が、静かに、だが確実に幕を開けた。




(第60話:『黒い鉄の解析』 ・ 完)

(次回「第61話:未知の作者」へ続く)

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