第55話:『解析』
アレンの目の前で、市場の光景が完全に「線」へと変貌しつつあった。
懐から引き抜いた方眼紙。慣れない左手で握った鉛筆が、狂ったような速度で、固体化した空間に走る銀色の光──制御線を模写していく。
「アレン、何を……」
「喋るな。耳を澄ませ」
アレンはエレノアの声を遮り、自身の右肩──第二世代義手の付け根に、生身の左手を強く押し当てた。
先ほど神の走査を叩き潰した鉄のノイズは、いまや大人しい微振動へと変わっている。いや、違う。義手は、この固体化した市場の空間から、目に見えない「圧力」を感知して震えていた。
チ、……チ、……チ、……。
普通の人間の耳には、絶対的な静寂しか聞こえない。だが、鉄の骨組みとワイヤーだけで組まれた無骨な義手は、空間の微弱な歪みと「共鳴」し、アレンの骨へと直接、微かな音を返してくる。
(──鳴いた)
アレンの目が細められる。
「八百屋の棚から魚屋の軒先……そこから時計屋の看板を抜けて、パン屋の排気筒へ回ってる。……繋がってやがる」
鉛筆が、方眼紙の上に恐ろしい精度で「線の回路」を繋いでいく。
バラバラに凍りついていたはずの市場のオブジェクトが、アレンの脳内で一つの巨大な絵を結ぶ。
果物屋も、飛び散った水滴も、鳩も、母親の涙も。
これら全ては、ただの背景ではない。一本の巨大な、気の遠くなるほど精密な「歯車列」だ。
「……おい、エレノア。ちょっと下がってろ」
アレンは途中で鉛筆を止めると、おばあさんの足元から伸びる光の線の、一本の「結節点」へとゆっくり右の金属指を近づけた。
そのまま、躊躇なく、爪先で光の線を横からコン、と弾く。
カチッ──。
市場のどこかで、何かが噛み合う音がした。
その瞬間、凍りついていた市場の全員の『影』が、不気味に、同時に数ミリだけカチリと横へ揺れた。
「今……市場全体が、動いた……?」
「人じゃねぇ。影だけが反応した」
アレンの視線が、おばあさんへ落ちる。
(……そういうことか)
(人間を固定してるんじゃねぇ……)
(重りとして、この時計を支えさせてやがる)
この巨大な装置を狂わせず、1分間で完全に静止させるための、最後の「楔」。おばあさんという存在は、システムにとって単なる「質量」に過ぎないのだ。
ならば、引き抜く方法は一つしかない。その確信が、アレンの鉛筆の速度をさらに加速させた。
義手の震えは、アレンが方眼紙に一本の線を書き終えるたびに、少しずつ弱くなっていく。
まるで装置そのものが、己の正体を暴かれていることを悟り、怯え始めたかのようだった。
──その時、市場の天井なき空から、再び電子の明滅が降り注いだ。
先ほどアレンの義手によって過去データの解析を阻まれた調停者の声が、冷酷な論理の構築を告げる。
『──過去データ破損につき、解析を一時中断──』
『──対象個体の行動ログより、新規カテゴリを生成──』
『名称──【職人】』
神のシステムが、初めて「アレン」というバグに、独自の定義を上書きした。
『──【職人】の戦闘能力を算出──』
『魔力保有量……0。固有加護……なし。肉体強度……基準値以下』
『総合戦闘危険度──【0】』
システムは、アレンを「無害」と断定した。剣も握れず、魔法も使えない、ただの方眼紙を持った人間。ゆえに、防衛機構を起動する必要なし。
戦闘能力、ゼロ。
そのはずだった。
だが──その「危険度0」の男が引く鉛筆の線は、神の不可侵領域を、内側から確実に解体しつつある。
「……ふぅ」
アレンの手が、止まった。
方眼紙の上には、数百人の静止した人間と、数万のオブジェクトを繋ぐ光の網──その「完全な設計図」が、泥臭いグラファイトの黒線で描き出されていた。
全ての線の噛み合わせを、アレンは上から下までじっと凝視する。
カタ、とアレンは鉛筆を置いた。
「アレン……? わかったの?」
不安げに覗き込むエレノアの前で、アレンの口元が、低く、獰猛に歪む。
「わかった」
アレンは、何もない虚空を見上げた。その視線の先には、この世界を縛り付ける、姿なき調停者がいる。
「おい、神様」
職人は、吐き捨てるように言った。
「お前、この時計──」
「一か所だけ、組み方を間違えてるぞ」
アレンは描き上げた図面の、ある一点を金属の指先で強く叩いた。
「普通の時計職人なら、ここに逃がし車は置かねぇ」
「こんな時計は──必ず止まる」
(第55話:『解析』 ・ 完)
(次回「第56話:身代わり」へ続く)




