第54話:『侵入』
針一本分の穴を抜けた瞬間、アレンとエレノアを包んだのは、濃密な「拒絶」の気配だった。
「これは……」
エレノアが息を呑み、自身の身体を見つめる。
一歩足を踏み出すたびに、目の前の空間が目に見えないガラスの薄膜を無理やり押し分けるように、ミシ……ミシ……と不快な軋み声を上げた。
そこは、ただ時間が止まった市場ではなかった。
魚屋の主人が、威勢よく笑った顔のまま魚を差し出している。その手元から飛び散ったはずの水滴は、まるで極上の宝石のように空中で一粒ずつ完全に固定されていた。羽ばたいた姿勢のまま虚空に縫い付けられた鳩。母親の服を掴んで泣く子どもの涙は、頬から数センチ離れた位置で、透明な球体のまま宙に浮いている。
アレンは、ふと目に留まった果物屋の店主の肩に、生身の左手を触れさせた。
(硬ぇ……。──いや、逃がしてやがる)
生身の柔らかさはもちろん、石の冷たさも、蝋人形の滑らかさもない。触れた圧力を、どこか別の場所へと完全に逃がしているような、絶対的な拒絶。それは物質の硬度ではない。変形することを許されない“時間そのもの”の硬さだった。
この一分間に存在する全てのオブジェクトが、世界という強固な檻のパーツとして、物理的に固体化しているのだ。
パキ……パキ……。
背後で、嫌な音が響く。
振り返れば、アレンが開けたはずの針穴が、硝子の破片が巻き戻るように、ものすごい勢いで自己修復を始めていた。
「アレン、穴が閉じるわ!」
「見るな! 走れ!」
アレンはエレノアの腕を掴み、凍りついた人々の隙間を縫うようにして市場の奥へと走り出した。
直後、工房へと続く唯一の退路は、完全に消失した。
──その時、市場の天井なき空から狂ったような電子のノイズが降り注ぎ、無機質だった調停者の声が処理落ちを起こした機械のように、激しく明滅しながら空間に響き渡る。
『──警告。世界法則外の個体を検知──』
『──これより、当該個体の解析を開始──』
走査──それは神のシステムが、初めて直面した「理解不能なバグ」を必死に定義しようとする、冷徹な情報収集だった。
『生体構造……不一致』
『魔力経路……不一致』
『神経接続……不一致』
目に見えない神の網の目が、アレンの脳髄へと容赦なく侵入してくる。
『再解析──機械生命体? ──否定』
『再解析──人類? ──否定』
『エラー。エラー。……過去データ取得を開始──』
ゴオオッ、とアレンの脳裏に、凄まじい濁流となって記憶が逆流した。
煙の立ち込める幼少期のジャンク工房。煤まみれで笑う頑固だった師匠の顔。そして──己の右腕が、肉飛沫と共に引き千切られた、あの最悪の日の光景。
神のシステムが、アレンの根源を暴き、書き換えようと記憶の深淵へ手を伸ばす。
「……なめ、んじゃねぇ……よ……ッ!」
アレンは歯を食いしばり、右肩のレバーを力任せに跳ね上げた。
ガチィィィン──ッ!!!
連動した第二世代義手の歯車が、火花を散らして噛み合う。神経も通っていない。魔力も流れていない。ただ鉄とワイヤーが擦れ合うだけの、無骨な雑音。その機械のノイズが、アレンの脳内へと凄まじい衝撃となって逆流し、神の走査線を強引にズタズタに引き裂いた。
『──過去データ、破損。解析……失敗──』
調停者の声に、明らかなノイズが混ざる。アレンは荒い息を吐きながら、鈍く光る右の金属指を激しく動かした。
「綺麗な回路ほど、こういう泥臭いノイズにゃ弱ぇんだよ。お前らのシステムにゃ、この鉄の擦れる音は翻訳できねぇ」
ハッキングを力技でねじ伏せ、アレンはさらに奥へと進む。
市場の中心。そこに、あの時と全く同じ姿勢で、買い出し袋を抱えたまま固まっているおばあさんがいた。
「おばあさん!」
エレノアが駆け寄ろうとする。しかし、その静止した瞳が、わずかに、本当にわずかに動いた。
彼女の口元から、掠れた、ひどく悲痛な声が漏れ出す。
「……来ちゃ、ダメだよ……。早く、お逃げ……」
「何を言ってるの、助けに来たわ!」
「違うんだ、お嬢ちゃん……。私は、もう……」
アレンはおばあさんの足元を見て、その言葉の意味を理解した。
おばあさんの影から、細い、細い銀色の光の線──「制御ワイヤー」のような光の帯が何十本も伸び、市場の地面、そして周囲の静止した人間たちの足元へと、網目のように複雑に繋がっていた。
「おい、エレノア。触るな」
アレンの声は、冷徹だった。
「どうして!? そこにいるのに!」
「このおばあさん一人を引き抜けば、全体の歪みのバランスが崩れる。その瞬間、この市場にいる全員が、時間の負荷に耐え切れずに消滅する。……そういう構造になってる」
おばあさんを救うということは、この市場の全員を殺すということ。
神のシステムは、人間一人の命を、全体の固定装置の「楔」として利用していた。
「そんな……じゃあ、どうすれば……」
絶望に立ち尽くすエレノアの横で、アレンはゆっくりと周囲を見回した。
固体化した空間。張り巡らされた光の制御線。その先で、何百人もの人間たちが不気味なまでに連動して静止している。
アレンの目が、その全ての「噛み合わせ」をじっと凝視する。
「違う」
アレンは、ぽつりと呟いた。
「ここは、時間が止まってるんじゃねぇ」
アレンは懐から鉛筆を引き抜き、慣れない左手で、方眼紙へ光の線の配置を激しく書き写し始める。
「この市場そのものが──」
ガリ、と鉛筆が止まる。
「一つの巨大な、装置だ」
(第54話:『侵入』 ・ 完)
(次回「第55話:解析」へ続く)




