第53話:『一点突破』
二時十五分。
銀時計の長針が境界線を越えた瞬間、世界から一切の『音』が消滅した。
エレノアの白銀の髪が、風に揺れた不自然な角度のままピタリと空中で静止する。工房の窓から差し込んでいた光の粒子も、巻き上がった微細な砂埃も、まるで琥珀の中に閉じ込められたようにその場に固定されていた。
調停者が執行する、完全なる時間の切り取り。
すべてが凍りつく絶対の檻の中で──。
ガチリ、と重々しい真鍮の歯車が鳴った。
「……ふぅーっ」
アレンは、ただ一人、深く息を吐きながら動いていた。
その右肩に嵌め込まれた真鍮の義手。神経も繋がず、神の奇跡も通さない、純粋なワイヤーとレバーだけの『第二世代』。世界の時間を止める神の信号すら、この無骨な鉄塊を縛ることはできない。
「アレン……? 私、動けな……」
思考だけを辛うじて残されたエレノアの瞳が、驚愕に揺れる。
「喋るな。魔力だけ回してろ」
アレンはゆっくりと腰を落とした。
聖印の絶縁板を幾重にも巻き付けた真鍮の太針。その切っ先を、空間の継ぎ目──最も激しくねじれている『黒い一点』へと、寸分の狂いもなく向ける。
肩の筋肉を爆発的に収縮させ、太い鋼鉄ワイヤーを一気に引き絞った。
「いけぇ……ッ!!」
ガシャアン──ッ!!!
鼓膜を叩く金属音。だが、太針は世界の壁を貫かなかった。
凄まじい衝撃波がアレンの左腕を襲い、真鍮の指先が「ギギギ」と悲鳴を上げて軋む。強烈な反動でアレンの身体が数歩後ろへ弾き飛ばされた。
「アレン……!」
「……なるほどな。硬ぇなんてもんじゃねぇ。世界そのものを『壁』にしてやがる」
アレンは肩を荒く上下させながら、不敵に口元を歪めた。
普通ならここで絶望する。神の壁は、やはり人間には傷一つつけられない絶対の存在なのだと。
だが、アレンは笑っていた。
「違うな。壊れたんじゃねぇ。……しっかり『情報』が取れた」
アレンは右腕を動かし、手元に戻った真鍮の太針の先端を凝視した。
絶縁板の仕込まれた先端は、無惨にもぐにゃりと押し潰され、歪な形に変形している。完全に「失敗」の形だった。
「硬いんじゃねぇ……逃がしてやがる」
「逃がす……?」
「衝撃を受けた瞬間、別の場所に流してる。壁じゃねぇ。こいつは……巨大な歯車だ」
一発目の打撃で、世界の歪みがどう走るか。その応力線の正体を、アレンの脳は完全に見切っていた。歯車の噛み合わせが最も突っ張っている『逃げ道の終着点』が、どこにあるのかを。
「なら、その逃げ道を塞いでやる。全部壊す必要はねぇ。……ここだ」
アレンは左手でタガネを引っこ抜くと、潰れた太針の先端を迷いなく叩き落とし、さらに鋭利な『楔』へとその場で叩き直した。
再び、腰を落とす。狙うのは先ほどの座標の、わずか数ミリ右。
右肩のレバーが跳ね上がり、純機械式のワイヤーが限界を超えて軋む。
二発目の打撃が、世界の理へと解き放たれた。
ドンッ……!!
音は、驚くほど小さかった。
しかし、世界が、激しく震えた。
巨大な壁が崩壊したわけではない。だが、アレンが狙い澄ましたその極小の座標に──パキリ、と硝子にヒビが入るような音が響き、たった『針一本分』の小さな穴が開いた。
「……穴? 嘘、あの壁に……!?」
エレノアの声が響く。アレンは息を吐き出し、真鍮の腕を下ろした。
「ああ。勝ったわけじゃねぇ。神様のシステムをぶっ壊すなんてのはおこがましい。だが……泥棒が入るための『侵入経路』なら、これで十分だ」
その時だった。
針一本分の、暗黒の穴の向こう側から。
ざあ、と色彩の狂った市場のノイズと共に、掠れた、掠れた、老婆の声が漏れ聞こえてきた。
『……やっと、誰か……来てくれたんだねぇ……』
ずっと、あの終わらない一分間の中で、孤独に助けを待ち続けていた市場のおばあさんの声。
エレノアが息を呑む。アレンの技術が、ついに神の檻に「人間の手」を届かせたのだ。
──その瞬間。
工房の空間全体に、これまでとは明らかに違う、電子の狂ったような不快なエラー音が鳴り響いた。
虚空から響く、あの無機質だった調停者の声が、初めて──明確に揺らぐ。
『──警告。警告──』
『空間構造の損傷を確認。……解析不能。この個体は、世界法則外の手段を使用しています』
初めて神のシステムにエラーを吐かせた。
その警告音をBGMにしながら、アレンは鈍く光る真鍮の義手を「ガチャリ」と鳴らし、獰猛にニヤリと笑った。
「そりゃそうだろ。神様が想定してんのは、神様より強ぇ奴だけだ」
アレンは太針を握り直し、その小さな穴を見据える。
「まさか、自分の作ったルールで遊ぶ『職人』がいるなんて、思わねぇよな」
──想定外だろ?
(第53話:『一点突破』 ・ 完)
(次回「第54話:侵入」へ続く)




