第52話:『一分の壁を穿て』
二時十四分から、二時十五分へ。
じわり、と動き出した銀時計の長針を見つめながら、アレンは己のちぎれた右肩の止血処理を終えていた。
ボロ布を歯で噛み締め、左手一本で結び目を引き絞る。激痛で視界がチカチカと明滅したが、アレンの脳は、驚くほど冷徹に冴え渡っていた。
「アレン、次の『一分』が切り取られたら、私たちは……」
エレノアが青ざめた顔で、刻一刻と迫る時計の針を見上げる。
「ああ。俺たちもあの市場のババアと同じ、終わらない一分の檻の中に放り込まれる。あの腕の暴走は、俺たちの足を止めるための調停者側の時間稼ぎだ」
アレンは机の上に溜まった血を乱暴に袖で拭うと、左手一本で、真っ白な設計図を広げた。
調停者は強い。聖印の加護すら力任せに押し切る、神のごとき上位出力。まともに戦えば一瞬で圧殺されるのは、先ほどの右腕の暴走で嫌というほど理解させられた。
だが──だから何だというのか。
「敵が規格外の化け物なら、正面から殴り合う必要はねぇ。……奴らは『ルール』で動いてる。完璧なシステムであればあるほど、設定された法則からはみ出すことはできねぇ。なら、そのルールを利用して裏をかくまでだ」
アレンの目が、狂気にも似た職人の鋭さを取り戻す。
「まず、奴らは俺の神経信号をハッキングして右腕のギアを乗っ取った。なら、神経なんて繊細なもんを繋ぐからいけねぇんだ。そんな隙があるから神様の電波を拾っちまう」
アレンは引き出しの奥から、油の抜けた古いワイヤーの束と、ずっしりと重い鉄製のレバーユニットを引っ張り出し、机に叩きつけた。
神経直結による、生身と変わらない滑らかな駆動を綺麗さっぱり諦める。自分の肩の筋肉の収縮、その物理的な動きだけでワイヤーを引っ張り、複数の歯車を介して指先を動かす『純機械式』の義手──それがアレンの導き出した答えだった。
「反応は鈍くなる。指先の細かいニュアンスも死ぬ。だがな……」
アレンはペンチを口に咥え、左手だけでワイヤーの端を固定し、強引に真鍮のフレームへ巻き付けた。
「これなら、どれだけ偉い神様だろうが、乗っ取るための隙がねぇ。完全に物理だけで独立した、絶対に裏切らねぇ『第二世代』だ」
だが、作業は困難を極めた。
左手一本での組み付けは、百戦錬磨のジャンク屋であるアレンをしても、遅々として進まない。ワイヤーを引けば真鍮のフレームが歪み、歯車の噛み合わせが「ガガッ」と不快な音を立ててロックしてしまう。
「クソが……ギアのクリアランスが足りねぇ」
アレンは舌打ちし、やすりを左手で握り、真鍮の歯車の歯を一枚ずつ削り直した。
チ、チ、チ……と壁の銀時計が冷酷に時を刻む音が、工房の静寂を急き立てる。焦りで手元が狂い、やすりが指をかすめて血が滲む。
「アレン、私が押さえるわ!」
エレノアがたまらず身を乗り出し、アレンの代わりに真鍮のフレームを両手で全力で固定した。
「……助かる。そのまま動かすな」
アレンはやすりを捨て、削り出した歯車を再び組み込む。レバーを引く。ワイヤーが軋み、今度は噛み合った。ガチリ、と五本の金属指が不器用にくぼみを模して閉じる。
だが、これだけでは調停者の干渉を防ぐ盾としては片手落ちだ。アレンは視線を机の上に置かれたエレノアの手に移した。
「エレノア、次はお前の番だ。その掌の聖印を『魔法』として放つのはやめろ。そんな使い方をしてるから、調停者の巨大な出力に押し負けるんだ」
「え……? じゃあ、どうすればいいの?」
「『素材』として使うんだよ。そもそも聖印なんてのは、神様の落書きじゃねぇ。世界の理を捻じ曲げるための、ただの設計図だ。設計図ってのは情報だ。情報なら、金属に刻めば部品になる」
エレノアは息を呑んだ。教会で神聖なものとして扱われてきた聖印を、アレンはただの「都合のいい電子部品」として扱おうとしている。しかし、その言葉には絶対的な説得力があった。
「この魔力遮断の特性を持つ金属板にお前の聖印の術式をトレースしろ。そこに魔力を流せば、調停者のシグナルだけをピンポイントで遮断する最高の『絶縁板』が出来上がる」
「分かったわ……やってみる!」
エレノアはアレンの指示に従い、タガネと金槌を握った。己の記憶にある聖印の紋様を、魔力遮断の黒ずんだ金属板へと、一叩きずつ正確に刻み込んでいく。
金属を打つカン、カン、という高い音が工房に響く。ただ祈るだけでは、調停者の巨大な力に押し潰される。だが、アレンの技術で回路として固定し、機械の盾として組み込めば、神の干渉すらシャットアウトする強固なシステムへと昇華されるのだ。
長針が、二時十四分から十五分への境界線を半分以上超えた。
アレンは新しく組み上がった無骨な真鍮の腕を、己の右肩のジョイントへと力任せに押し込んだ。
ガシャリ──ッ!!
重々しい金属音が響き、第二世代義手が接続される。
アレンが右肩をぐっと後ろにすぼめると、内部のワイヤーがギチギチと引っ張られ、連動した剥き出しの歯車が回転し、金属の指先が「ガチャ……ガチャ……」と鈍い音を立てて閉じた。
「アレン……動く?」
エレノアが祈るように尋ねる。アレンは新しい腕を見つめ、獰猛に口元を歪めた。
「動くかどうかじゃねぇ。……二度と『乗っ取られねぇか』だ。テストは合格だ。調停者の電波は一ミリも入ってこねぇ」
アレンはそのまま、二時十五分を指しかけている空間の『継ぎ目』へ向かって歩き出した。
色彩の狂った市場の陽炎が、すぐそこまで迫っている。調停者が作り出す、世界を切り取る巨大な断絶の壁。
「アレン、その腕と絶縁板で……あの大きな檻を壊せるの?」
エレノアの問いに、アレンは静かに首を振った。
「いや。壊せねぇ」
一瞬、工房の中に絶望的な沈黙が流れる。
しかし、アレンは狂った時間の壁の前に立ち、その陽炎を冷徹な目で見つめながら、懐から一枚の古い方眼紙を取り出した。
アレンは慣れない左手で鉛筆を握り、迫り来る時間の歪みを見つめながら、素早く図面を描き始めた。
ただの四角ではない。歪みの中心から放射状に広がる、無数の細い線。
「アレン……何をしてるの?」
「応力線を引いてるんだ。どんなに強固に見える構造物でも、力が均等にかかっているわけじゃねぇ。必ず、全体の歪みが集中して、引き千切れそうになってる『構造の弱点』がある」
アレンの鉛筆が、図面の一点に、激しく黒い円を描いた。
そこは、市場のおばあさんが立っていた場所の、わずか数センチ上空。時間の継ぎ目が最も激しくねじれている、極小の座標。
「見えた」
アレンは鉛筆を投げ捨てると、聖印の絶縁板を何重にも巻き付けた、特製の『真鍮の太針』を、第二世代の右腕でがっちりと掴み取った。
「あんな巨大な世界の壁、正面からぶっ叩いたってこっちの武器が砕けるだけだ。ガラスを割る時だって、真ん中を力任せに叩く馬鹿はいねぇ。一番負荷がかかってる一点に、全てのエネルギーを集中させる」
ワイヤーが限界まで引き絞られ、真鍮の義手がギギギと鳴動する。
「全部壊す必要はねぇ。……針一本通る穴があれば、そこからいくらでも抉り開けられる」
アレンはゆっくりと腰を落とした。
真鍮の太針の切っ先が、時間の歪み──その黒い一点へと、静かに震えた。
「……行くぞ」
そして銀時計の長針は、無情にも二時十五分へ届こうとしていた。
(第52話:『一分の壁を穿て』 ・ 完)
(次回「第53話:一点突破」へ続く)




