第51話:『調停者の影』
──ギギ、ギ、ギギッ……!
不快な金属の摩擦音が、静まり返った工房に響き渡っていた。
アレンは自分の右腕を左手で必死に押さえつけていたが、真鍮の義手は、彼の意志を完全に拒絶して駆動し続けている。恐ろしいほどの力だった。
「アレン! 腕が……!」
「クソ、俺の神経を無視して、外から直接回路を書き換えられてやがる……!」
アレンの右腕は、棚にある工具を取ろうとしているのではなかった。
その五本の指は、先ほど沈黙したばかりの『測定器』へ向かって、まるで獲物を握り潰そうとする肉食獣のように、じりじりと、しかし確実に、強引に手を伸ばしていく。
調停者は、自分たちを観測したこの機械を、アレンの肉体を使って完全に破壊しようとしているのだ。
アレンは力で抗うのをやめた。筋肉の力では、上空から神経を乗っ取っている調停者の出力には勝てない。
──俺は職人だ。
アレンは冷徹に、自分の身体を「機械」として見つめ直した。
「エレノア、オイルと細口のペンチを!」
「え、ええ!」
エレノアが差し出したペンチを左手でひったくるように受け取ると、アレンは己の右肘の継ぎ目に、躊躇なくその先端を突き立てた。
真鍮の装甲プレートを強引にこじ開け、内部の機構を露出させる。
「止まれ……ッ!」
肉を裂くような痛みが走るが、アレンは眉一つ動かさない。
肘の奥深く、高速で狂い回り、右腕に強制的な駆動力を伝えている『主動歯車』──そのたった一枚の隙間に、ペンチの先を突っ込み、力任せに引き抜いた。
ガシャン……!!
激しい火花と共に、肘の固定ピンが弾け飛ぶ。
駆動力を失った真鍮の右腕は、肩の付け根から切り離され、重量感のある音を立てて作業机の上に転がった。
「はぁ、はぁ……。……切り離して、正解だったな」
右肩からだらりと血を滲ませながら、アレンは荒い息を吐き、机の上の腕を見下ろした。これでひとまずは、動きを止められたはずだった。
しかし。
カチ。
静寂の中、机の上の「腕だけ」が、不気味な音を立てた。
「……動いた?」
エレノアが、引きつった声で呟く。
「いや……そんなはずはねぇ。動力の歯車は抜いたんだぞ……」
アレンの言葉を塗り潰すように。
──ガリッ。
真鍮の指先が、机の木肌を深く掻きむしる、生々しい音が響いた。
カチ……カチ……ギギ、ギ……。
「な、に……!?」
エレノアが悲鳴を上げる。
主動歯車を失い、ただの金属の塊になったはずの真鍮の右腕が、五本の指を蜘蛛の足のように歪に折り曲げ、自律して這い始めたのだ。
腕は、血の跡を引きずりながら、なおも測定器の残骸へと向かって進んでいく。
「聖印よ、静まりなさい……!」
エレノアがたまらず腕を伸ばし、己の掌に刻まれた聖印から光の障壁を展開して、這い回る真鍮の腕を机に押し付けた。
だが、ジジジ……と聖印の光が激しく明滅し、エレノアの顔が苦痛に歪む。
「くっ……力が、強すぎる……! 聖印の拒絶が、押し負けるなんて……!」
調停者の出力は、聖印の加護すらも上回っている。この世界における絶対的な上位存在としての格の違いが、その腕一つから生々しく伝わってきた。
「エレノア、下がれ!」
アレンは左手で重い鋳鉄の刻印箱を掴むと、這い回る右腕の上から、叩きつけるようにそれを被せ、さらに上から幾重もの魔力遮断の鎖を巻き付けた。
箱の内部から『ガン、ガン』と激しく内壁を叩く音が何度も響き、やがて、完全に静まり返った。
アレンとエレノアは、肩を震わせながら互いの無事を確認した。
最悪の襲撃は防いだ。腕は封印した。
だが、アレンがふと、工房の壁に掛けられた『銀時計』へ目を向けた瞬間、彼の全身の血が凍りついた。
──二時十四分。
昨夜から、街の時間の「継ぎ目」として、一歩も動かずに止まっていたはずの長針が。
じわり、と。
信じられないほど不気味な足取りで、次の『二時十五分』を指そうと、動き始めていた。
「……おい、嘘だろ……」
アレンの顔から、完全に色を失っていく。
調停者は、通信を切るためだけに腕を動かしたのではない。
「一分が……増えてやがる」
「まさか……次の一分まで、切り取る気か……!」
(第51話:『調停者の影』 ・ 完)
(次回「第52話:一分の壁を穿て」へ続く)




