第49話:『剥離の第一歩』
ジャンク屋の薄暗い工房に飛び込むなり、アレンは上着を乱暴に脱ぎ捨てた。
煤けた作業机に真鍮の右腕を叩きつけるようにして座り込み、拡大鏡のレンズを素早く引き寄せる。背後では、紋章の暴走と世界の圧力に耐え抜いたエレノアが、肩で荒い息を吐きながら壁に寄りかかっていた。その顔は青ざめ、疲労困憊であることは明白だった。
「アレン、私、少し──」
「寝るな。今夜が勝負だ」
アレンは振り返りもせず、冷徹な、しかし異様な熱を孕んだ声で遮った。エレノアはその気迫に圧され、頼りなげに頷くと、必死に眠気を堪えてアレンの椅子の横へと歩み寄った。
作業机の黒ずんだ木目の上に、ぽつんと置かれた薄く透明なガラスの欠片。
アレンはそれを精密ピンセットで慎重に挟み、顕微鏡の対物レンズの下へと滑り込ませた。片目を細め、倍率のダイヤルをギチギチと回していく。
それは、ただのガラスではなかった。
アレンがピンセットの角度をわずかに変えるたび、レンズの奥の映像が、まるで万華鏡のようにその姿を変えるのだ。
香ばしく焼き上がった『七個目のパン』が棚に並ぶ光景。鍛冶屋の弟子が親方に向かって『槌を貸してくれ』と手を伸ばす一瞬。さらには、広場の隅を横切っていく二匹の野良犬の姿──。
それはすべて、あの四十六話と四十七話で、アレンたちが街の歪みとして執拗に追い求めてきた「編集された記憶」の断片そのものだった。
「……やっぱりだ。この欠片は、あの場所に置き去りにされた“一分間”そのものなんだ」
エレノアが息を呑む横で、アレンはさらに大胆な行動に出た。
ピンセットを動かし、そのガラス片を、自分の左手に握られていた銀時計のガラス面の上へと直接、そっと載せたのだ。
──カチ。カチ。カチ。
昨夜から、探知の最中も頑なに凍りついていたはずの針。それが、明確な駆動音を立てて動き始めた。
二時十四分一秒で止まっていた秒針が、二秒、三秒、四秒と、確実に時を刻んでいく。だが、それもほんの数秒のことだった。ガラス片がわずかにずれると、時計は再び、冷たくその動きを止めた。
銀時計と、このガラス片。二つは完全に「同じ世界の素材」として同期している。
アレンの口元が、獲物を捉えた職人のそれへと歪んだ。
「やっぱりだ」
「アレン……?」
「この欠片は証拠じゃねぇ。──鍵だ」
そこからのアレンは、文字通り周囲の時間を忘れたかのように手を動かし始めた。
工具箱をひっくり返し、真鍮の細い歯車や、魔力を伝導する極細の銀線を机の上にぶちまける。
「アレン、一体何を作るつもりなの? 歪みの向こうと、話を……」
「声なんざ後だ。まずは、どこまで同期してるか測る」
アレンは真鍮の指先で銀線を巻き付けながら、冷たく言い放った。
アレンがやろうとしていること──それは、己の『真鍮の腕』、時間を同期させる『銀時計』、そして世界のパーツである『ガラス片』を強引に組み付け、一つの未知の「測定器」へと鋳直す作業だった。
小さなネジを締める指先には、いつものジャンク屋としての冷静さと、調停者のシステムを叩き潰そうとする執念が満ちていた。
「次は、継ぎ目を開くんじゃねぇ。──剥がす」
調停者が切り貼りした世界の皮膜を、職人の道具で強引に引き剥がす。そのための楔を、今ここで作っているのだ。
だが、世界のパーツは一筋縄ではいかなかった。
組み立てた試作品のレバーを押し下げた瞬間、バチチッ! と激しい火花が飛び散った。銀線が瞬く間に赤熱し、組み込んだばかりの真鍮の歯車が一枚、無残に焼き切れて弾け飛ぶ。
「チッ……耐久が足りねぇか」
アレンは顔色ひとつ変えず、使い古したヤスリを掴んだ。手元にあった予備の真鍮板から、新たな歯車をその場で猛烈な速度で削り出していく。金属の粉を吹き飛ばし、噛み合わせをコンマ数ミリ単位で微調整し、再び強引に組み込んだ。奇跡を待つのではない。職人の腕で、無理矢理にでも成功させるのだ。
深夜、二度目のレバーをカチリと押し下げる。
ジ、ジジ……と、不気味な細工物から、エレノアの紋章と同質の、しかしより鋭利な魔力の波動が放たれた。今度は壊れない。歯車は静かに、しかし力強く噛み合っている。
その瞬間、顕微鏡のレンズを覗き込んでいたアレンの身体が、硬直した。
ガラス片の中に映る市場の景色──完全に静止していたはずのその映像の中で、パン屋のおばあさんが、ゆっくりと『七個目のパン』を棚へと並べた。時間が、動いている。
だが、真の異常はその直後に起きた。
パンを棚へ並べ終えたおばあさんは、本来ならそのまま次の作業へと移るはずだった。
なのに。
動いたのは、首だけだった。
身体はパンの入った籠を片付けるという“時間の流れ”を愚直に続けているはずなのに、首だけが、生物としてはあり得ない不自然な速度で、ゆっくりとこちらを向いていく。
色彩の狂った、ねじれた世界の奥から、おばあさんの濁った瞳が、顕微鏡のレンズ越しにアレンをまっすぐに見返してきた。
レンズと視線が、カチリと噛み合った。
アレンも、横から覗き込んでいたエレノアも、総毛立つような恐怖に息を止めた。
ガラスの向こう側の存在が、じっとこちらを凝視しながら、声もなく口元だけを動かす。
『……き、こ、え、る、か……?』
アレンは引き剥がすように息を呑んだ。
「違う……」
「何が……?」
エレノアが震える声で尋ねる。
アレンは、なおも顕微鏡を見据えたまま、冷たい汗を滲ませ、低く呟いた。
「俺たちが覗いてるんじゃねぇ。向こうも、こっちを観測してる」
(第49話:『剥離の第一歩』 ・ 完)
(次回「第50話:閉ざされた一分の住人」へ続く)




