第48話:『継ぎ目の向こう側』
それは、空間に浮かぶ、目に見えない「世界の裂け目」だった。
陽炎のように歪むその場所を前に、アレンは息を潜めた。
「アレン……」
「……動くな」
エレノアの制止を低い声で遮り、アレンは真鍮の右腕をゆっくりと伸ばした。
人体の肉では決して触れられぬ領域。世界の外側のパーツを孕んだその指先が、歪みの中心へと触れた、その瞬間だった。
──ビリッ。
乾いた絹を引き裂くような、あるいは分厚い紙を折り曲げるような異音が、アレンの脳裏に直接響いた。
真鍮の指先が、空間の向こう側へと数センチメートルだけめり込む。だが、それ以上は進まない。
ガラスの壁があるわけでも、目に見える障壁があるわけでもない。ただ、そこにある“存在そのもの”が、アレンの身体を、その質量ごと猛烈な力で押し返してくるのだ。
「……硬ぇ」
アレンは奥歯を噛み締め、真鍮の腕にさらに力を込めたが、指先から伝わるのは圧倒的な拒絶の感触だけだった。触れることはできる。だが、決して越えられない。世界を隔てる境界線が、そこには厳然と横たわっていた。
「っ、アレン、私の紋章が……!?」
エレノアがたまらず駆け寄ると、彼女の胸元の紋章が、服を焦がさんばかりの激しい熱を帯びた。
その熱量に呼応するように、アレンの正面の歪みが、じわりと左右に押し広げられる。
引き裂かれた世界の隙間から、アレンの目は、その「向こう側」を確かに捉えた。
そこには、今自分たちが立っている市場と、全く同じ景色が広がっていた。だが、何かが決定的に狂っている。色彩はまるで油絵の具を塗り潰したように酷くねじれ、光は本来届くはずのない逆方向から、不自然な影を落として照射されている。その不気味な光景の中を、色のない人影のようなものが、無音で蠢いていた。
刹那、その僅かに開いた隙間の奥から、何かが聞こえた。
「…………」
風の音ではない。機械の駆動音でもない。
それは、ひどく遠くから響くような、だが確かにそこに存在する──誰かの「人間の声」だった。
聞き取ることはできない。だが、その声の主が、この世界の住民ではないことだけは、直感的に理解できた。背筋を冷たい汗が伝う。
その時、アレンの左手に握られていた、あの銀時計に異変が起きた。
昨夜から、そして今この瞬間まで、頑なに『二時十四分』を指したまま凍りついていたはずの針。それが、歪みの前で激しく震え──
──カチ。
明確な音を立てて、秒針が『二時十四分一秒』へと動いた。
アレンの目が驚愕に見開かれる。
この継ぎ目の向こう側では、時間は止まってなどいない。今もなお、次の瞬間へと時が流れている。
つまり、街から奪われた、あの誰も観測できなかった「一分間」は、消滅したのではない。この継ぎ目の向こう側に、今も確かに、リアルタイムで存在し続けているのだ。
だが──世界は、その侵入者を許さなかった。
空間の歪みが、まるで意志を持つ生き物のように、悲鳴に似た金属音を立てて猛烈に縮み始める。
「アレン! 閉じるわ!」
エレノアが激痛に耐えるように胸元を押さえて叫ぶ。彼女の紋章から立ち上る魔力が、激しく暴走しかけていた。
ギチ、ギチギチギチ、とアレンの真鍮の右腕が、引き裂かれそうなほどの圧倒的な圧力に軋みを上げる。内部の歯車が悲鳴を上げ、結合部から火花が散った。強固な世界の復元力が、アレンの腕ごと全てを押し潰そうと迫る。
「くそっ、これだけの力で……!」
限界だった。アレンは顔を歪めながら、力任せに右腕を引き抜こうとした。
その、腕が世界から抜け落ちる最後の刹那。
真鍮の指先の、ほんのわずかな隙間に、何かが強烈に引っ掛かった。
アレンは歯を食いしばり、残された全腕力でそれを毟り取るように、腕を引き抜いた。
ズゥン、と大気が重く震え、空間の歪みが瞬時に閉じる。
市場は何事もなかったかのような、平穏な喧騒へと戻っていた。カブを売る声も、魚を捌く音も、何一つ途切れてなどいない。
アレンは肩を荒く上下させ、膝をつきながら、自分の真鍮の右腕を見つめ──そして、その指先に「それ」が固く挟まっていることに気づいた。
紙切れでも、布切れでもない。
それは、爪ほどの大きさの、薄く透明なガラスの欠片のようなものだった。
アレンは欠片を、眩しい朝の光へと透かした。エレノアもまた隣で息を呑み、その表面を見つめる。
透明な欠片の表面に、かすかな映像が映り込んでいた。
それは、先ほど歩いたばかりの市場の景色。だが、そこには、ほんの少し前におばあさんが必死に探していた、香ばしく焼き上がった『七個目のパン』が確かに並んでいた。
エレノアは思わず息を止めた。誰にも証明できなかった「奪われた一分」が、今、アレンの指先で静かに光っている。
「世界は、消されてねぇ……」
アレンは真鍮の指先で、その記憶の残骸をそっと摘まみ直した。
「……切り取られてる。俺たちは、貼り直された世界を歩かされてるだけだ」
(第48話:『継ぎ目の向こう側』 ・ 完)
(次回「第49話:剥離の第一歩」へ続く)




